クジラは歌う
2月の沖縄の海は、果てしなく青く澄み切っている。
ウェットスーツの首元を少し引っ張ると、まだ冷たい初春の海水が一気に流れ込んで来た。ひやりとするのは一瞬の事で、すぐに体温を保つためのクッションとなって全身を覆ってくれる。
いつも通り、左耳がなかなか抜けないのが
試しに両手で耳を塞いでみるといい。そうして聴こえる血潮の流れる音が、水底で常に聴こえる音だ。人間の身体の中には、遥か昔、海に棲んでいた頃の記憶が確かに刻まれている。
私の目の前で、頭を下にして重力を無視した姿勢でぷかぷかと波間に浮いていた
長年、現地ガイドとして一緒に潜ってくれる彼は、生まれつき左耳に問題を抱える私のゆっくりとした潜降に、気長に付き合ってくれる。
スクーバダイビングを始めて十数年。どれだけ潜り続けても、やっぱり潜降時が一番辛い。
水圧が増すごとに、耳管を
そうなる前に、鼻を摘まんで耳の中に空気を送り込み、圧に耐える……正式には
いとも簡単に耳抜きが出来る人が本当にうらやましい。耳抜きが思うように出来ないから、とダイビングを諦めてしまう人もいる。
もったいない。その先に続く青い世界に比べれば、これくらいの痛み、どうって事ないのに。
全てを受け止め、全てを忘れさせてくれる青い世界。それに魅了された者は私だけではないはずだ。
***
駅から少し離れた所にある市役所で用事を済ませた帰り道。
梅雨の晴れ間の柔らかい日差しの中、散歩ついでにいつもと違う道に足を向けた。
この辺りは昔の城下町の風情が残る住宅街だ。古い石垣や町家が連なる風景の中を歩いて行くと、住宅街の片隅に小さな店舗兼住宅のような建物が数件並んでいた。
個人経営の居酒屋、おしゃれな雑貨屋風のカフェ、その隣は……青く透き通る水中でイルカと戯れる女性のポスターが入り口近くに貼られたお店。
ダイビング・ショップ?
こんな住宅街に?
この辺りに海なんてあらへんのに?
……まさか、大阪湾で?
意外な事実に立ち止まって考え込んでいると、お店のガラス戸がゆっくりと開けられた。ドアベルが、からん、からん、と涼やかな音を立て、私と同年代らしき男性が「こんにちは」と声を掛けてきた。
浅黒い肌。
夏でもないのに……それって日焼け?
なんか、むちゃくちゃ軽そうな人。
「そのポスター、カッコイイでしょ? イルカと泳ぎたいと思いませんか?」
うわあ、いきなり勧誘?
……イルカ愛好家のお店なんかな?
あまりにも突然の事に無言で立ち尽くす私の前で、こんがりと日焼けしたその人は真っ白い歯を見せて人懐こい笑顔を見せた。
「海、好きですか? 気持ちいいですよ、ダイビング。やってみませんか?」
いや、だから、何処で?
「今ね、キャンペーン中で、ちょっとだけ講習料の割引してるんです」
……やっぱ、勧誘やん。
「えーと、ちょっと通りかかっただけなんで……」
愛想笑いをしながら立ち去ろうとする私に、にっこりと日焼けした顔が無邪気な少年のように笑いかける。
「ストレス解消にもなりますよ。嫌な事とか、ぜーんぶ、海が洗い流してくれるし。ダイビングを始めて人生変わった、って言うお客さんも多いんですよ」
数分後。
「ストレス解消」の言葉に乗せられ、言われるがままに店内のカウンターに腰かけた私の前に、スクーバダイビングの資格認定講習のパンフレットが置かれていた。ちなみに「スキューバ」ではなくて「スクーバ」が英語の発音的にも正しい呼び名だ。
当時、セクハラ、パワハラ、モラハラのセット売りのような上司に悩まされていた私は、精神的にかなり追い詰められていた。
大の甘党である私のストレス解消法は甘いものを食べる事だが、食事さえまともに取れない状態で甘ったるいものが喉を通るわけもなく……人生最大に痩せ細っていたのもこの頃だろう。
とにかく、楽になりたかった。何でも良いから、嫌な事を忘れさせてくれるものが必要だった。
帰宅する私の手には、講習用の分厚い教科書入りの「青い地球の上を泳ぐ赤いダイバー」が描かれたPADIのロゴ入りウォータープルーフバッグが握られていた。
講習を終えてスクーバダイビングの資格を得た私が、いつの間にか「上級ライセンス」なるものを手にして沖縄の海に頻繁に出没するようになるのは、この日から2年ほど後の事である。
***
目の前に広がる切り立った崖を見上げながら、潮の流れに身を任せて両手両足を広げ、ふわり、と浮かぶ。まるで、空を飛んでいるような錯覚さえ覚える。
サンゴによって浄化された透明度の高い沖縄の海底には、真っ白な砂が敷き詰められている。快晴なら、数十メートル頭上に揺らぐ
沖縄の観光スポットとして有名な恩納村の「青の洞窟」をはじめ、多くの海底洞窟を有する沖縄の海では、海底の起伏が作り出すユニークな形状の地形を楽しむことが出来る。
アーチ状の岩場をくぐり抜け、崖と崖の間を魚の群れに混じって通り抜ける。
縦に長く伸びる洞窟の暗闇をゆっくりと水底に向けて降下した先に現れる、青く輝く出口と濃い魚影の群れ。
年間を通して暖かな海には、熱帯特有の色鮮やかな魚たち以外にも、多くの生き物たちが息づいている。
小さな森の木々が生い茂るように、岩場に繁殖するサンゴやイソギンチャクの群れ。
宝石を散りばめたようなウミウシたち。
花びら状のひげを持ち、青い身体を縁取る黄色が目にも鮮やかなハナヒゲウツボ。
ゆったりと優雅に泳ぐウミガメたち。
水中カメラを手に、海の生き物の姿やユニークな地形の撮影に夢中になっているダイバー達を尻目に、私は浮遊感を楽しむことに集中する。
小さな赤紫色のハナゴイたちに囲まれながら、サンゴ礁の上を、ふわり、ふわり、と漂っていると、いつもの潮の流れの音に混じって不思議な音が聴こえてきた。
低く、高く、そしてまた低く……
何度も繰り返すゆったりとした音のうねりは、決して不快なものではない。でも、一体、何の音だろう?
首を傾げたまま浮かんでいる私の姿に気づいた海星さんが、ゆっくりと近寄って来て、私の注意を引こうと目の前で片手を、ひらひらとさせた。片方の耳を指で、とんとん、と叩く真似をすると、水中スレートに書かれた文字を指さした。
『くじら うたってる』
低く、高く、ゆったりと、何度も繰り返されるその音は、なんとも心地良い静かな響きを持っている。
しばらく、緩やかな潮の流れに身を任せ、ゆらり、ゆらり、とクジラの歌声に耳を傾けていた。
波間をたゆたう優しい歌声に、心のしこりはすっかり溶け出して、海の泡となって消えて行った。
〜「沖縄の彩」 了〜
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