1-4 変身

 修一が少女の肩を掴んだ瞬間、少女は直上に跳んだ。しかし、屋上までは届かない。だが少女が腕時計をいじったかと思うと、そこから飛び出したワイヤーが屋上の手すりを掴み、さらに勢いを増して二人の体を引き上げた。

 全身にかかるG。必死に少女の肩にしがみつく。と――、突然力が抜けて、体が浮いた。何が起こっているのか、理解できない。さっきから、分からないことばかりだ! 愚痴る間もなく、落下が始まる。


 悲鳴を上げながら落ちて来る修一の位置を、先に屋上に着地していた少女は冷静に見定め再び跳び上がる。位置、落下速度、全てが完璧な状態で修一をキャッチし、予め伸ばしていたワイヤーで振り子のように空を飛んだ。そのまま、別のビルの屋上に着地する。

 フワッと、重力が無いかのような着地をした現実が信じられず、修一は動けずにいた。

「大丈夫?」

 少女に話しかけられてようやく、自分が今所謂「お姫様抱っこ」をされている状態であることを認識し、慌てて少女から距離をとった。

「だ、大丈夫。ええと、君は――」

「サキ、でいい」

「あ、ああ。ありがとう。助けてくれて」

「別に。――言われたから、やっているだけ」

 サキの言葉や表情には、感情が乏しい。だが少なくとも、自分よりは今の状況について何か情報を持っているようだ。しかし、何から訊いたものか。訊きたい事が多すぎて、頭が付いていかない。


 その時、咆哮と共にビルが揺れた。

「来た。――下がって」

 と、サキは側にある出入口を指す。修一は駆け寄って、シルエットになったドアノブを回すがビクともしない。

「畜生! 鍵が――」

「ちょっと待って」

 次の瞬間、ドアが轟音を立てて奥に吹っ飛ぶ。「――ここに隠れて」

 サキは蹴りを入れた足を軽く振る。

「わ、分かった」

 修一が身を隠した次の瞬間、ズズン、ズズン、という連続音と共に再びビルが揺れた。次いで、ビルの影から何かが飛び出してきたかと思うと、巨大な塊が屋上に落下する。

「あれって――」

「成長した。タイミングが悪かった」

 一見、姿形は変わっていない。しかしその大きさが、先程迄とは全く異なっている。2倍? いや3倍? それ以上? 立ち上がったら、10mはあるだろうか。圧倒的に巨大化した野獣が、そこに居た。

「コロしてやる!」

 野獣は血飛沫の交じった鼻息を荒く吹き出して、絶叫した。「殺してやるぞ! お前ら!」


「ここで待ってて」

 サキはへしゃげたドアを軽く引き伸ばすと、バリケード代わりに修一の前に置いた。「すぐ、終わるから」

 サキの口元が僅かに微笑んでいる様に見えたのは、気のせいだったのだろうか。何の気負いも無さそうに、獣に向かって歩いていく。と、その左腕の腕時計が、電子音と共に光った。

『Ready:Change』

 と文字が浮かぶ。

 サキは軽く拳を握り、腕時計を胸の位置に置いて、言った。

「――変身」

 その瞬間、腕時計から白い光が溢れ出た。眩しい輝きに修一は目を覆う。前面から放たれた光はサキの全身を包む。――それが消えた時、立っていたのはサキでは無いものだった。


 全身が白銀の毛に覆われた、大きな獣。前屈み気味の体勢になっているが、大きさは3m近くはあるだろう。頭部から背中にかけて鬣のように長く伸び、そのまま太い尻尾へと繋がっている。両足で立つその姿は辛うじて人間を感じさせるが、鋭い爪が生え、節くれ立った巨大な掌。異様に伸びた前腕。大きく裂けた口蓋からは、鋭い牙が覗いている。その眼は完全な深紅。



 これが――あの女の子なのか?

 その変わり様に気圧されていた野獣は、意を決したように咆哮と共に突貫する。サイズの差は圧倒的に野獣の方が上なのだ。巨大な爪が、白い獣の上半身を削り取る――かと思った瞬間、野獣の頭部が上に弾き飛ぶ。白い獣が素早く身をかわし、野獣の顎を蹴り上げたのだ。次いで頭部の角に手をやると、一本背負いをするように軽々と抱え上げ、そのまま隣のビルに向けて放り投げた。

 轟く衝撃音と、野獣の悲鳴。間をおかず、白い獣は勢いを付けて屋上から跳び出す。ビルに埋まった野獣は、苦しげな息をつきながら動かない。白い獣はその頭部に向かって、脚を先にして飛び込んで行った。


 ドコン、と何かが破裂したような大音響が響き渡った。周囲のビルに反響して増幅し、修一は思わず耳を塞ぐ。

 ――そして、静寂。

 修一はドアの陰から出る。何が起こったのかと手すりに駆け寄り、下を覗いた。

 そこには、頭が無くなった野獣の体だけがあった。断面には蒼い「何か」が蠢いているのが見えたが、以前のような勢いは無く、空中に霧散してゆく。やがてそれは野獣の体全体に広がり、消えた。野獣の姿そのものが、消えてしまった。

「行きましょう」

 突然の背後からの声に仰天して、振り向く。そこには、サキが立っていた。獣ではない、サキが。その顔には、血がついている。いや、果たして血なのだろうか。あの野獣のものと思われる蒼い液体のようなもので、全身が染まっていた。

「え、ええと、あの――」

「説明は後。早くしないと、戻れなくなる」

サキは顔の液体を拭いながら言う。

「戻る? 戻るって――」

「元の、あなたが居た場所」

 サキはそう言って、自分の背中を指す。また掴まれって事か……。覚悟を決めて修一が掴まると同時にサキは飛び出し、地面へ降り立った。


「この先に、私が来た扉があるから。そこに――」

 その時、地鳴りのような音が響いた。空を見ると、蒼い色が薄まっているように感じる。

「――急いで!」

 二人は脱兎の如くに駆け出した――が、気が付くと修一の体はサキの脇に抱えられていた。まるでジェットコースターに乗っているかのように、周囲の光景が後ろに流れていく。ビルの壁等を利用して何度かターンをすると、正面に何かが見えた。

 ――扉?

 シルエットの世界の中で、その扉は色を持っていた。金色の枠に、紫色の重厚な扉。例えこの世界でなくとも、道の真ん中にあるモノとしては、異様な存在。サキは躊躇無く両開きのその扉を蹴り開け、飛び込んだ。

 眩しい光が溢れた――と思った次の瞬間、扉の先は、闇。

 え? と思う間もなく2人の体は落下を始める。叫び声を上げながら、修一の意識は遠のいていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る