第13話 やがて見る空
1937年(昭和12年) 夏。北平(北京)西南の豊台地区には日本の陸軍第三大隊および歩兵大隊が展開し、国民革命軍第二十九軍と相対していた。7月7日夜は盧溝橋付近において両軍周知のもと夜間演習を行われる予定である。
ところが午後10時40分頃、中国兵が日本軍に向け実弾を発射したとの報が入った。事態を重く見た北平の部隊は事態の収集を図るべく交渉を申し入れたが、交渉中の翌8日朝四時過ぎ、集結中の日本軍に中国軍より迫撃砲と小銃による掃射が浴びせられ、両軍は衝突した。盧溝橋事件である。
日中の戦闘の端緒が切られた事は日本ですぐさま報道された。夫の柘植譲二が2・26事件の報復人事として一兵卒に降格され、所属の歩兵第三連隊ごと満州のチチハルへ派遣されている妻のさやは、幼子を抱えただ胸を痛めていた。
8月、四ツ谷舟町の碧生家では妻のリカが産気づいていた。夫蒼太郎の反対を押し切って、産み月ぎりぎりまで依頼された原稿を書いていたリカは、ようやく書き上げた原稿を送ろうと近所の郵便局に出かけたところで、下半身に違和感を感じた。
洋装では既にせりだしたお腹に合わせられなくなっていたから、彼女は白い長じゅばんに薄い絽の着物、半幅帯を胸高に緩く締めていた。吹きだす汗を拭き郵便局を出てすぐ、水風船を破裂させたような衝撃を体内に感じ、水が太ももの付け根のあわいからほとばしり出た。思わずしゃがみ込み考えたが、混乱して状況が自分でもつかめない。
尿ではない。これはもしかしたら。
「破水じゃ、奥さん」
局舎から出てきた郵便配達の職員が慌ててリカの体を支え、手空きの女子職員と、通りがかりの近所のご婦人が慌てて家に連れて行った。
碧生や、背中に息子・光をおぶった柘植さや、連絡を受けて来たリカの母が、駆けつけた産婆の指示の元布団を敷き、汚れてもいいボロ布を大量にひき、水を汲んで湯を沸かした。
ベテランの年老いた産婆は陣痛に苦しむリカを見ながら落ち着いて言った。
「そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。初めての子は時間がかかりますから。破水したのでそりゃ普通の初産よりは早いでしょうけど」
そんな産婆の予想を裏切る勢いでリカのお産はみるみる進んだ。額にびっしりと汗をかき陣痛に苦しむ妻を前に、夫の碧生蒼太郎はうろうろするばかり。せめて額の汗だけでも拭いてやりたいと半たちを持って妻の元へ近寄ったが、
「お産は女の大仕事です。無事生まれましたよどうぞと呼ばれるまで、殿方は待っていてください」
と背中を押されて産室代わりの六畳間から追い出された。産婆や母と共にリカに付き添うさやから託された幼子・光を抱っこしたまま、ここで待っていなさいと指示されたリカの生家に引っ込んだ。そこにはリカの母が作り置いた食べ物もあったし、広めの室内で光を遊ばせる事もできた。蒼太郎は妻の心配をしながら、お昼寝に寝かしつけた光と一緒に寝てしまった。
破水から約半日。夕方5時、碧生リカは大きな声で泣く元気な女の子を生んだ。産湯を使い、涙で顔がくちゃくちゃの新米母の隣に寝かせられた娘は、驚くほど夫の蒼太郎に似ていた。駆け付けた夫は、顔に畳の跡をつけながらへなへなとくずおれて泣いていた。『泣き虫な両親だなあ』口がきけたら赤ん坊はそうつぶやいたに違いない。
出産の一報を聞いて駆け付けた絵師片桐・湯浅神父、泣き虫の新米父親は、生まれたばかりの赤ん坊を『亜希子』と名付けた。文字通り東亜に平和という希望を繋ぎたい人々の願いだった。疲れ切った新米の母親リカも微笑みながら了解した。
1939年(昭和14年)9月1日未明、ドイツとその同盟国スロバキア共和国軍は、南北に分かれながらポーランド国境を突破し東へ進んだ。同年のチェコスロバキア割譲で、ボヘミアの豊かな鉱物資源と、戦車の生産施設を手に入れたドイツは、高速の戦車を主体とした機動部隊を編成していた。
驚異的なスピードで兵を進め、ポーランド陸軍はソビエト国境近くまで追い詰められ留まった。電撃戦と称されるドイツの戦車の進軍スピードに対し、ポーランド軍は未だ、馬に乗った騎兵が突っ込んでくる状態であった。
同盟国であるイギリスとフランスがドイツ軍の背後から援護してくれるのを抗戦しつつ、ポーランド軍はじっと耐えて待つ体制に入ったのである。間もなく世界の全面戦争と発展していくこの戦いを、ポーランド・ドイツ戦争と呼ぶ。
9月3日、ポーランドの同盟国であるイギリスとフランスは相互援助条約に基づきドイツに宣戦布告をした。ここに第二次世界大戦が始まった。
ヨーロッパと、日本が中国軍と戦う大陸での血の匂いが、風に乗って日本上空まで到達するのに時間はかからなかった。
1940年(昭和15年) 大粛清の嵐が吹き荒れ、百万人単位での逮捕・銃殺、流刑が行われて国の維持に重大な支障をきたすようになっていたソビエトに、人事面での異変が起こった。ゲンリフ・ヤゴーダを「粛正が生ぬるい」と拷問・処刑しソビエト国家の治安組織の全権力を奪ったニコライ・エジョフ、今度は自分が公的な場から引きずり降ろされたのだ。それは定期的に組織の上位にあるものを粛正して取り替えてゆくスターリンにとっては常套手段で、何も珍しくはないのだが、当事者にとっては常に迫る死の恐怖に怯える事になる。
エジョフシチナと呼ばれたソビエト内部人民委員部と国家政治保安部を総動員した粛正の嵐はソビエト連邦そのものを機能不全一歩前まで追い込んでいた。勿論それはスターリンの意図を十二分に受けたエジョフの忖度だったのだが、スターリンは彼に全責任を押し付けた。
赤軍の内部粛正は特にひどく、大佐クラス以上の軍人の処刑率は65%に及んだ。軍司令官に至っては15人中13人が銃殺、兵士を監視する為派遣される思想将校である政治委員にしてからが2万人、共産党に籍を置く赤軍兵士に至っては元々30万人いた者が1938年までに半数の15万人が処刑された。この指揮官不在の状態で、1941年には独ソ戦を始める。
エジョフは極東ハルピンから引き揚げてきたソビエトの人間も「日本のスパイ」と決めつけ何万人も処刑してきた。モスクワに渡った槇村と佐田が姿を消したのはまさにこの頃であった。 まもなくスターリンは、常に傍に置いて行動を共にしていたエジョフを徐々に遠ざけるようになっていった。エジョフの栄光は実質1年半しか持たなかった。
1938年8月、ラウレンチー・ベリヤが突然政治将校として内務人民委員代理についた。彼は疑心暗鬼で仕事どころではない状態のエジョフからNKVD長官としての仕事を奪い始め、11月にはスターリン自らエジョフを批判し始めた。彼にとってそれは処刑命令の様なものだった。この手順を踏まえて、何人もの高官が濡れ衣を着せられ残忍な拷問の末処刑されたのを彼は知っている。なぜなら自分が笑いながら命令を下したからだ。それが今自分の身に迫っている。恐怖でアルコール中毒になるまで酒に溺れたエジョフは夫人を疑い、自らの手で粛清した。彼はスターリンに直接会って弁明をしたかったがスターリンにとって彼はもう用済みだった。
11月25日、ラウレンチー・ベリヤが正式に内務人民委員(NKVD)長官に就任し、翌1939年3月初め、ニコライ・エジョフはソビエト人民委員会の全役職を解任された。それが何を意味するかはエジョフ自身が一番よく知っていた。彼は拷問と死に対する恐怖で殆ど廃人のようになった。あとはスターリンが気まぐれに逮捕状にサインを出すだけであった。
1939年(昭和14年)4月10日、ついにニコライ・エジョフに逮捕状が出た。自分が君臨した組織によって逮捕され、自分が数え切れないほどの被害者を送り込んだ刑務所に、彼は送り込まれた。護送される際も酒浸りの上恐怖で足がすくみ、だらしなくかつての部下に引きずられていったという。
「血まみれのこびと」と呼ばれたエジョフは拷問の苦痛に泣き叫んだ。そして簡単に「自分はスパイである」と(嘘の)自白をした。かつてあれほど自分で拷問の手を下すのを好み、考えうる限り最も残忍な方法でスターリンの政敵を始め、無実の人々、一般市民や労働者まで殺してくださいと叫ばせるほど容赦のない拷問を加えてきた男は、いとも簡単に吐いたのである。
1940年2月3日、ベリヤが監獄から執務室に呼びつけ罪状を読み上げると、見るも無残に変わり果てた姿のエジョフは泣き崩れ、なおも否定した。
「レオ君、入りたまえ」
ベリヤが馬鹿に仕切った表情でエジョフに目を走らせ、証言者の入室を促した。ドアが開き、カツカツと長靴の音を響かせて入ってきたのは、NKVDの制服に身を包んだ美しい混血の青年、レオ・フジミであった。端正な顔の大きな目に嫌悪の表情を浮かべ、床に這いつくばる拘束されたエジョフを一瞥し、レオはベリヤの前に立った。エジョフの眼に涙が浮かび、だらしない嗚咽が漏れ聞こえた。
「君はアジアからの優秀な留学生で、我々の組織に一員に迎え入れられたわけだが、ここにいる男に妙な真似をされたかね?」
「長官、それはお答えしなくてはなりませんか」
「ああ。調べはついている。だが君の口からはっきりとした証言がほしい」
「……自分は極東日本及び沿海州で、この男に命じられた通り我が国のスパイの監視及びアジアからの移民の中から危険思想の持ち主の選別および逮捕に従事しておりましたが、この男は……」
「どうした。言いたまえ」
ベリヤは同性愛の趣味こそなかったが、猟色で有名、エジョフに劣らぬ変態性愛者であることは知れ渡っていた。生粋のサディストとして、今レオ青年の明るい色の瞳に浮かぶ苦悩を楽しんでいる事は確かだ。
「自分は、極東アジアから来た者は日本のスパイだ、だが自分のいう事を聞けば家族と自身の命は助けてやると言われ、何度となく変態的性行為に及ばれたものであります」
「それは何度か」
「10回程度だったと記憶しております、長官」
「分かった。ご苦労だった。下がってよろしい」
記録に残るエジョフの容疑には『同性愛的、異性愛的に変態行為を強要し、好んだ』という点があるが、今日の調査においても幾多の証言や証拠からそれは事実だったと認められている。
同性愛の相手を強いられたと証言したレオ・フジミNKVD隊員が下がると、ベリヤは悪名高い裁判官ヴァシリー・ウルリヒを呼んだ。あらかじめこの執務室内に控えていたウルリヒは、エジョフの顔見知りの同業者でもあった。映像などで残るナチス・ドイツ悪名高い裁判官・フライスラーと同様の高圧的で残忍なでっち上げ裁判官である。だが今は立場が別だった。
鼻水と涙でぐしゃぐしゃのエジョフに、ウルリヒは死刑判決を下した。獣の様に泣き喚き吠えるエジョフは引きずり出され、翌2月4日銃殺された。即座に火葬された遺灰はモスクワ市内の墓地にうち捨てられた。
同じ2月4日、モスクワ市内のエジョフの自宅に踏み込んだのはレオ・フジミNKVD隊員とその部下ら数人だった。逮捕時やその後に既に捜索を受け荒らされ切った室内だが、彼らはレオの指示の元、天井から壁紙の影、床の建材まで引っぺがして調べ始めた。エジョフの写真や2人の妻、養女の写真の額が隊員達によって割られ、踏みつけられ転がっていた。やがて隊員の一人が壁の洗面台のパイプの中からある物を発見したと知らせた。
「すぐ行く」
エジョフのマンションの粉々に打ち砕かれた洗面台、その下のパイプを切断し、初めて発見された物。茶色の封筒とビニールにくるまれ、ぎりぎりと固くねじった紙類。それはエジョフが毒牙にかけた犠牲者の屈辱的な写真だった。レオは自分の写真が組織によって発見されるのを恐れたのである。
巧みに封筒の中から自分の裸にされた写真を抜き、打ち砕かれた浴槽の中で火をつけて燃やした。ソビエト軍のライターで火をつけ、簡単に燃え上がっていく写真を、彼は空虚な思いで見つめていた。
「さあ証拠は発見した。行くぞ」
他にも撮影されていた犠牲者、美しい若者達の写真を手にレオは立ち上がり、床一面にばらまかれた写真を踏みつけて部下と去って行った。これらのレオにとってはどうでもいい、100万人単位の拷問写真は後程ベリヤの別の部下が集めに来るだろう。
それら犠牲者の写真の中に、アジア人の顔があった。よく見ればレオにはわかるはずの人間達だ。痣と傷で風船のように脹れ上がり、鼻骨は折れ、目も内出血で塞がり、変わり果てた劇作家・槇村良吉と女優・佐田芳子であった。彼らは印画紙の中からじっと虚空を睨みつけていた。
日本国内でも、ソビエトに渡った槇村と佐田が粛正にあって処刑されたという噂が、コミンテルン派を中心に流れて来た。共産党は必死にソビエトを擁護し噂を打ち消そうとしたが、ソビエト連邦内に渡ったまま行方知れず、連絡が取れない同士が何人もいるという事実は隠しようが無くなってきた。そしてその噂は特高警察の知るところとなり、2人のソビエト渡航の手引きをしたと目される片桐は捜査対象に上った。特高警察は何人もの要注意人物をソビエトに渡らせた『ドイツルート』について調査を始めた。
1941年(昭和16年)10月18日、第3次まで続いた近衛内閣は軍と外交のパワーバランスを御しきれず突然瓦解し、第四十代内閣総理大臣として任命されたのは、陸軍主戦派の東條英機であった。以降東條は首相、陸軍大臣、内務大臣の三つの要職を兼ね、絶大な権力を振るう事になる。
同日、ソビエト軍GRU(労農赤軍参謀本部第4局)のスパイ、リヒャルト・ゾルゲは東麻布の自宅で逮捕された。彼の仲間で元朝日新聞社記者の尾崎秀実はこれに先立つ10月15日、彼がブレーンを務める近衛内閣が瓦解する直前、目黒区の自宅から逮捕されていた。
既に10月10日に逮捕されていたアメリカ共産党員の宮城与徳の国内における行動から、彼の出入りしていた四谷の小道具商も捜査対象に上がった。ゾルゲや尾崎に直接的、思想的に連なると目された者は次々と拘束され、厳しい尋問を受けた。古物商店主のドイツ人、マダム・ブコウスキーは姿を消し、店は徹底的な捜索を受けた。楽譜や楽器、レコードは壊して中まで調べられ、店の中は破壊され尽くした。
客の中に学校をさぼって頻繁に出入りしていた不良中学生の混血少年がいる。取り調べを受けた店の顧客達は次々に証言した。よく目立つ美しい少年は確かロシアの血が混じっていて外国の文学や音楽に興味を持っていたと。
彼、富士見レオ少年の身元は簡単に割れ、日本のカトリック中学校を休校しヨーロッパに留学した事、美術商の両親は商品の買い付けの為長期間外国に逗留中な事も判明した。
両親はポルトガル領マカオで拘束され、日本の官憲の取り調べを受けた。ポルトガルは第二次世界大戦中、中立の立場をとり続けた国であった。彼らは泣きながら訴えた。息子はまだ世間知らずのほんの子供な事、ゾルゲというドイツ人とは家は近所だが出入りはさせていなかった。だが、正体不明のとある日本人の手引きで、レオ少年がゾルゲの屋敷に出入りしていた事実が明らかになり、マカオに留められた両親へも厳しい取り調べが為された。だがその厳しさは国内の特高刑事の暴力に比べればごく軽いものであった。
富士見レオの両親はいずれもドイツ・ロシアの血を引いており、日独伊三国軍事同盟、日ソ中立条約を結んでいる手前、事を荒立てたくはなかった。
「あの子は子供です。好奇心を利用されたのです」
父親はそう特高刑事に訴えた。
「一生懸命勉強して、見聞を広めて商売の後を継ぐよと言っていたんです。誘拐されたようなものです。あの子の国際旅券でも狙ったのだと思います」
「レオを助けて下さい。スパイに利用されて殺されているかもしれない」
両親にとって富士見レオ少年は伸び盛りの長身と長い手足を窮屈そうに中学の制服に包んだ、音楽と勉強が得意なまだ可愛い子供だ。我が子に降りかかった想像を超えた事態に、両親は半狂乱になった。
「そうだ。一人心当たりがあります。うちの子に近づこうとする男がいたと」
父親は旅券や大事な書類の中から一通の手紙を取り出した。それは我が子レオと一緒にヨーロッパで姿を消したという、息子の忠実な子守『みかねえ』からの手紙だった。
富士見レオに近づいた男の情報はすぐ日本の特高に連絡され、国内の捜査が始まった。両親は入国禁止処分とされ、戦後まで日本の地を踏む事はできなかった。彼らの経営する国内の店舗や屋敷は没収され、彼らは海外資産を頼りに、留められていたマカオから船でアメリカに渡った。以降、レオの両親は死ぬまでアメリカ連邦局の監視が付けられる事になる。
夜明け、片桐の四ツ谷のアトリエを特高警察が急襲した。寝ているところを踏みこまれた片桐は抵抗したが叩き伏せられ、母屋から引きずり出された。あとは大勢の刑事や巡査による荒っぽい家探しである。
書きかけのノートや便箋の図案、少女誌の挿絵、外国の人形やおもちゃ、絵本、全て引きだされ、入念に調べられ、床に放り出された。そのたびに片桐は悲痛な声を上げた。自分の創造の材料が音を立てて投げ出され、荒々しく踏みつけられる。捜査陣によってアトリエと言う天国の空間が荒らされてゆく。それは彼にとって耐えがたいものだった。
その頃になると何かが起こったと、寝起きの眠い目をこすりながら近所の人々が集まってきた。
「課長、こんな物が出てきました」
刑事がキャンバスに書いた油絵を持ってきた。額装こそされていないが確かなデッサンと入念な筆致、暗く燃えるような色使いで描いたそれは、片桐が今まで本気で描いた少年少女の絵だった。幼いリカ、和装の娘さや、白い肌を窓辺の光に晒した富士見レオ。他にも多くの少年少女が、片桐の好みの素肌に薄物をまとった妖精のような姿で描かれている。
「なんだこれは。子供の裸の絵か。胸糞悪い」
刑事達は次々に絵を目にすると、心底気持悪そうな、蔑んだ目で片桐を見た。
「お前は小児偏愛の変態か。なぜ子供の裸ばかり描いているのか。スパイもコミュニストも抜きにして立派な色情狂野郎だ! 」
刑事は何枚もある画を床に叩きつけた。それを見て片桐は狼のような吠え声を上げた。刑事の指示の元巡査達がナイフを抜き、キャンパス地を大きく切り裂いた。中に不審な手紙やメモが隠されていないか見るためだ。
「やめろ! お願いだ! やめてくれ! 」
片桐は首を絞められたような声をあげたが、取り押さえる刑事達にうるさいと殴られるだけだった。
手紙もメモも隠されていないと分かると、刑事達はズタズタに裂いたキャンバスを忌々し気に蹴飛ばした。ああっと、拾おうと飛び出した片桐はたちまち抑えられ、袋叩きにあった。
「舐めてるのか貴様! 」
刑事は一喝し、連れて行けと命令した。刑事達は子供達の絵をわざと踏みつけ、叫び続ける片桐を引きずり車に放り込んだ。特高の車列が去った後には荒され尽くしたアトリエが、切り裂かれた絵を床一面に巻き散らかしたまま残された。ご近所の人達の
「やっぱり怪しかったのよね」
の声が囁き交わされていた。
片桐のアトリエの異変に気が付いたのは、家の一番近い間宮未亡人、リカの母親だった。近所から聞こえる喧騒と物の壊れる荒々しい音。火事か事故かと玄関から顔を出すと、他の家からも住民が顔を出し、何事かと顔を見合わせた。やがて音のした方から『特高の手入れだ! 』と声が上がり、住民達は恐怖から家の中に引っ込んだ。
間宮夫人が覗きに行くと、ちょうど切り裂かれた絵を踏みながら巡査が片桐を連行していくところだった。
床にまき散らかされた絵には見覚えがある。母親にはわかる。娘のリカを描いた絵だ。暗いゴシック的な色調ではあるがリカの幼い姿、多感な少女期、女学校を卒業した頃。女子大学を卒業し、作家として活動し始めた頃。そして碧生と交際を始めた頃の幸せそうな姿。いずれも妖精のような薄いドレスをまとって美しく輝いている。幼い、父親の間宮記者が存命で片桐の友人だった頃から、リカは彼のお気に入りのモデルだった。
片桐は未亡人の目の前をこずかれながら引きずられていった。目が合う事はなかった。夫人も声などかけなかった。プライドの高い片桐はそんな事を望まないとわかっていたからだ。
リカが片桐検挙を知ったのは昼近く、原稿の受け渡しに蒼太郎が出かけた合間だった。4歳になった娘・亜希子の手を引いたリカと碧生蒼太郎、そして5歳の息子・光を連れたさやが片桐のアトリエに着いた時は、室内は既に荒らされ、巡査が厳重に見張っていた。
「何だお前達は」
「いえ、子供達がよくここの家の人にお菓子をもらったというので」
「そうか。だがこれ以上お前達には関係ない。帰れ」
リカとさや、蒼太郎は茫然と帰途についた。
やがて捜査の手は湯浅神父にも及んだ。彼は友好国イタリア、そしてスペインに本部のあるカトリック修道会の神父だったが、特高から目をつけられている米英系のプロテスタント教会の牧師としばしば親しく交わっていたのが、疑われる要因となった。
目白の教会でのミサ直後に神父は連行された。彼の逮捕はバチカンの知るところとなり、教皇庁から直に抗議が寄せられたため、湯浅は厳しい尋問を受けはしたが数日で解放された。だが目白の由緒ある教会は家宅捜索を受け、幾つものラテン語の文書が押収された。官憲はその内容の解読に大層苦労する羽目になる。
心身共に傷ついて釈放された神父は、修道院預かりの身分になり、都心から離れた修道院の奥で半ば軟禁のようにひたすら祈りと清貧の生活を送る事になる。
一方片桐に対する四ツ谷警察の拷問は苛烈を極めた。ヨーロッパ留学経験があり、海外の共産党員と頻繁に接触し、国内ではゾルゲと逢っていたという目撃情報もある。おまけに小児愛の性癖がありモデルを裸に近い格好にして絵を描く。常に美しい子供が家に出入りしていたという近所の声もある。これら全て取調官の心証を悪くするのに十分だった。
ゾルゲに何を話していたか、行方不明になった混血の良家の子息とはどういう関係か。お前が接触した共産党員を言え。初めからまともな尋問などするつもりもなかった。片桐はいきなり四方をコンクリで囲まれた窓のない地下室に連行され、下着一丁にされ椅子に縛り付けられ木刀で打擲された。叩く所は太ももと脛。そして腹部。全身に渡った。口からは血の混じった胃液や膵液が溢れ、何時間も便所に行かせられず大量の水を飲まされては刑吏が歌いながら拍子をとって木刀で下腹部をで突くので、真っ赤な小便が漏れ出た。
「なんだ貴様、汚ねえなあ」
刑吏が床の小便の中に片桐の顔を付け、ごりごりと皮膚が剥けるまで擦り付け、また髪を掴んでは引き起こし、がんがんと叩きつける。それでも片桐は黙っていた。ここまで来たらもう彼を『社会』に繋ぎ止めておくものはない。特高刑事は舌打ちし、片桐を椅子に座らせた。
「お前はペンは剣よりも強しという言葉を知っているだろうな。なにせ外国帰りのインテリ様だからな」
片桐は殴られ膨れ上がりほとんど塞がった瞼を開いて虚ろな目を上げ、自分の正面に座る刑事を見た。早く殺してくれないか。そうぼんやりと思いながら先刻よりもっとひどい苦痛の嵐が襲い来る前の一瞬の静けさを体感していた。
「でもペンっていうのは握って書いて、初めて強さを発揮するもんなんだ。残念な事7にな」
刑事は片桐を押さえつけている部下に眼で合図を送った。縛られ縄のすり傷だらけの片桐の掌を、2人の部下は左右から取り調べ台の上に置き、力づくで広げた。
刑事は無言で銃を抜き、笑みを浮かべて片桐の額に当てた。当時の警察は銃の絶対数が足りず、武装ゲリラや暴力団体から押収した銃や弾をそのまま使う事もあった。おまけに樹脂製などではなく金属製だ。当然小さな拳銃でもずしりと重い。これで楽になれると片桐が目をつぶった瞬間、刑事はくるりと銃を回し、その固い台座で力任せに片桐の掌を砕いた。骨の破砕する音と片桐の擦れた叫び声が響いた。
「うるさいよ、ジェントルマン殿」
刑事はうそぶくと、もう一方の掌にも渾身の力を込めて銃を叩きつけ、骨をへし折った。
「こうすればペンを握るのもなかなかに不自由だろう。違うか? おや、まだ書けるのか。そうか」
刑事は再び部下に指示を出し、骨が砕かれぐにゃりとした片桐の手の、指を一本一本真っ直ぐに伸ばした。そしてその指を順番に銃の台座で潰していった。
四ツ谷警察から放りだされた片桐は、両掌と全ての指がへし折られ、脛も叩き割られていたので歩く事もできなかった。しばらく往来に転がっていたが、門前の警備の巡査に目障りだと蹴飛ばされ、棒で車道に突き転がされた。
危うく轢きそうになった大八車の車夫が忌々し気に片桐を荷台に放り投げ、呟いた。
「乞食か頭がおかしいかだな。転狂院にでも放り込んでおけばいいんだよ。往来じゃ邪魔でしょうがねえ」
手ぬぐいと頬かむりで顔を隠した車夫は大八車を弾いて軽快に進み、あっという間に坂を下って四ツ谷愛住町に着いた。きょろきょろと周囲をうかがい、わざと入り組んだ小道を曲がって進み、人気のない道で止まった。車夫は大八車を捨て片桐を抱え上げ、道に迷う事なく一直線に柘植さやの家に向かった。
どすん。音を立てて粗末な借家の塀の中に片桐を放り投げると、一目散にいずこかへ走って行った。彼の仲間の一人であろう。
「片桐さん!」
物音を聞き、家の中からさやが走り出ると、這いつくばる事もできない血みどろの男が転がっていた。腫れ上がり変形した顔からは、彼が誰なのか、もはや分からない。喉を何度も竹刀で突かれて潰されたので、苦し気な吐息が聞こえるだけで声にもならない。
さやの息子の光はまだ幼児だったが、素早く隣家の碧生家に知らせに走った。大人達の会話と様子から事情を察していたようだ。物音で玄関先まで出ていた碧生達はすぐに飛び出してきた。顔立ちではもはや判別がつかず、衣服も日頃の瀟洒な洋装ではなく寝起きを急襲されたので肌着に浴衣である。だがそれはリカが幼い頃から目を注いでくれた片桐だった。
さやが顔を寄せ様子を診ている彼の体を、リカは急いで膝に抱き上げた。抱いてきた赤ん坊の亜希子は碧生がさっと引き受けた。さやは折られてぐにゃぐにゃになった片桐の手首から脈をとり、静かに首を横に振った。掌だけでなく全部の指の関節が砕かれた片桐の手は、生爪も全て剥がされていた。さやもリカも碧生も、こんな酷く拷問された体を見るのは初めてだ。
「片桐さんもう大丈夫です。私達がいます。戻って来たんですよ」
リカは取り乱して叫んでいた。その姿を、集まってきた遠巻きの近所の人々に交じり、後をつけてきた特高の私服警官が見ている。
「ただいまお嬢さん」
辛うじて吐息だけで聞こえる片桐の言葉は、いつもの彼だったが、もはや声にはなっておらず、耳を寄せてやっと聞き取れる微かなものだ。
「今家に運びますから。お布団敷きますから」
「不要です。もうすぐ旅に出ますので」
「片桐さん、そんなの駄目です」
彼の言う意味は死出の旅だという事は、リカには分かった。彼女が腕に抱いた片桐の浴衣はべっとりと血に塗れ、ぐずぐずにはだけた襟元からも赤黒い竹刀かこん棒での殴打の跡が、幾筋もあざになって見えた。逮捕されてそれ程日が経っていないのに、その体は骨と皮だけになっていた。どれだけ凄まじい拷問が加えられたのか、浴衣の裾からのぞく股間はふんどしも剥ぎ取られ、陰部には荒縄がねじ込まれ、その先が数センチ見えていたが、黒く焦げている。尿道にねじ込んで縄に火をつけて責めたてたのであろう。
「そんな顔をしてはいけません。貴方は私の前では常にレディーで居ないと」
リカとさやは涙でぐしゃぐしゃの顔を袖で拭き、無理に口角を上げ笑顔を作った。片桐の目はあらぬ方向をさまよっている。きっと拷問で神経が切れ、もう見えていないのだ。それでも女二人は微笑もうとした。例え見えていてもそうでなくても、最後に瞼の裏に浮かんだものが笑顔であってほしかった。
ああ、美しい。それでこそレディーです。
片桐の息がそう呟いた気がした。あばらが折れべっこりと凹んだ胸からすーっと息を吐き、片桐はこときれた。
さやの息子「光」と自分達の娘「亜希子」が並んで、窓の外を流れる景色に興奮し、しきりと歓声を上げる。自分の向かいには片桐の骨壺を収めた風呂敷包みを膝に乗せた妻のリカ、そして元々父の妾であった柘植さや。思えば奇妙な取り合わせで、一行は湘南の丘の上の駅に向かっていた。
下車した駅は自分が飛行学生として横須賀の訓練所から降り立った頃と全く変わらなかった。だが一行は碧生の実家には立ち寄らなかった。既に兄の一族が管理し栄えている実家のミカン農園。そこは彼らにとっての目的地ではない。駅から実家と反対方向。より海に近い崖の上に、3人と子供達は向かった。丘陵沿いの村の共同墓地とは反対方向、厳しい潮風に晒されて海にせり出した高い岩場に松の木が数本。そんな寂しい断崖絶壁に彼らは着いた。
「蒼太郎おじ様、怖い」
光は少々尻込みしている
「そうだな。小さい子にはちょっと危なかったかな。亜希子がふざけて落っこちたりしないようにしっかり手を繋いでいてくれ」
「はい」
リカが風呂敷を解き骨壺のふたを開け、碧生は中身をさーっと海に向かって撒いた。白い遺灰は海と陸の接する所から風に乗って散り、空に吸い込まれていった。
「さあ、おじちゃんの為にお花を撒きましょう」
さやが持ってきた重箱を開くと、中には白い菊を千切った花びらがぎっしりと詰められていた。秋のバラやコスモス、金木犀も。徳永のサナトリウムに咲いていた花を医師が全部摘んでいいと言ってくれたので、花びらを摘んで詰めてきたのだ。
「さ、両手に持って風に流して」
碧生、リカ、さや、そして光と亜希子。5人の手がそれぞれ花びらをつかんで吹き付ける風に撒いた。白に黄色や桃色の花弁は、遺灰と同じような大きな軌跡を描いて海と空に吸い込まれていった。
「片桐さんは綺麗なものが好きだったから……」
リカはようやく口を開いた。どんな時でも自分を見守ってくれた片桐はもういない。だが彼に一番ふさわしい所に還って行ったのかもしれない。
「そうだね。ここならいつもお陽様と風の中で眠っていられるよ」
崖の上から海に先に目をやると、碧生達の視線の先には海軍基地からひっきりなしに飛び立つ小型飛行機で一杯だった。中国でもない、ヨーロッパでもない、日本での戦争が近いのだ。飛行機は碧生も在籍した横須賀の飛行学校や空母から飛び立ち、訓練をしているようだった。雲の中に、上に、キラキラと光る機体は空のどこを見ても眼に入る。碧生の愛する、そして片桐が眠る空は、訓練機や戦闘機がひっきりなしに飛ぶ所になっていた。
1941年12月8日、日本時間深夜午前1時30分、司令官山下奉文中将の指揮の下、陸軍の25軍はイギリス領マレーに上陸し、半島を攻め進んだ。
同じ12月8日、日本時間午前3時19分、日本海軍第一航空艦隊と特殊潜航艇5隻がハワイ・オアフ島の真珠湾内停泊のアメリカ海軍太平洋艦隊を攻撃し、圧勝した。
ここに中国、南亜、広大な太平洋を戦場とした、アメリカ軍相手の太平洋戦争が幕を開けた。
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