地下組織と白い粉
私が頼まれたものを買って先生の元へ行くと、氏はそれはもう国試試験の合格発表でも待つような落ち着きのなさで、自分の事務所の中を行ったり来たりしていました。
「先生、例のものを買ってきましたよ」
「おお待っていたよ、君。……誰にもつけられていないだろうね?」
「大丈夫ですよ。私は大物政治家である先生の第一秘書。私を疑うものなど誰もおりません」
私の言葉を聞いても安心できないと見えて、先生は部屋の窓から外を覗っている。
「で、例のものはどこに?早く見せてくれたまえ」
「わかりました」
私はビニール袋に、卵や牛乳といった普通の買い物の荷物に紛れさせて入れていた例のものを取り出した。例のものは黄色い花の模様が描かれた紙袋に入っている。
「これが粉かね?早く使いたいのだが」
「お待ちください先生。このままでは用をなしません。他のものと混ぜて焼かねばいけないのです」
「その他のものとは一体何だね?」
先生は待ちきれないといった様子で、早口になりながら私に尋ねた。
「一緒に手に入れてありますよ。これは単体では違法ではないのですが、この粉と混ぜて使うと法的な問題がありまして」
「法律などクソくらえだ!あれを口にしたときの一瞬の快楽に比べればな。早く準備したまえ。混ぜて焼く必要があるのならそうしようじゃないか」
「まあまあ先生。単に焼くだけでもいけないのですよ。別にそれでも構わないのですけど、先生が満足するほどの多幸感をもたらすようにするには専用の機械を使う必要があるのですよ」
「ああじれったい。その機械はどこにあるというのだね」
先生は今にも地団太を踏みそうだ。やむを得ないのかもしれない。先生が最後に口にしたのは、これが違法となる直前である二十五年前のことらしい。年若い私の記憶には残っているか怪しいほど遠い昔の話だ。これの使い方を調べるのにも苦労させられた。
「地下にこれの愛用者が作った施設があります。これを焼く機械もそこにありますよ。噂では、この粉をもっと有効に利用するためのものもあるとか」
「よし。ならば行こう。場所はわかっているのだろうな?」
「もちろんでございます。向こうにも先生が伺うことを伝えてあります。到着すればすぐにでも」
「車を出せ。行くぞ」
先生はその肥満体に似合わぬ速度で事務所を出て車に乗る。私も慌てて後を追い、運転席に収まった。公費で購入されたトヨタの完全電気自動車が音を立てずに滑り出した。
「しかし、嫌な世の中になったものだ。たいして害のないものを不安と狂乱のさなかに禁じ、人々の楽しみを奪うとは」
「まったくでございます」
その下地を作ったのは、人生の半分以上を政治家として過ごした先生だろうと心の中で毒づいた。物心ついたときから「嫌な世の中」だった私にとっては、あれもこれも好き勝手に使えた昔の世の中は異世界のようなものである。この白い粉、今や暴力団の1番の資金源になり、摘発の騒ぎで毎年人が死ぬ粉が普通に店頭で売っていたころがあるなど、信じられない。
「地下組織には他のものもあると言っていたな」
「ええ、そうですね」
「では、あの薬もあるのかね。あの茶色い……」
「ええ、あるという話は聞いております。この粉と一緒に摂取すると効果が倍増するそうなのですが」
「そうだな。合法の頃は粉を使った商品の中でも一番の人気があった……懐かしい話だ」
そんな時期があるのか。あの薬も合法であった時期があるのはわかってはいたが、実際に聞くと驚天動地とも言うべき衝撃があった。私は保健体育の教科書で、重度の依存性と血圧への悪影響のある麻薬として見たことがあるだけだ。常用のために歯がボロボロになった中毒者の写真も見たことがある。煙草に並んで、駆逐が難しかったとも聞く。
「なんというか、すごい時代があったんですね」
「君からは想像も出来んだろうな」
幸いなことに、先生のつまらない昔話が始まる前に目的地に着いた。事務所から一番近い懐石料理屋だ。
「ここかね?こんなところに?」
「ええ、ここです。焼くのに使う機械は違法ではないのですが、あまりに違法薬物の加工に利用されるので免許制になっているのです。この店の料理人はその免許を持っていて、こっそり薬物の加工を手伝って副収入を得ているのです」
「わかったぞ。加工に必要なのは電子加熱機だろう」
電子加熱機。電力で箱の中に高熱を生じさせ、中に入れたものを焼き上げる機械だ。これを必要とするものが軒並み違法化された今ではほとんど無用の長物である。
私たちのように法を犯すものは別だが。
店に入ると、営業用の笑顔を張り付けた女将が「何名様ですか?」と尋ねてきた。
「後で友達が二人だけ来るんです。愛と勇気が」
予め教えられていた合言葉を口にすると、女将の笑顔がさっと消えた。そして無表情のまま「こちらへ」と手招きする。女将についていくと、地階へ下りる階段へ案内された。
地下は暗く狭く、そして熱かった。すぐに熱の原因は分かった。壁際に設置された電子加熱機が稼働しているのだ。中からは私が嗅いだことのない香ばしいにおいが漂ってきている。
「これだ!これだよ!私が長年求めていたもの……」
地階へ入ると、先生はいきなり叫んで涙を流した。私が驚きと呆れの混じった眼で先生を見つめていると、奥から年老いた男がにゅっと現れた。白髪でもじゃもじゃしたひげを生やしている、柔和そうな顔をした男だ。
「お待ちしていましたよ先生。その様子だと随分恋い焦がれていると見えますな」
「ええ!今すぐにでも口にしたいくらいです」
「そうですか。ではそろそろ焼きあがるのでどうですか?」
「いいんですか?」
こっそりと持ってきた粉を差し出しながら私が尋ねた。自分たちの持ってきたものを使わなくていいのだろうかと思っていると、疑問を察したのか老人が答えた。
「初めからやると時間がかかりますから。必要な分の粉さえ貰えれば……おお、もう焼けましたな」
加熱機が電子音を立てて止まった。老人がふたを開けると、中から茶色の丸っこい物体が現れた。
「これが?」
「これがパンですよ。熱いから気をつけてください」
先生が老人の手からパンを受け取る。この白い粉がどのような過程を経て茶色の物体になるのか、まったく想像が出来なかった。一つ確かなのは、パンから漂ってくる匂いだけで強烈に胃袋を刺激されるということだ。「使用した人だけでなく、周りにいる人も中毒に陥る恐ろしいものです」という教科書の一文が思い起こされた。
「秘書さんもおひとつどうですかな?」
「ではせっかくなので……」
私は本能的な誘惑に負け、老人からパンを受け取った。老人の言った通り、パンは熱く中からぐらぐらと熱が伝わってくるようだった。大きさは饅頭に似ているが表面は固く、そのくせ繊細で少しでも力を入れると潰れて元には戻らなかった。私は思い切って一口食べてみた。穀物特有の薄っすらとした甘みが舌に踊ったかと思うと、より強烈な甘さが一気に口の中を支配した。
「これは!この中に入っているのは例の薬?」
「そうです。チョコレートです」
齧ったところからは茶色のどろどろしたものが流れ出していた。こんな見た目のもの、食べ物と知らなければ口に入れないだろう。しかし私は、たった一口食べただけなのにこのものを一生食べて暮らしたいと思うまでに取りつかれてしまっていた!政府が規制するのも無理がないように思えた。
ちらりと先生の方を見ると、もう二つ目に手を伸ばしている。必要もないのに私は張り合って、手に持っている一つ目を食べ終えると二つ目に手を伸ばした。
「動くな!警察だ!」
私が二つ目のパンを手にした瞬間だった。地下への扉が開け放たれ、強い明かりが差し込んだ。目が慣れてくると、拳銃を構えた警察官が五人も六人も地下室へ降りてきていることがわかった。
「この付近で愛国的でない食品を加工する匂いがしたと通報があった!壁に手をつけ!捜査する!動くな!」
私たちはお互いに顔を見合わせて、至福の時が消滅したことを悟った。そして言われた通り壁に手をついて、警官のなすがままになるしかなかった。
ところで、通報した誰かはどうしてこの匂いが「愛国的でない食品を加工する」ものだとわかったのだろうか。
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