1-2 野獣

 気が付くと、何かに寄りかかって座り込んでいた。

 ——どうなったんだ? 俺。

 意識的に眼を見開き、手足を動かしてみる。特に異常は無いようだ。蒼い「何か」が飛びかかってきた——と修一は感じた——その瞬間までは憶えているが、その後どうなったのか、記憶が無い。

 とりあえず、逃げなければ。寄りかかっていたのは、公園の門柱のようだった。自転車も近くにあるはずだが——。

「あれ?」

 立てかけておいた筈の、自転車が無い! 誰かに盗られた? こんな短時間に……って、そういえばどれくらい、気を失っていたのか。時計をみると、0時5分。殆ど時間は経っていないのか。


 アッと気付いて男が倒れていた方に目をやる。が、何処に行ったのかその姿は無くなっていた。少しホッとして、念の為周囲を見回す。

 ——そして修一は、異変に気付いた。

 周りの建物が——樹木も含めて——色が、おかしい。シルエットのように黒くなっている。地面は蒼。あの男の眼と、同じ色だ。空を見上げると、それ以上に異様だった。蒼と白が斑になって、蛇がのたうつようにぐねぐねと蠢いている。それでいて、深夜だったはずなのに何故か明るく、この光景がかなり先迄広がっている事が分かった。

「何なんだよ、これ……」

 ごくりと唾を飲み込み、とりあえず歩き出す。常に動いている空を見ていると気分が悪くなりそうで、できるだけ下を見つつ家の方へ向かった。

 



 「空」と言ったが、本当に今見えているのは「空」なのか?

 少し歩いて頭が冷静になったのか、立ち止まって改めて周囲を観察する。さっきまでは窓から光が漏れている家もあったし、街灯も付いていた。今は全てシルエットで、家々に窓があるのかすら判別できない。

 光が無い。そして自分の他に人がいるのかどうか、それも分からない。もしかして、これは夢なのだろうか? そう考えるのが、一番合理的なのでは——。

「誰か!」

 そう考えた瞬間、修一の耳に甲高い女性の叫び声が飛び込んで来た。

 人がいた!

 どこから聞こえてきたのかハッキリとは分からなかったが、反射的に駆け出す。

「おーい! 誰かいるのか!」

 闇雲に走って見つかるのか、とどこかで思いつつ、立ち止まるという選択肢は無かった。元々知らない道で、さらに異常な状態になっている為もはや自分が何処にいるのか分からない。勘に任せて何度か角を曲がると、広い道に出た。

「これって……大通り?」

 バイト先に戻る時に、通ろうか迷った道だ。しかしそこは、修一がこれまで見た事の無い異様な光景になっていた。車が、走っていない。いや車自体は、道路上にある。だが時間が止まっているかのようにその場に留まり、他の建造物同様にシルエットになって、点々と並んでいる。


「誰か! 居ないの!」

 さっきの声だ! 近い!

 振り返ると数軒先のピルの横から、人影がよろめくように飛び出してきた。視線が合うと、女性は表情を和らげてその場に座り込む。

「大丈夫ですか?」

 修一もホッとしつつ、側に駆け寄る。女性はここまで走って来たのか荒く息を付いている。それでも顔色が真っ青に見えるのは、空の色が反射しているから、というワケではないだろう。

 駆け寄ったはいいがどうしたものか、と立ち尽くしている内に、着ているスプリングコートに見覚えがある事に気が付いた。——そうだ。前を歩いていた女の人だ。一緒に巻き込まれた、という事か。一体何がどうなって、何に巻き込まれているのか、全く状況不明だが。とりあえず、自分の他にも人が居た。まだ他にも、捜せばいるかもしれない。そう思えるだけでも、心強かった。

「——あなた、」

 女性が、声を絞り出す。「水、持ってない?」

「水? 水ですか?」

 そうだ、店長に貰ったのがリュックに——。「あれ?」

 背負ってた筈のリュックが無い! 慌てて周囲を見回す修一を見て、逆に女性は落ち着きを取り戻したのか、小さく手を振って言った。

「あなたも、荷物無くしたの?」

 あなたも? 訝しげな顔をする修一を横目に女性は立ち上がり、息をついた。「あたしも、バッグに水筒が入ってたんだけどね。気が付いたら、無かったの」

「気が付いたらって……」

「よく分かんないけど、何か目の前が蒼くなった、と思ったら倒れてたの。眼を覚ましたら、こうなってたって感じ」

 自分と同じだ。蒼い「何か」が広がって、それに包まれた瞬間、周囲が一変してしまったのだ。

「でも、他に人がいて、ちょっと安心したわ。——あなた、何がどうなっているのか知らない?」

「……分かりません。僕も気が付いたらこうなっていて——」

 修一は言葉を止めた。

 何かが、聞こえた。鈍い金属音のようなもの。そして——。

「な、何? 今の唸り声みたいなの」

 そう。聞いた瞬間に『獰猛な獣』を想起させる、心臓を震わせるが如くに低く、空気を伝わって来る、声。


 動かない方がいい。

 本能的に、そう感じた。その場で動かず、全神経を耳に集中する。改めて気が付いたが、異常な程に静かだ。風も無く、空気の動きを全く感じない。外に居る筈なのに、巨大なドームのような室内空間にいる、そんな感じだ。

 唸り声は、聞こえてこない。勘違いだったのか? いや、何か、聞こえる。何かが地面を叩く、そんなゆっくりとした、鈍い連続音。これは——足音? 

 それも直ぐに途絶え、再び異常な程の静寂が耳を突く。しかし次の瞬間、

「——!」

 女性が息をのみ、顔色を変えた。修一を見て、ではない。修一の後ろ、斜め上。視線はそこを向いていた。それを追ってゆっくりと、振り返ってみる。

 そこには、先程迄は無かった筈の、黒い影があった。シルエットになった自動車の上。その大きさと、ほぼ同じくらい。「影」といったが、平坦なシルエットとは違う。よく見ると、灰色の物体。——物体? いや、生き物だ!


 それには眼があった。蒼い眼が2つ、灰色の中に爛々と輝いている。全身灰色の毛に覆われた巨大な4つ足の獣が、そこにいた。その鋭い眼光は2人を確実に捉え、身動きをする度にどこからかバキバキと音がする。鋭く伸びた固い毛が、触れ合う度に音を立てているのだ。

 獣は、荒く息をついている。頭に生えた2本の角が、威嚇するかのように細かく震える。

「……何だ」

 牛? 巨大なオオカミ? こんな生き物、見た事がない。そもそもこんな街中に——。そこまで考えた時、獣が口を開いた。響き渡る咆哮。その音圧の凄まじさに反射的に耳を押さえ、地面に倒れ込んだ。

「何なの? ——何なのよ!」

 女性が、来た方向に向かって駆け出すのが見えた。これって——逃げた?

 ハッとして、振り返る。獣は、今にも飛びかからんとばかりに身を屈めていた。口元からは音を立てながら巨大な牙が剥き出しになり、前足の先からも、見るからに鋭い巨大な爪がせり出して来る。


 襲う気なのだ、間違いなく。——僕を!

 自分も逃げなくては、と思うのだが、足がすくんで動けない。その間にも獣はカウントダウンをしているかのようにゆっくりと身を屈めていき、そしてピタッと止まった。

 溜めに溜めた筋力を一気に解放し、ジャンプをする獣の姿がスローモーションのように修一の眼に映った。何もできずに、尻餅をつく。しかし、獣は修一に向かっては来なかった。半分放心状態の修一の上を飛び越え、逃げた女性を追う。10メートルは跳んだだろうか。着地して、その反動を利用した勢いで女性の背中、いや首根っこに飛びかかる。


 ゴグッ、という鈍い音がした。

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