始まった日



「違う違う。そこはもっと滑らかに」



由梨の指揮棒が止まると、フルートの音も止まり、静かな…少しピリついた空気が流れる。



「……」



そんななか沙希が目を瞑って静かに息を吸う。



—— ♪♪♪



すると先程とは異なる優しく滑るような音色が教室に響いた。



「それ!その感覚!流石、大神!

やれば出来んじゃんよ〜」



指揮棒のままビシッと沙希を指さした。



「……ふぅ」



神経を研ぎ澄ませていた沙希はゆっくりと息を吐いてニコリと笑った。



「先生!やったぁ!!」

「その感覚を絶対忘れないように!」



その言葉に大きく頷くと、



「やっぱり大神はフルートでいくんだな?」



急に真剣な顔になった由梨。



「え?どうしてですか?」

「前にクラリネットとかもやってたからどうすんのかなって…」



そう言われて思い出したのは春のコンクール。あの時は色々な楽器に挑戦したいという気持ちからクラリネットに立候補していた。



「大神は本当にセンスあるよなぁ」



由梨はそう言うとすぐ近くにあった椅子に腰をかけると沙希を見て感心の声をあげた。



「えへへ。小さい頃から母に叩き込まれてきましたから…」

「妃さんの直々の指導なんてほんとに恵まれてるよ」



そう言われるのも無理はなく、妃は名高いコンクールで数多くの賞を受賞している。



「でもまぁ、入部してきての一言には驚かされたし立派だと思ったよ」

「あ、あれは忘れて下さい……」



それは一年前の出来事。



————————————————



場所は音楽室。



「私は音楽が好きで…—!」

「小さい頃からピアノを習っていて…—」



元気な声が飛び交う今日は、入部会といって希望する部活に正式な手続きで入部を決める日だ。


双海学園の吹奏楽部では、入部希望者は名前と志望動機、入部後の夢を発表することが伝統となっている。



「次は……大神さん」



部長である少女が沙希の名前を呼ぶ。



「はいっ!」



そう言って立ち上がると、周りからひそひそと声が上がった。



『嘘!もしかしてあの子が噂の?』

『お母さんが葉山妃はやまきさきなんでしょ』

『じゃあ特別じゃない』



あちこちから聞こえてくる声だが、沙希は関係ないと言った表情で口を開いた。



「大神沙希!志望理由は……」



そこまで言うと教室がしんとなる。



「音楽が好きだからです!」



その声に先ほどまでと打って変わって教室がざわついた。



『志望理由それだけ?!』

『期待して損した〜』



……聞こえてくる声。



「入部してからは様々な楽器に触れ、音楽の素晴らしさを演奏を通して観客に伝えたいです!」



それにも耳をかすことなく、言い切った、という顔で沙希が着席をするとその後もどんどんと自己紹介が進み、数十分経ってからようやく部活の説明が終わり入部が完了した。



「じゃあこれで…—」



部長が号令をかけようとした時、



「ちょっと待ったぁ!!」



教室の扉が思い切り開いたかと思うと髪を一つに結って、眼鏡をかけた女性が入ってきた。



「えー!遅くなってすまん!

私がこの吹奏楽部の顧問である古橋由梨だ」



そう溌剌と言ってのけた彼女は、若かりし頃の由梨だった。



「まぁ、やるからにはとことん!

良いものを作るためには妥協は要らないということを肝に命じておくように!」



その一言でしんっと教室が静まり返る。



「じゃあ…以上!解散!」



嵐のように終わった由梨の挨拶に、新入部生は戸惑いながら教室を後にした。


——…沙希を除いて。



「ん〜、今年の一年は何人辞めることやら……」



音楽室の隣にある準備室兼部室では、由梨がボールペンを顎につけながら手に持ったバインダーを覗き込んで呟いていた。



——…トントン



そこで聞こえてきた扉を叩く音。



「はーい、どうぞー」



誰だ?、という疑問はあったものの新入部員が書かれた書類からは目を離さず返事をする。



「失礼します」



そう言って入ってきたのは沙希だった。



「あれ、あんたは妃さんの……」

「先生!私は大神沙希です!

母である妃と私の音楽は違います!

親の七光り、なんて思われるのはお断りです!」



沙希の心からの想い。



「……」



それを悟ったのかのように由梨は驚いた様子ではあったものの、しっかりと沙希の目を見つめていた。



「だから!これから絶対にレギュラーを勝ち取れるよう頑張ります!」

「……」



一瞬あっけにとられていた由梨だったが、



「ああ、一緒に頑張ろうな」



にっ、と笑って答えると、その笑顔に安心したのか沙希は嬉しそうに笑った。



「はい!!」



……これが二人のファーストコンタクトだった。



———————————————



「本当に……頭が下がるよ」



そう言いながら由梨は懐かしいと笑った。



「それだけ本気だったんです!」



沙希の本音。

それは母である妃を通してでなく、

自分を自分として見られたいこと。



「ああ、わかってるよ」



そう言って由梨はよしっと立ち上がり沙希の前に立った。



「本当に可愛いやつだ」

「え?!」



そして沙希の頭を二、三回撫でる。



「片付けなきゃいけない仕事があるから戻るが、なんかあったらおいで」

「はい!」



そして優しい笑みを浮かべて、教室から出て行った。


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