第9話

「は? 結婚? 誰と?」

「小夜。子どもができたから」


 言われた言葉が、すぐには理解できなかった。


「ええええええええ!」


 大声が出てしまった。匠が慌てて、成隆の頭をつかみ黙らせる。


「うるっさい! 迷惑だろ」

「っだ、お前、大学三年だろ? どうするんだよ!」


 経済的に余裕がない辛さは、誰よりも成隆がよく知っている。親が余裕のない家庭で、親も子どもも、どれだけ苦しいかも。

 だが。そんな言葉に匠は揺らがなかった。


「俺より辛いのは小夜子の方だ。産むのはあいつだ。それに……もう後戻りはできない。気付くのが遅すぎて選択できないんだよ」


 小夜子のお腹の子は、もう五ヶ月になるらしい。そこまで気が付かなかったのもすごいが、なるほど、それだけ大きければもう産むしか選択肢が残されていない。


「けどさ……選択できたとしても、俺は小夜子に産んで欲しいって言うと思う。だってさ、俺と小夜子の子だぞ? 可愛くないわけがないじゃん? 絶対出てきて欲しい。生まれる前から生きることを否定されるなんざ、俺が許さない」


 真っ直ぐな言葉。知らずあふれる涙。


「おい、なんでお前が泣くんだよ」

「……ごめん」


 それはまさに、成隆自身が小さい頃欲しかった言葉だった。もしかしたら自分の両親も、成隆が生まれる前はこんな風に成隆のことを思ってくれていたのだろうか。今となっては確かめる術もないが、こんな風に思っていてくれていたとしたら、成隆にとってこんなに救われることはない。


「ありがとう、金口。俺、なんか人に愛されるってどんなことか、わかった気がするよ」

「……鮫島、ごめん」


 その謝罪の言葉に、今までの全てが詰まっていた。傷付いた鋭利な言葉も。鈍く重かった現実も。全て。

 そんな気がした。


「じゃさ、中野にはゆっくり休んでもらって、お腹の子を大事にしてやんなきゃな」


 それに、匠自身も、小夜子とお腹の子のために、仕事を探さなければならない筈だ。帰ったら源太に相談しなければ。きっと、源太も都も新しい命の誕生を喜んでくれるだろう。それに、銭湯の経営はそろそろ自分たちでなんとかしなければならない時期だろう。源太ならきっとわかってくれる。成隆は疑いもなくそう思う。


「ありがとう、鮫島。お前に話せて良かったよ。自分一人だったら多分決心が鈍るところだった」

「何かあったら相談してくれよ。今度は俺たちが二人を助ける番だ」

「うん。本当にありがとう」


 成隆がその匠の決心の堅さを知るのは、もう少し先のこととなる。

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