第2話

 空気が肺に入ったのがわかり、遠くからピアノの音が聞こえた。音楽室で合唱団が練習している音がかすかに聞こえたが、ここに帰ってくる人間は、誰一人としていなかった。地面に転がったまま泣き続けた。涙が止めどもなく溢れ、それがせきのせいなのか悲しいせいなのか、いったい何が原因なのかよくわからなかった。


「ひっく……っく、ひひっ」


 横隔膜が痙攣して、声が出なかった。小さな子供のように、大声で泣けたら、どんなに気分が楽になっただろうかと、やけに冷静な脳の中がぼんやりと考えていた。彼も、まだ十分小さな子供だというのに。


 しばらくそのままの状態で身体を投げ出してみても、出てくるのはしゃっくりばかりで、肩のあたりの筋肉がひきつり始めた。さすがに、苦しくなってきて、どうしようかと焦ってくる。

 小学生の少ない知識で、必死に考えた。水を飲めば治るかと安易な考えに至る。昇降口まで戻れば、水飲み場用の水道がある。まだじんじんと鈍い痛みが背中と足に残っていたが、ゆっくりと立ち上がった。


「くつ」


 放り投げられたままの靴は、片方だけ、奥に続く小道の真ん中にあった。裸足のまま小道を歩くと、舗装など当然されてない道に転がっていた小石が足の裏に突き刺さった。歩く度にちくりちくりと小さな痛みが伴い、たったの数メートルですら歩きたくなかったが、彼はこれがなければ到底森からも出られないことを知っているので、嫌でも取りに行かざるを得ない。

 埃まみれの靴だったが、片方だけでも、あるのとないのでは痛みの有無が違う。片方だけはいたまま、今度は反対方向の小川の淵まで、ゆっくりと鈍く痛む身体をひきずりながら、靴を探し歩いた。


 もう片方の靴は、深緑色に淀んだ小川に浮かんでいた。

 水深は浅いものの、流れがほとんどない小川はとてもではないが入るのをためらう色をしていた。


 それでも、これをはいて帰らなければ。


 ランドセルを岸に放り、ゆっくりと、緑色の中を進む。水の底は大きな石があるのだろう、苔でぬるぬると滑る。小さな身体では膝上くらいまで、緑色がきて、足下は到底確認できない。慎重に慎重に、歩みを進める。

 幸い、そんなに大きな川ではなかったし、岸から近くに浮いていたので、三歩進めば、靴にたどり着けた。水をはじく素材の靴は、塗れてはいるものの、水を吸い込んで重くなったり沈んだりはしていなかった。


「よかった」


 靴にたどり着き、つかんだ瞬間。

 つるりと滑ったと感じた瞬間に、派手に転び水しぶきがあがった。

 鼻から水が入り込み、のどの奥がつんと痛くなる。おぼれるかともがいたが、幸い、岸に近い方向へ転んだらしく、すぐに手をつくことができた。

 シャツが水を吸って、まるで鉛でできた服を着ているようだった。藻がところどころついて、緑色に変色していた。

 岩のように重いランドセルを引きずり、這々の体で昇降口まで戻ってくると、シャツを脱ぎ水道の水で洗う。


 さめしまなるたか。


 乱暴に扱いすぎたのか、名札が水道の水に流された。マジックの名前はにじみすぎていて、書いてあるのが自分の名前だとわからなければ読めなかった。名札を拾い、ズボンのポケットにねじり込む。ズボンはおろかパンツまでびしょ濡れだったが、下までは脱げなかった。気持ち悪かったが、そのまま、シャツだけをのろのろと洗い、力が入らずろくに絞れないまま、そのまままた着た。水分をびっちりと含んだシャツは身体にぴったりと張り付いてどうしようもなく気持ち悪かったが、もうどうでもよかった。


 涙も出てこなかった。


 髪から靴まで濡れネズミなのだが、ここに誰もいないのだけが救いだった。スポーツ少年団の練習も休みのようで、グラウンドはしんと静まり返っていた。合唱団の練習の音も、もう聞こえなかった。もし知った顔に会ったら。こんなみずほらしい姿を見られて陰で嘲笑されたら。そう思うだけで、死にたくなるほど恥ずかしかった。

 橋から落ちた痛みは、とっくにどこかへ消えてしまって、それはよかったと思った。だが、だんだん寒さが襲ってきて、震えが止まらなくなった。腕をさすると、真冬の水のように冷たく、熱を失っていた。


 それでも何もしないよりはましだと、両腕を自らさすりながら、校門を後にした。目の前の国道を走る車の排気や熱気が、ストーブのように暖かく感じられて、もっとここにいたいとすら感じられた。

 だが、そうもいかない。

 歩道橋の階段をゆっくりと登り、向こう側へ渡る。


 中州の真ん中を通るメインストリートは、昭和の時代には近くの大手タクシー会社のドライバーのために飲み屋が軒を連ねていたが、今は社宅から人が減り、マンションやアパートの一階部分にひっそりと残るだけとなった。残っている社宅や古民家は小さな路地に固まるように身を寄せあい、その様子を隠すように、国道沿いに背の高い分譲マンションが乱立していった。

 だが、時折車が通る以外は生活音が家の中から聞こえてくる程、静かだった。


 やっと、帰れる。学校という名の檻から出られたことをはっきりと悟り、安堵の息が漏れる。まだ、自分の居場所がある、自宅へ。冷たい上着も、さっきから小さな虫が入り込んでいるような気がしてならない気持ち悪いズボンも。家に帰れば、変えられる。



「さめしまくん?」



 メイン道路沿いを歩いていた小さな身体を、路地の奥から呼び止める声がして。成隆はびくりと身体をすくめた。

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