第11話

 十月十日ののち、小夜子は女児を出産した。

 玉のように可愛いと匠も小夜子も大喜びだったが、


(猿?)

(猿?)


 病院まで見に行ったというのに、源太と成隆の感想はそれだった。

 ただ、久々に会った小夜子の顔は女の子から母親のそれに変わっていて、愛情満ち溢れ娘を見るその眼差しに、成隆は自分のことのように嬉しくなり泣きそうになったのだった。


(この子は、愛されて生まれてきたんだな)


 それがわかっただけでも、病院まで見に来たかいがあったというものだ。

 娘は、綾野と名付けられた。

 だが。

 無事娘が生まれたというのに、匠と小夜子の名前は金口と中野のままだった。これが小夜子の意向によるものだと成隆や源太が知るのは、綾野が生まれて三日後のことだった。


「小夜子の容態が急変した」


 出産後も体力が戻らず入院し続けていた小夜子が危篤状態になったと連絡があったのは、夜中一時を過ぎた頃だった。その日は土曜日で、源太と成隆はそろそろ寝ようかと布団を敷いていた最中だった。匠から電話をもらった源太が泣きそうだった。


「あいつら、なんで黙ってたんだろ……!」


 小夜子が入院している大学病院に駆けつけたとき、もう既に、小夜子はこの世にはいなかった。


「どうして……?」


 白い布にくるまれた小夜子を、唇をかみしめたまま見つめる匠は、なにも答えなかった。


「なんで黙ってたんだよ!」

「源太!」


 小夜子にはたくさん助けてもらった源太は、急な事態になぜと繰り返すばかりだった。成隆は小夜子を見る。白い布からちらりと見えている腕は皆で銭湯を切り盛りしていた頃よりも明らかに細くなっている。点滴を繰り返したらしくその腕には針の痕がいくつか残っていた。


「ごめん、塚本」


 ぽつりと、絞り出された声。


「アイツが、言い出したことなんだ」

「え」


 思いも寄らない言葉に、源太の口が止まった。

 妊娠中、小夜子に重い病気が発覚した。匠と小夜子は再び子どもを産む選択を迫られた。産むことを選べば、小夜子の体力がなくなり、生き続けることが難しくなってしまうと医者から告げられた。


 それでも、匠も小夜子も、迷わなかった。

 いや、正確に言うと匠は一度迷ったという。小夜子を失うことが怖かった。それでも、小夜子の方が寸分も迷わなかったのだ。強い小夜子の意志に、匠は迷っている場合ではないと悟った。


 むしろ、現実を受け入れられなかったのは周囲の方だった。


 こんな状況に追い込んだのは匠のせいだと言って、心ない言葉を浴びせかけた。いや、それだけならまだ良かった。匠は結婚を最後まで許してもらえなかった。最後は会いに行っても顔さえも見せてくれなかった。


「あの時は本気でどうしようかと思った」


 それでも、小夜子の方が匠を励まし続けた。出産間近になると入院しなければならなくなり、頻繁には連絡がとれなくなった。それでも、面会時間ぎりぎりになっても、匠は小夜子を見舞った。ベッドの上で、小夜子は結婚しなくて良いと言い続けた。匠はどうしても、籍だけは入れたがったが、長く生きられないことがわかっていた小夜子は、バツイチになってしまう匠に気を遣って、最後まで頑なに婚姻届に判子を押さなかったという。


「……中野ぉ」


 源太はその話を聞いて、夜中だというのに声を出して泣いた。やりきれなかった。どうして彼女のような人間が、最期までこんな目にあわないといけなかったのかと思うと、涙が止まらなかった。


 数日後、葬儀が川を挟んで向こう側の葬儀所で執り行われた。匠は立ち会わせてもらえなかった。最期くらいはと抗議をしたようだったが、聞く耳すら持ってもらえなかった。葬儀当日、綾野を抱いたまま、川の畔の遊歩道で葬儀所をぼんやりと眺めた。

 成隆と源太も付き添った。その川の道は、小学生の頃匠によく追いかけ回されたあの国道への道だった。古い家屋と新しいマンションが混在した町並みや緩やかな川の流れだけは、あの頃と同じままだった。


 成隆はふと、匠の過去を思い出した。


 再会後源太から聞いたことだが、匠は既に小学生の頃両親を亡くしており、ずっと祖母に育てられたらしい。その祖母も他界し、一人残された匠は、小夜子と家族を持つことだけを希望としてきた。その匠の絶望は、一体いかほどばかりか。同様の体験をしてきた成隆や源太にも想像はできるが、現状の彼の心内までは推し量ることができなかった。

 葬儀所から車が出てくるまで、三人と一人は、その場から動かなかった。いや、動けなかった。匠はじっと見つめるだけで終始無言だった。逆に、源太がしきりと泣きじゃくっていたのを、成隆はぼんやりと見つめていた。


 匠は生まれたばかりの娘とともに放り出された。小夜子が妊娠していた頃から、匠は大学を辞めて、働きに出ていた。付きっきりで世話をしなければ生きていけない新生児の面倒を見る余裕など、今の彼にはどこにもなかった。


「成隆っ」


 源太が、二人のサポートを買って出ると言い出した。銭湯なら、都も近所の女性たちもいるし、綾野がぐずってもなんとかなるだろう。普段はわがままを言わない源太が、まっすぐ成隆を見て、頼みごとをしている。今の彼らを助けることが、ひいては小夜子への恩返しになると信じているらしい。

 勿論、否やはないので、成隆もすすんでサポートをすることにした。そのことを匠に話すと、背に腹は代えられなかったのだろう、二人の言葉に甘えてくれた。


 都湯に新しく女の子のバイトも入り。新たなメンバーで、新たな生活が始まった。小さな子どもがいる生活というのは斬新だったが、気苦労も多かった。

 目まぐるしく日々を過ごす成隆は気付かなかった。時折、源太がこっそり風呂場で泣いていたことを。

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