第1章
第1話
「やあーい、こしぬけぇ!」
「くやしかったら、ここまでこぉい!」
嘲笑いながら言われるのを、唇をかんで眺めていた。そこへ行きたいのに、追いつきたいのに、腰があがらない。まるで、足の骨をとられたみたいに。
いや、骨はあるのだろう。足は細かく震え、力が入らない。前にも、後ろにも、進めない。それがわかると、手で体重を支える他なく、今度は腕がぶるぶると震えた。
中央小学校には、校舎と校門の間に、小さな森がある。子供たちが自然をふれあうのを良しとした初代校長が、小学校を作る時に植えた木々がすくすくと育ち、今では森のように見える。その森は「輝きの森」と呼ばれ、授業中は生き物の観察、休憩時間や放課後は児童たちの格好小野の遊び場となった。
児童の数が増えてからは、そこに木製のアスレチックが作られ、体育の授業でも使用されるようになった。アスレチックと言っても、そこは校庭の一角、丸太でできた山にロープが垂らされ山登り遊びをする遊具と、物見矢倉のような大きなジャングルジムが二つのみだった。
その二つのジャングルジムは、丸太の橋がかかっていて、どちらのジャングルジムへも渡れるようになっていた。その橋は、太い丸太の左右に小さな丸太で握り棒がムカデのようにとりつけられており、丸太の上をたったと走り抜けてもいいし、握り棒を持ちながら、丸太にまたがって渡ってもいい。
ただ、その高さが三メートル程はあり、低学年は危ないから渡ってはいけないことになっていた。実際、そのジャングルジムには梯子などいっさいなく、一メートルの段差が三つあるだけで、そこをよじ登ることができなければその橋にたどり着くこともできない。だから、いくら規則で危ないから渡っていけないことになってはいても、小さな子はそもそも手が届かないし、怖くて登れないのである。
「ばーかばーか」
「さめしまのろたかーっ」
「くさいくさい! さめしまくさい!」
小さな小さな身体をさらに縮こまらせて、丸太にしがみついていたのは、一人の少年だった。恐怖心からだろう、震えの止まらない身体はガリガリに細く、ストレートの髪を切りそろえた頭と相まって、まるでマッチ棒のようだった。いや、背負ったランドセルが大きすぎて、亀のようであった。身長は幼稚園の子供と見紛う程小さいが、その実小学校三年生である。年齢にそぐわない身長、青白い肌、あちこち血管が浮いた様子が、よれよれの半袖Tシャツを着ているせいで隠せていない。その小さな両足には靴がなく、その上、片方には靴下もなかった。
「……っく」
泣いたらダメだとわかっていた。
しかし、無意識に鼻の奥がつんと痛くなる。こぼしたくないのに、涙があふれてくる。
靴と、靴下を、一つずつ持った三人の少年が遠ざかるのを、橋の上から何もできずにただ見送る。
「取りにこれないんならぁ、こんなきたないのすてちゃおーぜっ」
「そうだな、くさいし」
「そーれ」
言いざま、三人三様の方向に投げ捨てる。右側の靴は森の奥、左側の靴は森に流れる小川の中、靴下は入口付近の茂みの奥へと消える。
「あっ」
どうすることもできなかった。
「たっくん、かえろーぜ?」
「カンタムがはじまっちゃうよ」
「いそげ!」
有名なロボットアニメの名前が出たところで、少年たちは、森の小道へ乱雑に投げ捨てられてあった黒いランドセル三つを急いで拾い上げると一目散に駆けていった。今、自分たちが何をしていたかすら、すっかり忘れて。
森に静けさが戻った。
さわさわと、葉っぱが風に揺れている音だけが、いつまでもいつまでも続いていた。
取り残された。
大騒ぎしながら駆けていく声が遠退いても、彼はそこから動けなかった。震えは少し和らいだものの、足にも腕にも力が入らなかった。
丸太は太陽の光を浴び、ほんのり暖かかった。半袖を着るにはいささか早い五月の後半。ぐったりと手足を投げ出すと、少しだけ筋肉が弛緩し、ふわあと緊張が溶けてゆく。
これなら、戻れるかもしれない。ゆっくり、後ずされば。
右手が動くのを、ぐっぱぐっぱと手を開いたり閉じたりして確認していると、不意に、体重が後ろに引っ張られた。
「……わ!」
引っ張られたのではなかった。
丸太の上でうつ伏せ状態で、右手だけに意識を集中しすぎたせいでバランスを崩したのである。視界に空が広がったかと思うと、肺がつぶされたかのような痛み。
息が、できなかった。
幸い、背負っていたランドセルがクッション代わりとなり、出血や骨折したような気配はなかった。それでも、かなりの高さから落ちたことによる衝撃は免れなかった。
「けほっ、けほっ」
空気が入ってくる感覚に、吐き気が伴った。だが、中からは何も出てこなかった。せき込みすぎて、涙が溢れた。
どうして。どうしてこんな目にあわなければならないのだろうか。
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