第5話

 最寄りの停留所まではすぐだった。だが、成隆の感覚では、のろのろと進んでいるようにしか見えなかった。誰かが亡くなったという事実が嘘だといいと、何度も心の中で祈った。

 電車を降りる。停留所は小学校の方角とは銭湯を挟んで逆側だった。小さな頃の記憶しかなかったが、なんとかなったようだ。目指す銭湯の煙突が見えた時、記憶の中の風景と全く相違なくて、嘘だといいと思った気持ちに拍車がかかった。

 あの日、源太が成隆を見つけた小さな庭先。白いコスモスが夜風に揺れていた。一瞬にして、あの頃に戻る。


「おばあちゃん?」


 誰かいるかも知れない。呼びかけて、中に入った。あの頃となにも変わらない作り。土間に続く扉が開いていて、白い灯りが漏れていた。


 ボイラーの前で火加減を見ていたのは、祖母ではなかった。

 成隆よりも頭一つ小さな身長。まるで小夜子のような、ふわふわの天然パーマ。細身だが、要所要所しっかり筋肉がついている。軍手で流れ落ちる汗を拭うから、煤が頬についている。その癖は、あの頃のまま。


「……つかもと、くん……?」


 栄か源太か、成隆にはわからなかった。想像の家で一緒に暮らしていたのは、小さなままの源太だったが、その小さな源太とはあまり似ていなかった。恐らく、背の高さと、髪の毛の長さが違うせいだ。どちらかわからないので、下の名前では呼びかけられなかった。


「あれ? ……どちらさまで?」


 あの頃とは違った音色。声変わりをして、低くなった。だが、優しさの中に不審がっている色が混じっていて、締め付けられる。


「近所の人? 越してきたの? 良かったら風呂に入っていってくださいよ」


 でも。そう言って笑う笑い方だけは、一緒だった。


「……源太、だろ?」


 確信する。人なつっこいのは源太の方だ。栄なら、もうちょっとにやにやする笑い方だ。


「俺のこと知ってる? あれっ? えっ?」


 呼ばれても、まだ心当たりがないのか、眉を寄せてしきりに記憶をたどっていたようだったが。


「あのさ、もしかして……さ?」


 ようやっと気付いたのか、あわあわと口を開けたまま次のまともな言葉が出てこない。信じられないとか。ああもうとか。嘘だとか。ひとしきり頭に浮かんだ単語が口をついた後。


「おかえり。成隆」


 真っ直ぐ向けられた言葉と視線に、心臓まで射抜かれた。こぼれ落ちる感情。最悪の状況を憂う気持ち。拒絶されたらどうしようと不安で仕方なかったこと。施設でも受けた、どうしようもない感情から生まれたいじめ。それよりもなによりも、ずっと会えなくて寂しかったこと。

 思い出という枠では収まりきらなかった感情。

 それらが一緒くたに混ざったわけのわからない感情が溢れて止まらない。施設に入ってから我慢し続けていた涙が、色々な感情と一緒に飛び出して成隆自身にももはや止めることなどできなかった。


「ただいまっ」


 身体が勝手に動いた。源太の身体を抱きしめ、泣いた。あとの言葉は判別できなかった。

 源太もおそるおそると成隆の背に手を回した。込められた力が、成隆を受け入れている証拠のようで。成隆も腕の力を込め返した。


「会いたかった。あの夜からずっと、成隆のことが心配でしょうがなかった。けど……」

「えっ?」

「父ちゃんと母ちゃんと兄ちゃんが……いなくなってさ……それどころじゃ、なくなったんだ……」


 聞き取れたのはそこまでだった。源太も声を出して泣きじゃくっていた。二人は抱き合ったまま、子供のように大泣きした。

 それはまるで、あの夜の続きのようだった。感覚が、一瞬で、あの頃に戻る。


「源太? あんた何やっとるん?」


 声があまりにうるさかったのだろう、階段の方から声がかかる。


「都ばあちゃん?」


 成隆が声を上げたのに、都は目を丸くした。彼女はすぐにわかったようだった。


「なるちゃん? なるちゃんなのね? まあ、大きゅうなって……!」

「おばあちゃん!」


 後はもう、三人に言葉はいらなかった。ひとしきり泣いた後、今日はもう銭湯を閉めるということを伝えにやってきたことを思い出した頃には、かなり遅い時間となっていた。あの頃と同じ口調で泊まって行きなさいなとしきりに勧める都の言葉に甘え、遅くなることを施設に伝えた後、成隆は片付けを手伝った。

 銭湯の仕事を手伝うのはおよそ十年ぶりくらいだったが、すぐに思い出せた。


「なるちゃんも大人になったのねぇ。ネクタイよう似合っとったよ。かっこ良かった」


 そう言った祖母の顔が自分の目線より下になっていた。嫌でも過ぎた年数を自覚せざるを得ない。


「美津子さんもここにおったら、たぶんおんなじこと言うとったよ。かっこよくなったなるちゃんに会いたがったろうねぇ」


 あの頃大人数でギュウギュウだった居間。今ここに居るのは、成隆と源太と都の三人だけだった。仏壇に飾られた写真が増えていて、小夜子の言葉を思い出す。


「あの……お父さんと、お母さんは……?」

「兄ちゃんの大学の入学式に行く途中で……」


 源太の声は小さくかすれていた。


「めでたい式だからって、おじいさんもついていってね。みんなで車に乗って出かけたんだ。その時、高速で飲酒運転のトラックの単独事故に巻き込まれて……」


 それ以上は何も言わなかった。栄と源太はそんなに年が離れていなかったはずだ。まだ、少し前のこと……成隆は絶句した。あんなにのびのびとして元気いっぱいだった源太が、下を向き、唇を噛んで何かを堪えている。その姿が、とても小さく見えた。


 傷付いている。


 その悲しみは今もまだ、彼の中で折り合いがつかず、行き場のないままぐるぐると締め付けている。


「あっ……あのっ!」


 成隆の口が、独りでに動く。


「源太とおばあちゃんさえよければ、だけど。俺をここに置いてくれないかな……?」

「えっ?」


 思いもよらない言葉に、源太と都は顔を見合わせた。


「俺……横川の会社に就職したんだっ。あの頃みたいにお世話になりっぱなしじゃなくて、今度は俺にできることを、お返ししたい」

「なるちゃん……?」


 都が申し訳なさそうに口を開く。


「今本当に家計も経営もうまくいってなくてね……? ほんまになるちゃんには苦労しかかけないかもしれんのよ?」

「いいよ? だって、今までどんなにつらくても、一人でがんばらなくちゃいけなかったけどさ。これからは源太もおばあちゃんもいるから、俺、きっと何でもできるっ」


 力強く言った成隆に、都の涙が溢れた。


「ほんまこの子は……」



 こうして成隆は、再び都湯の子となった。

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