第3話

 幸い、先ほどの三人の声ではなかったが。恐る恐る声がした方を仰ぎ見ると。成隆よりも少し大きな少年が、目を丸くして、立っていた。


「どしたん、それ」


 短く刈り込んだ髪に、利発そうな瞳。ブロック塀に小さな手にはめられた白い軍手が、半袖から出た日に焼けた浅黒い腕と対照的で、成隆の脳裏に印象的に刻まれた。ふっくらとした頬には、何をやっていたのか、黒い煤のようなものがついていて。そこまで見て、先ほどの三人ではないことに気付き安堵する。


「つ……つかもと……くん?」


 隣のクラスの、塚本源太だった。

 喋ったことはないが、顔は見知っている。小さな成隆よりも少しだけ背が高いだけで、同じ学年では小さな部類に入る彼だが、運動が得意らしく、確か隣のクラスでかけっこが一番早いと、聞いたことがあった。


「すげーぬれてる。かわかしたほうがいいよ?」

「源太ぁ、何やっとんー?」

「あ、ばーちゃん。ともだちがさー!」


 奥から聞こえた声に、大声で返答する源太。友だち、という言葉に、成隆の心臓がびくりとはねた。


「ばーちゃん、ふろわいたー?」

「何やっとんね!」


 別方向から伸びてきた手にぽかりと叩かれ、源太は頭を押さえた。


「ってぇー!」

「友だちと遊びに行く前に、家の手伝いをせんといけんよ!」


 一つにまとめられた長い髪。ピンクのカーデガンに、白いエプロン。塀が高く、成隆の身長からでは胸から下は見えなかったが。母親と同年代の女性が、身を乗り出していた源太の首根っこをつかまえた。さっきぽかりとやったのも彼女だ。成隆は目を丸くしながらも、おそらくは源太の母親だろうと見当をつけた。


「あら?」


 ずぶ濡れのシャツを着た成隆に気付いた彼女は、問答無用でひょいと成隆を片手で抱えあげた。


「源太! あんたまた友だちいじめたね!」

「いじめてねぇー!」

「嘘つきんさんな? この子濡れとるじゃない!」


 もう片方では首根っこをひっつかんだまま、奥へと入っていく。険悪な空気に、成隆は抱えられたままおろおろとするばかりだ。


「ち、ちがうん……です」

「ごめんね、うちの源太がやったんでしょ?」

「ちがうんです……」


 圧倒されるばかりで、それしか言えなかった。


「違うの?」


 聞き返されると、自分がいじめられていたことが急に恥ずかしくなってきて、成隆はきゅうと身をすくませた。


「でも、そんな格好じゃ風邪ひくよ? ちょうど風呂が沸いたからね、入っていきなさいな」

「えっ……でも」

「子供は遠慮しない! お風呂入ってる間に、そのドロドロの服も洗濯してあげるから。ね?」

「母ちゃん、こないだ買ったかんそうつきせんたっきつかいたいだけだろー」

「うるっさい!」


 有無を言わせない言葉に、成隆は頷くしかなかった。

 ブロック塀の内側は、猫の額のような小さな庭で、奥に続く小道を進むと、物置の入口のような、古びた扉があった。引き戸を引くと、むわっとした熱気がまとわりつく。そこは続きで土間になっており、なにやら機械のようなかまどのような、成隆にはみたこともない大きな装置がどんと置いてあって、源太の祖母であろう女性が、薪をくべていた。そこに入ってようやく、源太は解放された。


「源太ぁ、何しよるん?」


 祖母は成隆を見るなり、薪を放り、さも当然のように奥を指さす。


「どしたのその子、風邪ひくよ! はよ風呂入りんさい」

「源太、あんた、上から二人分タオルとパンツ持ってきな?」

「兄ちゃんは?」

「ああ、兄ちゃんも帰ってるか。んじゃあ、三人で一緒に。ここは母さんが見とくから」

「わかった。じゃ、さめしまくん、こっち」


 機械の横を通り抜けて、さらに扉の先には、階段があった。少し急な木造の階段を登ると、廊下が左右にのびていて、源太は成隆をここで待つように言い、左に曲がった。源太は奥の部屋のタンスから、タオルやら下着やらをひっつかみ、来た道を引き返す。成隆を連れ、階段を通り過ぎ先程とは反対側を進むと、そこは台所と居間になっていて。ちゃぶ台にノートを広げうんうんうなっている子が一人いた。源太よりも体は大きいが髪型がお揃いのところを見ると、この子が兄だろう。


「兄ちゃん、ふろ入れって」

「うん。そっちは?」

「さめしまくん。ぬれてたから母ちゃんがつれてきた」

「ふーん。さめしま何君?」


 いきなり質問され、成隆はびくりとはねた。源太の兄はいくつなのかはわからないが、頭一つ大きくて、あの三人組を彷彿とさせる。


「あのっ、なるたか、です……」

「成隆君? 名前かっけーな。オレは源太の兄の栄」


 かっこいいと言われ、成隆は頬を赤くさせた。源太同様よく日に焼けた栄がそう言って歯を出しにっと笑うと、途端に雰囲気が懐っこくなるのを見て、ようやく成隆の緊張の糸がほぐれた。


「うちの風呂、下にあんだ。こっちな」


 居間の奥が階段になっていて、下に降りると、そこは大きな脱衣所だった。ロッカーがいくつも並んでおり、その奥に大きな鏡、手前には冷蔵庫が置いてあった。中には白やらオレンジやら茶色やら、いろいろな牛乳瓶が置いてあって、ショーケースになった冷蔵庫が家に置いてあるのを、成隆は初めて見た。


「ふわぁ」


 まさか一階すべてが風呂だとは思っていなかった成隆は、口を開けたまま圧倒されていた。そもそも、銭湯に来ること自体、生まれて初めてなのである。が、


「なるー、そっちは女風呂だぜぇ?」


 栄にニヤニヤしながら言われて、顔を真っ赤にさせた。

 階段を下り手向かい側が高い台になっていて――そこは番頭台なのだが成隆はもちろん知らなかった――小さな木の板でできた扉をあけるとはしごで登れるようになっていた。


「こっちだよ」


 番台によじ登って、源太が手を伸ばす。目が合うとにっこり笑う。成隆がおずおずと手を差し出すと、勢いよく引き上げた。

 番台を乗り越えると、先程の女湯と左右対称の同じ作りの脱衣所があった。真ん中に置かれた台にカゴが積んであった。


「まだ誰も来ないから、ロッカー使わなくていいよ」

「……うん」


 栄も源太も、カゴを一つ床に置きそこへ脱いだ衣服を普通に放り投げるので、成隆も真似をして服を脱いだ。

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