第3話 精神の生存本能。
では、「精神の生存本能」についての話を始めたいと思います。
基本は、「集団の生存本能」で話した内容と一緒で、「何をすると、死ぬと思っているのか?」です。
今回は、その主語が「国家という人の集団」ではなく、「人間の精神」になるだけです。
ということで、「人間の精神は、何をすると死ぬと思っているのか?」を解き明かしたものが「精神の生存本能」=「自己領域」になります。
(※注 「自己領域」は完全に作者の造語で、他で使われているものとは全く別のものとお考えください。
心理学用語の「パーソナル・スペース」とも、関係ありません)
「私たちの精神は、何をすると死ぬと思っているか?」という問いに、いきなり答えるのは難しいと思います。
なので、「人間は何をすると死ぬのか?」つまり、「人間は、生きるのに何を必要としているのか?」という所からスタートしたいと思います。
まず最初に、人間は完全に一人だけで生きるというのは無理です。
空気や水はもちろん、魚や野菜、肉、地球、宇宙などなど、生きるのだけでも多数の要素を必要としています。
同じように精神も、生きるために多くのものを必要としています。
それは過去の記憶であったり、未来への予感、気のあう友人、肉親、恋人、故郷の風景など様々です。
その中で特に重要なもの、精神が自分の生存に欠かせないものと思っているものは何でしょう?
肉体の場合は、特に重要なものに関しては、痛みという危険信号でうったえかけてきます。
空腹や、体の傷の痛みなどが分かりやすいでしょう。
お腹が減りすぎて死ぬぞ。体が傷ついている、傷が悪化して死ぬぞ。などなど、肉体に対する危険を知らせる信号として、様々な痛みがあります。
肉体が死ぬと思っているものに関しては、この危険信号で分かります。
精神に関しても、痛みと同じ危険信号があります。
それは「心が傷つく」です。
「心が痛む」という言葉でも構いません。
精神が自身の生存にとって重要だと思うものを失えば、必ず心が傷つくのです。
だとするなら、肉体が傷ついた先に肉体の死があるように、精神が傷ついた先に精神の死があるのではないでしょうか?
「私たちの精神は、何をすると死ぬと思っているか?」という問いの答えは、「心が傷つくような大切なもの達を失ったら、精神は死ぬと思っている」になります。
そして、そのような大切なもの達を、自分自身または自分の一部と思える力が、精神の生存本能ということになります。
大切だからこそ、自分自身、自分の一部のように扱うということです。
具体的には、精神にとって重要なものの中に、失えば人間として、あるいは、個人として危機的な状況に陥るものがあります。
それは物であったり、人であったり、思い出であったりするわけですが、心が傷つくという一点において共通しています。
失うことで心が傷つき、心が死んでしまうもの、そんなものが本当にあるのなら、それらはもはや、他人や他物として無視できるような、自分にとって無関係なものではありません。自分という存在を構成する一部であり、自分自身です。
そんな精神上のたくさんの大切なもの、たくさんの自分自身が集まったものが、精神上での自分となります。
そして、そのようなたくさんの大切なもの、たくさんの自分自身が集まった領域を、本書では自己領域と呼びます。
まとめ。
物や人、物質、非物質に関係なく、自分にとって大切なもの達を、すべて自分自身と思う力が、精神の生存本能ということになります。
そして、それら大切なもの達を失えば心が傷つき、心が死ぬと、精神は本気で思っているのです。
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