第6話

 悪い煙を吸ったと言った匠は、病院に到着しても意識を失ったままだった。昏睡状態が続いたが、夜が明ける頃、眠るように亡くなった。一酸化炭素中毒だということだった。都も同様だった。病院に着いたときにはもう、亡くなっていたという。都市ガスを使う台所に近い部屋で寝ていたこと、そして燃え落ちた瓦礫の下から助け出されるまでに時間がかかったことが、原因だった。


 綾野は一番に助け出されたため、吸い込む量が少なく、なんとか一命を取り留めた。だが、煙は吸っていて、いつ匠と同じ状況になってもおかしくはなく、集中治療室に入れられた。


 源太と成隆は骨折で済んだ。源太があの晩独断でベランダから飛び降りなかったら、恐らく匠と同じことになっていただろう。

 一番の軽傷だった成隆はすぐに動けるようになり、いろいろな事務処理に追われた。都湯のあった場所は昔からの木造民家が立ち並ぶ集落であり、両隣が半焼し、そちらへの賠償など行わなければならなかった。退院後は住むところがなくなり、会社の会議室へ泊まらせてもらった。


 源太は病院のベッドの上で、ぼんやりとすることが多くなった。成隆が病室にやってきても、言葉を発することをしなかった。源太の発言と反比例するように、成隆は仕事に事務処理にやることが増え、それらに追われてすれ違う日々が多くなった。火事の原因は放火だった。失火ではない分、やりきれなかった。源太のためだと思わなければ、やっていられなかった。ひとりぼっちになってしまったつらさは、痛いほどよくわかる。こんな時こそ、源太の側にいてやりたいと思うのに、時間がそれを許さない。

 こんなに自分は何も出来ない存在だったのかと、成隆は落ち込んだ。成隆のかける言葉は、源太の中を素通りしているようだった。何を言っても、今の源太には響かない。それでも、少しでも元気になるようにと成隆は励ましの言葉をかけ続けた。


 それしか、できなかった。


 だが、現実は厳しかった。一人生き残った綾野の親族が、誰一人として綾野の面倒を見ようとしなかった。金口家には親族が残っておらず、中野家の人間は匠と関わるのを嫌がり、綾野に会いにも来なかった。それに、半壊させた家の賠償額は保険では足りず、借金をしなければ払えそうにない。今の成隆では、これ以上どうしようもできなかった。源太にも告げなければならない。あの家の持ち主は成隆ではなく源太なのだ。しかし、源太の今の精神状態を考えると、そんなシビアな話はできるだけしたくなかった。


「源太……?」


 ある晩、源太の病室を訪ねると、源太は窓の外を見つめていた。ここではないどこかを見つめ続けるその表情に、成隆は見覚えがあった。現実を諦めた者の表情。子どもの頃、施設にやってきた子どもたちは皆、今まで無条件で与えられていた自分の居場所を失い、どの子も声をかけづらい雰囲気だった。


「成隆?」


 どれくらい入口で立ち尽くしていたのだろうか。かけられた声で、ふと我に返る。本当に、こんな顔をした人間に、していい話なのだろうかと、ここに来てまだ迷う。


「源太、桃缶買ってきた」

「ありがと。成隆、ちゃんと寝てる? なんか、クマが……」


 源太が手を伸ばす。腕のあたりに、火傷の後が見えて、急に成隆の中で、感情が爆発した。


「ごめん、源太……!」


 勢いのまま、細い身体を抱きしめる。


「……成隆?」


「俺、ずっと源太の側にいるから。そりゃ、いつかは死んじゃうかもだけど、でも、生きてる間、俺が生きてる間は源太がいやがるまでずっと側にいるからな?」


 この言葉がどれだけ源太の中に届いているのか。わからなかったが。これだけは本当だ。あの日から――声をかけられた子どもの頃のあの日から、成隆は欲しかったものを源太から全部もらった。家族の暖かさ、誰かを慈しむ気持ち、他人を思いやる心、どれも源太が優しく成隆を引っ張ってくれなければ知ることすらできなかったものだ。


「俺、一生、源太の味方でいるから。覚えておいて」


 ぎゅうと、抱きしめる腕に力を込める。


「好きだよ。好き。俺、源太がいないときっと生きてなかった。これまでも、これからも」

「なんだよ、それ……」


 腕の中で、源太が笑ったのがわかった。


「それじゃまるで、俺が生きてないと成隆も生きてないみたいじゃん」

「そうだよ? 死んだら許さないからな」

「……うん、ありがとう、成隆。大切な人って、いつの間にか知らないうちに側にいるもんなんだね」


 源太が顔を上げて、成隆に近付いてきた。そっと寄せられる唇。

 ちゅ、と。軽い音が鳴った。

 まさか源太の方からキスされるとは思ってもみなかった成隆は驚いて持っていた桃缶の袋を落としてしまった。動揺しすぎて言葉が出ない成隆を見て、源太がぷっと吹き出した。


「俺、成隆がいないとダメみたいだ。ここで寝ていて、ずっと考えてたんだ。成隆って昔から疑いもなく俺に優しくしてくれるだろ? それがなくなったらどうしようって、ぐるぐる考えてたんだ。

 でも、成隆、俺がいやだって言うまで、ずっと側にいてくれるんだよな?」


 どうやら、さっきのキスで、悩みも全て吹き飛んでしまったようだ。それでも、成隆の反応を確かめるように一つ一つ、ゆっくりと言葉を紡いでいく源太に、成隆は伝わるようにと大げさに首を振る。


「そうだよ」

「だったら、俺も、成隆の側にいて、成隆の好きなこととか好きなものとかいっぱいあげようと思って。成隆のこと全部欲しいから、成隆に好きなものいっぱいあげようって思ったんだ」


 そう言って見上げた源太と目があった。上目遣いの不安げな源太が想像以上に可愛くて。成隆はもう一度、今度は自分からキスをした。何度も息継ぎをして、何度も角度を変えて。好きだというあふれる気持ちが伝わるように、何度も何度も激しく口付けた。舌を絡めて、唾液を吸って。子どもがふざけてするキスとは全く違った、深い意味を持った深いキス。


「好き……好きだよ……」

「うん、俺も好き……」


 息を継ぐ合間に、思いの丈を口にする。ずっと言いたくても言えなかった言葉。源太も同じことを思っていて、同じように成隆に気持ちを伝えてくれることが、こんなにも嬉しいことだとは思わなかった。

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