Prologue〜April その2

2-1 現実

 目が覚めた瞬間、視界に映ったのは見慣れた天井だった。蒼く無いし、蠢いてもいない。眼だけを動かして周囲を見たが、シルエットでも無い。

 今居るのは自分のアパートで、部屋のベッドの中。時間を確認しようと手を伸ばしたが、あるはずのスマホが無い。慌てて上半身を起こすと、床にリュックが置かれているのが見えた。ポケットを探り、スマホがあるのを確認してホッと息をつく。

 あれは——夢だったのか?

 店長にもらったミネラルウォーターを一口飲む。しかし、ペットボトルの奥に透けて見える掌を見た瞬間、修一は凍り付いた。

 何か蒼いものが、こびりついている。恐る恐る触れてみると、崩れて粉の様になり床に落ちた。よく見ると服は昨日と同じままで、そこにも蒼い染みがいくつかできている。さらに頬に違和感を感じてこすってみると、そこからも蒼い粉が落ちて来た。

 夢じゃ、ない?


 その時玄関のチャイムが鳴り、修一は飛び上がった。

「ど、どなた?」

 狭いとはいえ、1Kの間取りだ。ベッドのある奥の部屋からでは声が届くはずもない。分かっていたが、思わず声にでてしまった。当然ながら返事は無く、再度チャイムが鳴る。

 ええと——どうする? 出るにしても、この蒼い染みがついた格好でいいのだろうか? そもそも誰だ?

 まごまごしていると、今度はドアがノックされた。2度。そして、3度。

 何故か足音を忍ばせつつ玄関に近付いて、尋ねてみる。

「ど、どちらさまですか?」

「私」

 聞き覚えのある、というか忘れようもない無感情な声がして、修一はその場に立ち尽くす。

 昨日のあの子だ! どうして家を知ってるんだ?

「入ってもいい?」

「ま、待って。今鍵を開けるから——」

 記憶に残っているサキのドアの開け方を思い出し、慌ててドアに駆け寄ると、目前でガチャッとドアが開いた。行き場を失った修一の左手は宙を泳ぎ、全身のバランスを失って、外に立っていたサキにそのまま抱きつく事になった。結構な勢いで抱きついた筈なのに、サキは身じろぎ一つせずに修一を受け止める。

「……朝から大胆」

「いや! いや違うってこれは!」

 慌てて後方に飛び退いた修一の前を、サキは顔色一つ変えずに悠々と通過する。

「鍵、開いているの知ってたから」

「——え?」

「憶えてない? 昨日の夜、気を失ったあなたをここへ運んだのは、私。出て行く時に、鍵はかけられなかったから」


 ……OK分かった落ち着こう、俺。

「ええっと、幾つか、訊いてもいいかな」

 サキは頷く。

「何で、俺の家を知ってるの?」

「あなたの情報は一通り、頭に入っている」

 自分の頭を人差し指でトン、と突きサキは続ける。

「神室修一、県立幸が丘高校3年、17いや、今日から18歳。身長177cm、体重70kg。成績は、平均よりは少し上。両親は10年前に交通事故で死亡。伯父に引き取られて同居していたが、高校入学を機に独立。学校では帰宅部。放課後はほぼ毎日コンビニでバイトし、生活費に充てている。交友関係は決して多くは無いが、比較的良好。彼女無し。童てい——」

「す、ストップストップ! ちょっと待った!」

 落ち着きかけていた脳味噌が再び沸騰しそうになる。「一体どこからそんな……」

「これ位の情報は、その気になればすぐに分かる事。気にしなくて大丈夫」

 いや、気にしない方が無理だろソレ。

「あなたを背負いながら自転車をこぐのは、結構重労働だった」

 ぐるっと部屋を見渡しながら、サキは思い出したように言った。

「そういえば、ドアにシュークリームが入った袋が引っかかってたから、ちゃんと冷蔵庫に入れておいた」

「あ、ああ。ありがとう。バイト先で、貰ったんだ」

「だから、シュークリームは無事」

 サキの視線が冷蔵庫に注がれる。……どう、答えたらいいものか。一瞬、間が空いた。

「シュークリームは無事——」

「え、ええと、貰い物だけど、食べる?」

 修一の言葉に、サキは無表情で頷く。

「賞味期限ギリだけど……」

「問題無い」




「……シュークリーム、好きなんだ?」

 少しずつだが一定のテンポで確実にシュークリームを平らげてゆくサキに、修一は尋ねた。サキは視線だけを修一に向け、眼で肯定する。早くも三つ目に取掛かっていた。

 立ちっぱなしで食べさせる訳にもいかず、奥の部屋を慌てて片付けて、テーブルを挟んで向かい合って座る。修一はその間に、改めてサキを観察してみた。

 ショートの黒髪に、大きな瞳。透けるような白い肌。控えめに言っても「美人」の部類にあたるだろう。背の高さは修一より少し、低いくらい。女子としては背が高い方だろうか。昨日と同じ、上が白で下が紺の、セーラー服姿。それが自分の通っている高校のものである、と修一は改めて確認する。

 しかしこんな子、ウチの学校に居ただろうか?

 サキが言った通り、交友関係が広く無い——というかむしろ狭い——修一には自信を持って言う事はできなかったが、目にした事があれば多分、憶えていると思うのだが。

 細く見える体つきからは、とてもじゃないが素手で獣と戦ったり、鉄の扉を蹴破ったり、修一を抱えて風の様に走ったりするようには、見えない。それに、変身したあの姿。本当にこの女の子が、変わったのだろうか。


「ごちそうさまでした」

 サキは指先のクリームをぺろっと舐めて、両手を合わせた。「それじゃ、行きましょう」

「行くって、どこに?」

 唐突に言われても困る。サキは何を言ってるんだコイツ、という風に修一を一瞥したが、自身の説明不足に気付いたようで、

「今日は、事情を説明しに来た。昨日の事とかを」

 修一は改めて、昨夜の奇妙な出来事を思い出す。

「じゃあやっぱり——」

「昨日、あなたが経験したことは、全て現実に起こった事。夢とかじゃない。その蒼い染みが、証拠」

 改めて染みを見つめる修一に、

「心配無い。洗えば落ちる」

 いや、まあそれは、いいんだけどな……。

「——だけど、ここでは話せない」

 サキは手を伸ばしてコン、コンと薄い壁を叩く。「それに、あなたに会いたがっている人がいる。だから、できれば一緒に来て欲しい」

「まぁ、夜まで特に予定もないけど……」

「ただし、」

 サキは先程より強い眼差しを修一に向ける。「事情を聞いたら、引き返せなくなる。その覚悟があるのなら、という条件がつく」

 沈黙の一瞬。

「勝手な事を言って、ごめんなさい。——どうするかは、あなたの自由。来ないなら、私はこのまま帰るだけ」

 相変わらずの淡々とした口調だったが、それだけに真剣だという事が伝わって来る。


「……行くよ」

 覚悟、というものがどれほど必要なのか、その時の修一には分かっていなかった。だが自分の周りで何が起こっているのか、知りたい。その好奇心が、言葉を発せさせた。

「そう言うと思ってた」

 想像はしていたが、サキに喜ぶような様子は微塵も見られない。

「ただ行く前に、シャワー浴びてもいいかな。昨日から着替えてないんだろ? 俺」

 サキは頷いて、

「着替えさそうかと思ったけど、やり方が分からなかった」

 やり方がわからないって……男物だからか。そう納得した修一は着替えを用意してキッチンへ移動する。いつもの通りにそこで脱いでから浴室に入ろうと、上着を脱いだところで視線を感じて振り返った。

 ……サキがじっと凝視している。

「な、何か?」

 何故か、反射的に胸を隠してしまう。女か、俺は。

「興味があった。不快にさせたなら、ごめんなさい」

 興味? 興味って、何に対する興味だよ。

 修一は床に散らばった着替えを慌てて拾い集めると、浴室に飛び込んだ。

「シュークリーム、まだ冷蔵庫に入ってるから!」

 そう言いおいて、力一杯扉を閉める。

「それじゃ、遠慮なく」

 結局修一が戻った時には、冷蔵庫のシュークリームは綺麗さっぱり無くなってしまっていた。

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