第10話
いつもなら、まだこの時間は誰もいない。が、アパートの部屋に明かりが灯っているのが見えた。
「お母さん……かえってる?」
今日はいいことが続くなぁと、成隆は嬉しくなって駆けだした。お腹はいっぱいだし、乾燥機から出てきたばかりの服はほんのり暖かくて、本当に、いいことばかりだと思った。
「お母さんっ!」
家の鍵は開いていた。勢い良くドアを開けても、窘める声は聞こえなかった。それどころか――
「……お母……さん……?」
窓が割れていて、カーテンがゆらゆらと風に揺れていた。タンスも戸棚もひっかき回されていて、中身が床に散乱していた。靴で踏み荒らされたようで、泥があちこちに飛んでいた。
「おかあさん……」
呼んでみても返事はなかった。冷や汗がどっと出た。泥棒が入ったのだろうか。もし、泥棒がまだ中にいても、幼い成隆の力ではどうすることもできない。
いや、母とて女性なのだ。男の泥棒なら対処することができないだろう。成隆の脳裏に、最悪の場面が浮かんで、足がすくんだ。母を、守ることが、できるだろうか。いや、何もできないかもしれないが、努力はしよう。母一人子一人の家族なのだ。
しかし、成隆の決意もむなしく、最悪の事態が襲いかかってきた。
果たして、犯人は部屋の中にいた。それは、男の泥棒ではなかった。成隆の、良く見知った顔だった。
「お母さん……!」
部屋の真ん中で、頬に血がついたまま、立ちすくんでいたのは、見紛うはずもない、成隆の母、有美子だった。
部屋に入ってきた成隆を、有美子が鋭い目線でにらみつけた。いつも居ても目に入らなかった成隆を、有美子が、見つめている。だが、こんな状況で見てほしいとは望んでいなかった。
「幸彦さん……?」
父の名前で呼ばれて、成隆はひっと声を漏らした。そのまま、動けなかった。
「帰ってきたの? 何しに帰ってきたの!」
鬼の形相で近寄ってきて、成隆の腰が抜けた。散乱した服の上にヘたり込んだ。有美子の手がのびてきた。首を捕まれて、息ができずに成隆はもがく。たたいても押しても、有美子はぴくりとも動かなかった。
「私を捨てて、良くもぬけぬけと戻ってこれたわね!」
「ち、がうよ……おかぁ、さん!」
成隆は必死に手足を動かし、母の名を呼んだ。だが、もう有美子の耳には届いていないようだった。それでも、何度も何度も、繰り返す。この後に及んでもまだ、成隆はあきらめてはいなかった。母が元に戻ること。父が戻ってきて、また三人で仲良く暮らせること。
だが、手の力はゆるまず、それどころか更に強まり首を絞め始めた。肺に空気が入らない。頭の中がうるさい。エンジンのような音に支配され、周りの音が聞こえない。母が何かを叫んでいるが、聞き取れない。もうダメだと思った瞬間。
「そう、あの女よりも私の方がいいって気付いたのね……?」
何を思ったのか、有美子が急に首にかけた力をゆるめてきた。
「か……はっ」
肺に空気が入ってきて、成隆ののどがひゅうと鳴った。そしてそのまませき込むが、再び有美子の手が伸びてきて、あわてて身をよじった。伸びた手が空を切った。せき込みながらも、成隆は身体を起こし、そのまま外へ飛び出した。転がるようにアパートの敷地から逃げる。
有美子は追ってこなかった。
ずっと我慢していた、成隆の涙腺がついに崩壊した。
「うあああああああああああああああ!」
声も、涙も、自分の意志で止めることなど、できなかった。ただ泣きわめきながら、走る。あてもなく。途中足がもつれて何度も転んだが、それでも立ち上がり、走り続けた。もう家になど戻りたくない、無意識が足を動かした。決して速いスピードではなかったが、足はなるべく遠くに逃げようと止まることを許さなかった。
「なるたかっ!」
ふと強く手を引かれた。
その力に、ふと我に返る。手を引いていたのは、源太だった。どちらへ逃げるとも考えていなかったが、無意識に塚本家の方向へ走っていたらしい。そこは源太の家の向かいの、公園だった。
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