第6話
永遠にも続くように思われたその静寂は、やがて玄関のドアの開く音によって破られた。
成隆は顔を上げる。入ってきた母――有美子と、目があった。
「お母さん」
が、その声に、母親の動きが止まることは……なかった。
視線は止まることなく通過し足下へと注がれた。スーツ姿の有美子はまるでここには誰もいないかのようにパンプスを乱暴に脱ぎ捨てると、持っていた鞄をダイニングテーブルの上へ放り投げた。あまり大きくはないテーブルの上、衝撃で、開けられてもいない請求書の封筒がいくつか下へ滑り落ちた。
有美子はそのまま冷蔵庫へと歩み寄り、牛乳を取り出すと、コップへも注がないまま飲み、ふぅと息を吐いた。成隆はその一部始終を見ていた。昔はこの母に同じことをして怒られたものだが、今は怒った母が平然とやっている。
いつものことだから。
成隆はぎゅうと手を握った。手の中に変な汗がびっしょりと出てきたが、構っていられなかった。我慢すれば、いつかは元に戻る。戻るから――
今日は外で食事を済ませてきたらしく、冷蔵庫のドアを閉めた後、風呂場へと向かう。家で食事をする場合は、牛乳の後に弁当が入る。いつもならこの流れで今日は食いっぱぐれるところだったが、塚本の家でカレーを食べられて助かった。弁当はいつも一人分で、成隆のものはいつだってなくて、小食の母が残す物で、飢えをしのいできた。成隆はきゅうりと茄子が苦手だったが、茄子の天ぷらやきゅうりの酢の物しか残らなかった時はそれらを食べた。空腹を紛らわせられるなら、贅沢は言っていられなかった。
有美子が風呂に入っている間に、成隆は布団を二人分敷く。
だが。
「あれ? 私、布団上げずに仕事に出たっけ……? やだー」
どんなに干した後のふかふかの布団でも、いつも有美子はこの言葉を口にする。それが明らかな当てつけではなく、本当に思い出せないといった口振りなのが、成隆の心を重くした。
(今日も……ダメだった……)
輝きの森であったことを話して慰めてもらいたかった。大丈夫だよと言ってもらいたかった。頭を撫でてほしかった。
布団の上で絶望に打ちひしがれている成隆など、本当に見えていないらしい、有美子が部屋の電気を消した。五分とたたないうちに、寝息が聞こえてきた。
いつからこんな生活になったのか。成隆には思い出せなかった。父と母が離婚したのは、小学校に入ってすぐのことだった。小さかった成隆は、詳しいことはあまり覚えていないが、いつも父と母が言い争っていたことだけは覚えている。そして、ある日の夜、待っても待っても父が帰らなかったことも。
その日以来、父は一度も帰ってきていない。噂によると、蒸発しただとか、失踪しただとか、事件に巻き込まれただとか。真相は闇の中だったが、とにかく父とは連絡を取ることができなかった。
そしてその日から、母は外へ働きに出始めた。
有美子が新たに勤めている職場は忙しいところらしく、どんなに早くても、九時より前に帰ってきた試しがなかった。酷いときは日付が変わっても帰ってこず、小さな成隆は泣きながら布団をかぶって母の帰りを待ったものだ。
だが、当初はまだ、成隆のことを認識していたはずだった。
はっきりしたラインはなかったが、日々の生活に追われていた有美子は、だんだんと成隆の世話を忘れていったようだった。最初は時々成隆の世話をうっかり忘れる程度だったが。そのうち忘却の頻度が増し、程度が酷くなり、ついに一日も思い出すことがなくなってしまった。
忘れていても、姿を見れば、お前は誰だと問いただされそうなものだが、成隆にとって救いがないことに、視界に入っても認識ができないらしく、まるで動く家具がそこにあるかのように、有美子は成隆を居ないものとして生活を始めてしまった。
初めて視線が合わなかったときの絶望感といったら。言葉では言い表せない。成隆は両親が喧嘩をしていた頃から、自分の気配を消すことに慣れていたが、それでも自分の存在を無視された時の絶望感は、まるで身体が、ぼろ雑巾を絞るように引きちぎられたかのようだった。
それでも。待っていれば、両親が喧嘩をやめたように、いつかは終わりが来る。元に戻るに決まっている。そう信じることにした。それだけが、幼い成隆にとっての生きる意味だった。
食事は待っていても出てこないので、前述のように弁当の残りと、学校の給食だけで食いつないだ。あまりにお腹が空きすぎて、冷蔵庫にあった煮干しや、鰹節なども食べたが、母が自炊をしなくなったので、それらはあっと言う間に底をついた。洗濯は母が日曜にまとめてするのでその中にそっと紛れ込ませた。服は毎日同じものだった。よれよれになったり、穴があいたら、母が着なくなったTシャツを失敬した。有美子は全く気がつかなかった。
風呂は着火式の風呂窯で、小さな成隆には風呂を沸かすことすら難しく、いつも水で濡らしたタオルで身体を拭くだけだった。
そのうち、臭いがひどくなった。だが、成隆本人は気付かなかった。自分の臭いに自分が気がつかないとはよく言ったもので、嗅覚が麻痺した成隆にはわからなかった。小学生は残酷なもので、ひどい臭いの成隆をいじめ始めた。
最初に臭いといい始めたのは、同じクラスの金口匠だった。匠は典型的なクラスのガキ大将で、言いたいことをずばすばと言う気の強さと、同学年の少年たちの中でも身体が大きかったので、誰も彼に逆らうことができなかった。腰巾着の少年たちは匠同様、汚い、臭いと成隆を罵った。今日、輝きの森で成隆をいじめていたのも、この匠と彼と仲の良い信二と大介だった。
教師たちは、成隆の問題をただのいじめとしてしか捕らえていなかった。事実、給食費や教材費などは、きちんと支払われていた(もちろん成隆が母親の財布からこっそりと抜いていた)ので、誰も母親が世話をしていないなど思いもしなかった。教師たちは軽く匠たちを注意するだけで、ほぼ見て見ぬ振り、同様にいじめに関わらない子供たちも見て見ぬ振りを通し、いじめはエスカレートしていった。
明日もまた、今日の繰り返し。
ひとりぼっちで学校へ行き、誰も助けてくれないままいじめられ、家に帰れば母から見捨てられる――
そこまで思い返して、成隆ははたと手を止める。
ああ、そうだ。今日はひとつだけ、いいことがあった。
大きなお風呂に、塚本兄弟と一緒に入ったこと。家族と一緒に、カレーを食べたこと。楽しい家族に、面白い会話。
(また、会えたら、いいなぁ)
思い出したら、きゅうと心臓のあたりが暖かくなった。身体の奥底から沸き上がってくる、ふわふわと心地よい気持ち。もう一度、あの輪の中に、入ってみたいと思った。ほしいと思っても手に入らない宝物みたいに、遠い存在であっても。
ゆっくりと、目を閉じる。
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