1-3 少女

 腰が抜けてしまった修一は体を反転させて、獣の方を見た。――うつ伏せに倒れた女性の首根っこに、獣がかぶり付いている。上半身はそこを支点に持ち上げられ、だらりと下がった両腕と、下半身が地面に付いている。

 死んだ? ――いや、殺されてしまった。悲鳴を上げる事すらできずに。

 だが、それで終わらなかった。獣がブルッと体を震わせたかと思うと、女性の体が地面に崩れ落ちた。文字通り、体だけが。


 そこから先の光景を、修一は一生忘れる事ができないだろう。

 肉なのか、衣服なのかを引き裂く音。堅いものを噛み砕き、咀嚼する。柔らかな、水っぽいものを啜り、舐める。

 地面に伏せる体勢になっていた修一の場所からは獣の体が壁になり、全てが見えた訳ではない。それでも女性が今、どんな状態になっているのかを理解するには十分だった。

 女性だったものは徐々に少なくなり、そして無くなった。獣は地面をジャリジャリと音をたてて舐めていたが、やがて満足したのか口の周りを舐め回して――唐突に視線を、修一に向けた。

「お前は、何だ?」

 蒼い瞳がぐるんと動く。

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。何だ? 誰が言ったんだ?

「何だ、と訊いている!」

 ゴオッと荒い息を吐き、2つの蒼く燃えているような瞳が正面から修一を捉える。

 こいつだ。この獣だ。こいつが、喋ったのだ。

 そして、その声には聞き覚えがあった。あの、公園に倒れていた男。


 獣が脚を1歩、修一の方につく。反射的に上半身を起こし、立ち上がろうとしたが、駄目だった。相変わらず腰に力が入らず、無様に尻餅をつく。それでも何とか、腕の力で逃げようと試みた。

「ここに居る、という事は――そうか、聞いた事がある。喰う為でなく、我々を殺す奴らがいると」

 話しながら、必死に後ずさろうとする修一をあざ笑うかのように、ゆっくりと近付く。「随分、恥知らずな事をしてくれるじゃないか」

 確実に修一を捉えられる距離になった所で足を止め、首を持ち上げて修一を見下ろした。狩るものと、狩られるもの。強者と弱者。それが一見で明らかになる光景。

「俺を、殺しに来たのか? それにしちゃあ、情けない格好だが」

 全身の毛がバキバキと音を立てながら逆立っていく。「油断はしない。――殺される前に、殺してやる!」


「残念だけど」

 その時、また別な声がした。「その人はまだ、関係無い」

 女の声? さっきの女性のとは違う。

 声が聞こえてきた方を見る。車のシルエットの影から、ローファーにショートソックスを履いた足が出て来た。次いで、セーラー服姿の少女が姿を現す。

「それともう1つ。殺されるのは、あなた」

 少女は獣を全く恐れる様子もなく、淡々とした口調で言った。

「――あなたを殺すのは、私」




 一瞬の静寂があったように思った。しかし次の瞬間、獣は咆哮と共に少女に向かって猛然と飛びかかる。しかし既に少女の姿は無く、車のシルエットに突っ込んだ。激しい金属音と、ガラスの砕ける音。

 シルエットになっても、壊れるのか。そんな発見に驚いていた修一は、突然襟首を掴まれ持ち上げられた。

「怪我は無い? 立てる?」

 そして、自分を片手で持ち上げているのが先程の少女である事実に気付き、さらに仰天した。慌てて地面に両足を付き、埃を払う。

「だ、大丈夫。怪我はしてない」

「そう、良かった」

 少女は襟から手を放し、無感情に続けた。「――なら、ここから離れた方がいい」

 そう言うや否や、身体を回転させる。少女の背後には、体制を整えて再度飛びかかって来た獣の姿があった。が、目前で突如真横に吹っ飛び、地面に1度バウンドしてビルの壁に叩き付けられる。

 少女が、獣に回転蹴りを喰らわせたのだ。さらにその勢いのまま修一の胸ぐらを掴むと、もう1回転して勢いを増し、獣とは反対方向のビルに向かって放り投げた。

「おい! マジか――」

 叫ぶ間もなく、背中に伝わる衝撃とガラスの破壊音。さらに床に叩き付けられて壁にぶつかり、ようやく止まる。

 少女はそれを確認すると、獣に向き直った。


 身体の半分をビルの壁にめり込ませたまま、動かない。1歩踏み出した時、少女の左手首に巻かれている腕時計が甲高い電子音を立てた。

『――サキ、状況は?』

 デジタルの数字が消え、『SOUND ONLY』という表示に変わる。さらにそこから聞こえて来る、女性の声。

「問題無い。保護対象者は確保した。――だけど、」

 サキ、と呼ばれた少女は獣に近付きながら、腕時計に向かって答える。「今回も、ターゲットは捕食された後だった」

 それまで無感情だった声に、僅かながら悔しさが滲む。

『あなたのせいじゃないわ。速やかに目標を処分。いいわね?』

「了かい――」

 少女は足を止めた。

 獣が首をもたげ、咆哮を上げた。凄まじい音圧が突風を起こし、少女の体を押し戻す。獣の眼から蒼い「何か」が溢れ出し、広がっていく。

「あれは……」

 それを見た修一はここに来る前の出来事を思い出していた。確か、ここに来る前も男の眼から同じものが――。

『どうかした?』

「目標が成長を始めた。一旦退避する。変身の許可を」


 腕時計からの問いに答えるが早いか少女は後方に跳び、ビルの窓から覗いていた修一の胸ぐらを掴んで引きずり出した。

「移動する。掴まって」

 改めて正面から少女の顔を見て、修一は気が付いた。

「君、さっき店に来た――」

「行くわ」

「え? どこに?」

 修一の問いに答えず、少女は軽く身を屈める。――まさか、跳ぶってのか! 

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