梓、限界を知る7
翌日
琴音がクラスのドアをくぐると、そこには黒板一杯の大きな絵が描かれていた。
地面にぺたんと座り、ポンポンになったお腹をさらけ出した梓の絵。
恍惚とした表情で「まんぷくぅ・・・」と言っている。
マンガタッチのかなり上手い絵は、漫研の男子が書いたものに違いなかった。
それを見た瞬間、琴音は一気に頭に血がのぼった!その先のことは本人は覚えていない。
ひなが言うには。
ガツガツと歩いて教壇に立つと、教卓を蹴り上げてぶった押し、クラス全体を冷徹に睨みつけたそうだ。
クラスは一瞬にして静まり返り、教卓が倒れる音だけが響いた。
別人かと思った。超怖くて泣きそうになったと。
琴音はわなわな震えていた。
誰もが次に琴音の怒鳴り声が響くと思った。だが琴音の次の行動hは思いがけないものだった。
ぎゅっとかみしめた唇から、漏れるような震える声で
「う、うっ・・だれだ。お、おまえら、梓を・・」
その後は何を言っているのか、誰も聞き取れなかった。
それは怒りではなく悔しさや後悔やふがいなさといった持っていき場のない想いが入り混じった声だった。
だれがこんな琴音を見たことがあるだろう。
普段の琴音との落差に驚く以上に、琴音から発せられるオーラに、この場にいる者は畏怖を覚えた。
泣きながら、何かを必死に言っている。
入学初日に、鶴の一声で委員長になった琴音。学園祭を仕切った琴音。男子を言い負かして鼻にかけている琴音、明るく快活な琴音。
そんなものはカケラもなかった。そこにいるのはただの弱い一人の少女だった。
その雰囲気にクラスが飲まれ、なにかしら琴線に触れた女子はしくしくと声をあげて泣き始めた。
しかけた張本人の男子達はただ黙っているしかなかった。
「ガラガラ」
その空気を裂くように後ろドアが開く。
梓だ。
梓は明らかに異様な空気に、何が起こったのから暫く分からなかったが、黒板を見た瞬間に事の顛末を全て理解した。
全身の血の気が引く。
(いやっ)
声を上げることもできず梓は鞄を放り出し、反転、廊下に駆け出す。
「梓!」
誰の声かは分からないが、女の子の声がクラスに響く。
琴音も梓に気づいてそちらを見る。
固まるカラダ・・・
刹那、今度は琴音が号泣しクラスを飛び出していった。
琴音が壊れんばかりにドア押し開けた轟音が教室に響く。
だれもが時間が止まったように動けないでいた。
そうして、そのほこりっぽい暗黒魔法は、1日とけることがなくクラスを支配した。
・・・
次の日。
今日は、昨日の出来事を暗示させるような曇天の空となった。
朝起きるのもつらい。
だれもが、後味の悪い想いを胸に抱いて登校していた。
クラスに足を踏み入れると重い空気を感じる。
それでもポツリポツリで生徒は教室に集まる。
だが始業のベルがなっても梓と琴音は来なかった。
授業中はまだいい。ムダな話をしなくてもいいから。
だが休み時間の不自然さといったらなかった。
だれもが二人を気にしているはずなのに、その会話はまるで忘れ去られたように出ない。
教師が「松倉と御子柴は休みか」と言うだけで、クラスにはピンと張りつめた空気が流れた。
そのくらい耳は正直にその話題を求めている。
そのギスギスした空気を破るものは誰もなく、長い1日が終わった。
翌日、腫れぼったい目をした琴音が学校にあらわれた。
クラス中が琴音に注目する。
ぶすっとした表情の琴音は、少々乱暴に席に座ると両手を机に上げてうつむいた。
そのまま動かない。
だれも声をかけられる雰囲気ではない。
その中、一人の男子が立ち上がって琴音の元に歩み寄った。
山本大輔。マンガ研究会の部員。アニメ大好き、声優大好きを公言する、ある意味潔い男だ。
「松倉。おれが描いた」
琴音は目を合わせようとはしない。
「・・・」
「すまない。軽い気持ちだった」
「・・・」
琴音は突っ伏した顔を上げても、頬杖をつき、そっぽをむいたまま何も言わない。
「帰り際に見たんだ。おまえらが打ち上げをしているところ」
「・・・」
「そしたら御子柴の周りにみんなが集まってるのが見えて、すげーなと思って・・・」
「そのことをみんなに話したら、おまえ描けよって囃し立てられて・・・それで描いちまった」
「・・・」
「悪いことをしたと思ってる」
「・・・」
「おれ、御子柴に謝りに行く。あいつすげー傷ついたと思うから」
「・・・それで」
「許してもらえるか分かんねーけど」
「それで、そんなの、お前の自己満足だろ」
「あっ?」
「おまえが楽になりたいだけだろ!」
怒気をはらんだ声で琴音は山本を睨みつける。
「じゃ、どうすれってんだよ。放っておきゃいいのか!」
「ちがう!!」
とにかく琴音はイラっとした。それは山本に対する怒りじゃない。楽になりたいと思ったのは自分も同じだ。
「なんで、お前が怒ってんだよ!なんでお前に怒られなきゃなんねーんだよ!」
「怒ってない!」
「どう見たって怒ってんだろ。訳わかんねーよ。とにかくおれは行くからな」
「やめろ!」
「なんでおまえが止めんだよ!」
「やめてくれ・・・頼むから・・止めてくれ」
急にしぼんでいく琴音がいた。山本もその変化に対応ができずとまどう。
「おまえおかしいぞ」
「・・・ああ、そう思うよ」
「・・・」
「おまえが、謝まってたってことは、あたしが伝えるよ。ちゃんと伝えるから」
「・・・ああ」
そうして琴音は取手も冷めぬ鞄を手に取り、教室を後にした。
ぽかんとした空間がそこには残った。
・・・
琴音は本当に梓の家に行った。
(梓に会って私は何を言う気なんだ)
アタマがごちゃごちゃで何も考えられないが、会わずにはいられなかった。
いや会いたいのか、会いたくないのかすら分からないが、足は彼女に会う事を求めていたのだろう。
どのくらい歩いただろう。気づけば梓の家の前にいた。
呼び鈴を押す手が震える。
「ここまで来て・・・」
(なにをためらう。あたしらくない)
家の前をうろうろして、呼び鈴を押せずにその場を去る。
また家の前をうろうろして、呼び鈴の前に立つ。また呼び鈴が押せずに、その場を去る。
そんなのを何度か繰り返して、ぐるぐるしている自分が情けなくなり、ついにボタンを押した。
ピンポンという音とともに、何かが動き出す気配がした。
その気配のとおり「はーい」といって梓のお母さんが玄関をあけて出てきた。
「あら、学校のお友達?」
のんきな声が聞こえる。
「はい、松倉琴音といいます。梓さんのクラスメイトです」
「あら、わざわざありがとうございます。梓が休んだから、お見舞いにきたのね」
「はい」
「ちょっと早い時間だけど」
時計はまだ10時にもなっていない。どう考えてもお見舞いの時間じゃないが梓の母は、いろいろ察してか調子を外して答えてくれた。
「ちょっと早いですけど、お見舞いです」
「ふふ、じゃ上がって。梓は2階にいますから」
「はい、ありがとうございます」
生真面目なしゃべり方の琴音の目を、梓のお母さんはじっと見ている。
琴音は、この人には私が泣きはらした事など、お見通しだなと思った。
「おじゃまします」
「はい、どーぞ」
琴音は靴をキレイに並べて2階へと向かった。
自分の家とは違う匂い。梓の制服の匂いがする。
それが梓とじゃれあっている記憶を呼び覚ます。
(もう前と同じようにはやれないか)
シャボン玉のようにさ迷う思考は、不意にそんなことを思い付いたりする。
梓の部屋の前のドアに立つ。そして・・・勇気を出してドアをノックした。
「梓。あたしだ」
「琴音?」
「ああ」
「こんな時間にどうしたの」
「・・・開けてくれないか」
「ちょっとまって」
部屋の中からバタバタと音が聞こえる。部屋を片づけているのか身支度をしているのか、わずか2、3分の待ち時間。
だが今の琴音には長い時間だと思えた。
・
・
がちゃりと戸がひらき、梓の顔が出てきた。
「いいよ」
琴音は何も言わず部屋に入った。
梓はパジャマのままだった。黄色のだぶっとしたパジャマ。下は7分丈で。何かの花の模様が入っている。
急いで髪を梳いたのだろう。それでも寝癖が残っているのに変なリアリティがあった。
「梓・・・」
「・・とりあえず座わろうよ」
「ああ」
二人は隣り合ってベッドの上に行儀よく座った。
(だめだ、顔がみられない)
琴音はどうしも自分の手を見ることしかできなかった。
沈黙が流れる。
「琴・・」
「梓・・」
二人が同時に名前を呼びあう。
「ん、なに琴音」
「梓こそ」
「琴音は何いおうとしたの」
「・・・」
「あたしさ、梓に謝らなきゃと思って」
言ってしまった。そんなの自己満足だといったのは自分なのに。強い後悔が胸に広がる。でも言わなきゃいけない。
「あたしさ、梓のこと誤解してたと思う」
「え」
「いつもニコニコしててさ、なんか悩みなんてなくて、幸せなんだろうなって」
「・・・」
「あたしさ、家がめちゃめちゃなんだよね」
「兄貴が荒れててさ、お母さんもそれでイライラしてて。あたしさ」
とそこまでいって、涙がぽろぽろ出てきた。
「琴音・・」
「あたしダメなんだ。どこにも居場所ない」
涙が止まらなかった。ぎゅっと握った手にぼろぼろ涙がこぼれるのをどうにも止めることができなかった。
(あたし、なにしに来てんだよっ)
「あたし、梓に甘えてたんだ。梓に助けてほしくて・・・。だって、梓、やさしくて、いい子で。きっと弱い子だと思ってたから」
(なんでこんなこと言っんだろう)
後悔・愚か・助けて欲しいの?わからない。
止まらぬ涙以上に、嗚咽が漏れるのがいやでいやでしょうがない。
ゆがむ世界を翻弄される琴音の耳に衣擦れの音が届く。
そして、暖かくてやわらかい感触が琴音を右側から包みこんだ。
「琴音・・・ありがとう。言ってくれて」
「苦しかったんだね。なんとなくわかってた」
「・・っ、あずさ」
我慢しきれずに梓を抱いた。強く強く抱きしめた。
涙で梓のパジャマが濡れていく。分っていても止められない。
琴音も首筋に梓の涙も感じた。
「琴音、あたしもね、琴音にいわなきゃって思うことがずっとあんたんだよ」
ひっくひっくする琴音に梓は続けた。
「わたし、琴音が思うようないい子じゃない」
「ずっと、いい子を演じてきた」
「琴音といると、琴音がどんどん引っ張ってくれるから、何も言わないで後ろにいたらいいやって。全部琴音に押し付けてた」
「面倒なこと、いっぱい押し付けちゃって、それなのに琴音にイラっとしても、ニコニコしてて」
「傷つくのが怖くてウソついてた、ずるい、弱い子なんだ」
「ごめん。琴音の言うの合ってるよ」
梓も心のメッキも、ぽろぽろとはがれ落ちていく。
「そんなことない!!」
琴音が首を振っていう。
「わたしこそ、梓と一緒だったから、がんばれたんだよ」
「ことね・・・」
「あずさ、ごめんねー、ずっと甘えてて」
「琴音、あたしも・・」
やっと本当の自分で出会えたことが嬉しかったのか、二人は抱き合ったままわんわんと泣いた。
しらばらく泣きはらして、嗚咽もおさまって、ふたりは座ったままベットにごろんとなった。
どちらともなく
「子供じゃないのに、バカみたいに泣いちゃったね」
「うん」
「抱き合ってさ」
「うん」
「ふふふ、うちらなにやってんだろうね。猫かぶってがんばってきてさ」
「琴音は猫じゃなくて、虎かぶってたよ」
「あん?なんで梓ばっかかわいい子ぶって」
「だって、琴音、攻撃的でやりすぎだもん。ずっとそう思ってた」
「やりすぎか、はは、そうかもな。うっぷん晴らしてた」
「そういう、梓のいい子ちゃんぶりもたいしたもんだったって」
「いやなこと言うなぁ琴音は」
「あはは・・・」
「・・・」
「・・・」
「もう、今からやめよう。皆といるときも、学校でも、今のうちらでいこう」
「ああ、そうだな」
「琴音は寂しかったら寂しいって言う」
「梓はいい子ぶらない。好きとか嫌いとかイヤとか言う」
二人は天井を見ながら「うん」とうなずいた。
「でもさ、あずさのおっぱいが気持ちよかったなぁ」
「えっ」
「抱き合った時、大きくてやわかくてきもちよかった」
「なに?変な事いわないでよ、女同士で」
「あたしさ、ちょっと女の子好きなんだよね。男は苦手だけど」
「え、」
「うふふ」
「やめてよ、変な事しないでよ」
「どうかなぁ、なにせ虎だからなぁ」
「もう、ことねがそんな子だとは思わなかった」
「へへ、抱きつきたくなったら、どこでも抱きついちゃうよ。あー、でもあたしが抱きついても、あずさのおっぱいは触われないかぁ」
「もう!」
「でも、わたしもことねに言っちゃうけど、あの黒板に書いてあったのってホントなんだ」
「絵?」
「お腹一杯になる興奮がたまらなくて。実はときどき大食いして、うっとりしてた」
「おおー、上品な梓ちゃんが」
「もう、ちゃかさないで!」
「ふふ」
「それでさ、しゃぶしゃぶのときは、なんかカッコつけてたけど、お腹一杯食べれるってちょっと興奮してたんだ」
「へー、そうかぁ。あれがあずさの本当の姿だな」
「うん」
「お互い、罪な女だね」
そういって、ニッと笑う口元に白い歯が見えた。
たぶん二人とも同じ景色を思い出してたのだろう、ふと梓が琴音を見て言った。
「わたし、御子柴梓、あずさって呼んでね」
「しってるよ、さっき自己紹介したじゃん」
「うん」
二人で大声を上げて笑った。
6か月遅れの入学式。やっと二人はスタートラインに立った気がした。
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