June
4-1 会話
梅雨に入った筈なのに、殆ど雨が降っていない。とはいえ空は曇天続きで湿気も高く、夏が来る事を予感させる、過ごしづらい日々が続いていた。
夏服に変わったものの、それを理由にエアコンはまだ入っていない。公立校の悲しい現実である。窓を開けているとはいえ、人間がいればその分教室の温度は上がる。だったら―—という事で、放課後、修一は屋上にいた。滅多に人が来ず、風通しも良い。バイトまでの時間を過ごす、お気に入りの場所の一つだ。
非常階段の建家に寄りかかって座り、ぼんやりと雨が落ちそうで落ちてこない空を眺める。
「―—何やってるの?」
修一は、声の主を見た。サキでない事は分かっていたから、その点は安心だ。同じクラスの女子、
よぅ、と修一は手を挙げる。
「まだ、部活なんだ?」
「夏まではね。大会があるのよ」
3年生になれば、部活毎に時期のズレはあれど随時引退して、受験に集中していく。帰宅部の修一には、関係無い事ではあったが。
どういう練習システムなのかは知らないが、吹奏楽部は放課後になると校舎の外の所々で分かれて練習をしている。楽器を吹く翠の姿は、修一も何度か眼にしていた。
「ここで、練習すんの?」
「——と、思ったんだけどね?」
翠の逆に問うような言い方に、修一は腰を上げようとする。すると翠は慌てて、
「いいわよ、別に。どこか、探すから」
「探すって……」
「いつ降ってくるか、分からないでしょう?」翠は空を指し、「屋根があって、あまり人がいなそうな所——」
「ここが一番だよ、それだったら」
修一は立ち上がった。「校舎の中で独りで居られる場所を、誰よりも知ってる俺が言うんだから、間違いない」
その言葉に、翠は何とも言えない微妙な表情で応える。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
翠は屋根があるギリギリの、建屋の端に椅子を広げた。
「……真ん中に来れば?」
「追い出すって感じになるのは、嫌だもの」翠は頑固に言い張る。「ちょっと、うるさくなるけど」
そこまで言われると、移動するのが悪い事のように思えてしまう。準備を始める翠を横目で見つつ、修一は立ったまま壁にもたれて、持っていたパックのジュースを啜る。
「——放課後って、いつもここにいるの?」
一瞬、翠が自分に向けて言ったのだという事が理解出来なかった。
「ん? ああ―—」
「いい所ね、ここ。涼しいし、人も来ないし。こんな所があったなんて、知らなかったわ」
「まあ―—そうだな」
言われるなら、独りでこんな所で時間を過ごしているなんて何て陰気なヤツなんだ、という感じだと想像していた修一は、思わぬ褒め言葉に戸惑った。冷静に考えれば、褒められたのは修一ではなく、この場所なのだが。
「ええと―—それ、いいのか、練習。ラッパの―—」
「トランペット、ね」
翠は有無を言わせぬ調子でケースから取り出したそれを突き出し、修一の言葉を遮る。
「ああ、トランペット、な」
「よし。——まぁ、練習はいつでもできるけど、神室君と話す機会なんて、滅多にないじゃない? だったら、そっちの方を優先しようかなって」
そんな希少動物のような扱いはどうなんだ、と思ったが、日頃の自分を振り返った時に、反論する余地がないのも確かだった。
片桐翠。特に修一と親しい訳ではない。単なるクラスメートだ。ただ少し異なるのは、1年の時からずっと同じクラスである、という事。とはいえ、修一の記憶の中で、翠とまともに会話をした事など、用事がある時限定で数える程しかない。それでも顔を見かける度に親近感というか、仲間意識のようなものをどこかに持っていた。それは修一の、本当に一方的な感情でしかなかったのだが。
「……俺って、嫌なヤツかな」
修一の言葉に翠は首を傾げ、
「嫌っていうか……何て言うのかな。『俺に話しかけんなオーラ』みたいな? そんな感じのモノは出してるかもね」
そう言って、笑った。
修一の家庭の事情を知っているのは担任の教師位で、少ない友人であっても彼が一人暮らしをしている事すら知らない。別に隠しているつもりは無い。言う必要が無い、それだけの事だ。だが、言う必要が無いような人付き合いをするようにしていた―—という事も事実かもしれない。その事を、見透かされたような気がした。
「話しかけるな、とかそういうつもりは―—無い、つもりなんだけどな」
「え、案外寂しがりやだったり?」
からかうような翠の言葉に、
「そんなところ」
と短く答えて、次の瞬間後悔した。……こういう感じが、良くないのだ。分かっているのに。翠は一瞬困惑の表情を浮かべて、口を開きかけたが、言葉を発する事は無かった。代わりに、手にしたトランペットをくるっと回した。
「何、それ。カッコイイな」
思わず修一は声をあげる。
「本当は、良く無いんだけどね」そういいつつ、翠はもう一度回す。「私、これが一番やりたくて、吹奏楽部に入ったの。昔、何かの映画で見て格好良くって」
「それができると、やっぱり上手に吹けるように―—」
「なるワケないでしょ」
ですよね、と口の中で言いながら、修一はジュースのパックを吸い潰す。
「大会って、いつなの」
「夏休みに入って、すぐかな。それが終われば、受験に集中ね」
受験、か。
「——やっぱり、音楽関係の学校とか?」
「ないない、それはないって」修一の言葉に翠は苦笑いのような笑みを浮かべて手を振る。「良く訊かれるんだけど音楽の学校に行くのって、そんなに簡単なものじゃ無いんだから」
「そうなのか」
「そうなのよ。ああいうのは、一日の半分以上練習しているような、そういう人達が行くものなの」
「良く知ってるんだな」
「まぁ、ね。一応、ちょっと、調べてみたりしたから……」
翠は言葉を止めて、何度かまたトランペットを回す。
「——そっちは、どうするの?」
「え?」
「進路。神室君は? 行きたい大学とか、あるの?」
進学が前提の翠の言葉に、修一は一瞬言葉に詰まった。
「……まだちょっと、考えてる感じ、かな」
ふーん、と翠は少し訝しげに頷き、
「まぁ神室君、テストも悪くないもんね。どこでも、行けるでしょ」
「——イヤミにしか、聞こえないけどな?」
頑張っても平均よりも少し上、という修一に比べて、毎回10位前後の位置にいる翠の方が、余程選択肢は多いだろう。
その時、修一の腕時計が音を立てた。メールが着信したのだ。見なくとも誰からで、どういう内容なのかの想像は付く。
「何? 今の」
「ああ、アラームだよ。バイトに行く時間」
修一は鞄を掴み上げて、じゃあ、と軽く手を振った。「……ありがとうな」
「——え?」
思いがけない言葉にポカンとしていた翠が我にかえった時には、既に修一の姿は無かった。
「ありがとう? ―—ありがとう、か」
呟きながら、またトランペットを何度か回す。「——まぁ、こちらこそ、かな」
その顔には笑みが浮かんでいた。
そんな彼らの姿を、廊下の窓から眺めていた人影があった。その人影は、トランペットの音が聞こえて来るとその場を離れ、歩いて行った。
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