第92話 ー2

 東京へ一人で行くのは初めてだった。慧は放課後すぐに学校を出ると、いつもと反対方向の電車に乗った。一時間ほどかけて、目的の駅へと向かう。

 広い駅だった。改札から出るのに、スマホの案内が必要だった。

『いまどこ?』

 ちょうどそのとき、スマホにメッセージが入った。慧は慌てて返信した。

「駅の改札を出たところです。広いホールみたいなところにいます」

『近くだ。でかいパンダのぬいぐるみがあるのわかる?』

「はい」

『その足元にいるから来て』

 言われた通り、人混みをかき分けてパンダのぬいぐるみに近付いた。

 そこには、慧たちと同じように待ち合わせをしているらしき人達が何人もいた。皆、スマホをいじったり、誰かを見つけて手を振ったりしている。

 慧はその中の一人と目が合った。背の高い美男子……のように見える高校二年生の女子だ。制服のブレザーとスカートに身を包んでいる。

 南翠高校の二年生、数学部の的場まとばあすは、笑顔で手を振った。

「久しぶり、慧!」

「お久しぶりです、あす香さん」

 慧はきょろきょろと左右を見た。

「本当にお一人なんですね」

「ああ、うん。みんな、美術館に行っちゃった」

 あす香たちは、今日は自由行動の日だ。各班がそれぞれ好きな場所へ遊びに行っている。自由とは言え班行動が前提であり、行く場所も教員たちに伝えている。

 あす香はそれを無視して班を抜け出し、こうして慧に会いに来たのだ。

「あの、良かったんですか?」

「何が?」

「班行動を抜け出して」

「もちろんバレたら怒られるけど、数時間なら平気だよ」

 あす香はたかをくくっていた。

「そんなことより。宿題はやってきた?」

「はいっ、もちろん!」

 慧は元気に答えた。

「OK。じゃ、どこか入ろう。そこで見るよ」

 二人はコンコースを歩き出した。道の左右に喫茶店が山ほどある。高校生の財布にも優しそうな場所を見つけ、中に入った。

 あす香はコーヒーを、慧は紅茶を受け取って、窓際の丸テーブルに着いた。一息つく間もなく、あす香が手を出した。

「それじゃ、見せてもらおうか」

「はいっ」

 慧は鞄からノートを出した。そこには、文章と数式が丁寧に書かれていた。

 宿題とは、あす香たち数学部が慧に課したテストである。大学入試レベルの数学の問題をいくつか選び、慧に出したのだ。当然その中には、慧がまだ習っていない単元も含まれる。

 しかし、南翠高校数学部の一年生は全員、夏休みまでに高校三年分の数学を修得する。慧は部員ではないが、今後も数学部と関わるならば、この程度はできてもらう必要があった。

 初めは身構えた慧だったが、問題を解き始めるとすぐに安堵した。学校で習っていなくとも、高校レベルの数学ならとっくに独習済みだったのだ。それが高校レベルだと知らなかっただけで。また、出題されたものはいずれも基礎問題であり、奇抜な発想や深い理解がなくとも解けるものばかりだった。

 ノートを精読したあす香は、息を吐いて言った。

「どうやら私達は、慧を見くびってたみたいだね。全問正解だよ」

「本当ですか、よかった!」

「もっと難しい問題を出すべきだったね。例えばこの第二問、オリジナルの問題だとここの誘導がないんだけど、慧ならなくても解けたかも」

「オリジナルの問題?」

「うん、これは数検一級の問題なんだ。こっちは東大の入試、こっちは数学甲子園の問題。それをちょっと改変して簡単にしたんだ。オリジナルの問題、見る?」

「見ます!」

 あす香はスマホを取り出して、アルバムから画像を選択した。

「ほらこれだよ」

「元々はこんな問題だったんですね」

「似た発想で解ける問題もあるよ」

 あす香が別の画像を出す。

「どう解くかわかる?」

「えっと……」

 慧がアイディアを口にし、あす香が真剣な顔でそのアイディアの方向性を修正していく。あす香の誘導の仕方は手慣れていた。

 慧にとって、それは新鮮な体験だった。自分よりも数学に詳しい人に、数学の手ほどきをしてもらう。慧が悩む数学の問題に、ヒントを出してもらう。授業でも、部活でも、教室でも味わえない経験だった。

 あっという間に一時間が経ち、二時間が経った。

 ちょっと喋りすぎたね、とあす香が紙コップに口を付けた。中身はすでに空だった。

「この時間、とても勉強になりました」

「それは良かった。私も楽しかったよ」

 慧のノートには、二人の字が何ページにも渡って書かれていた。あす香が書いた数式を慧が変形し、慧の描いた図にあす香が直線を足している。こんな風に、誰かと対等に数学の話をし続けたのは、ほとんど初めてのことだった。

 ノートを眺め返しているうちに、慧は物悲しい気持ちになった。

「……数学部では、毎日こういうことをやってるんですか?」

 コーヒーのお代わりを注文しようか考えていたあす香は、慧の声が沈んでいることに気付かなかった。

「うん、だいたいこんな感じだね。数オリとか数研とかの過去問をみんなで解き合うんだ。そして先に解けた人が、今みたいにちょっとずつヒントを出していくこともある」

 慧の表情は真剣だった。あす香は気をよくし、饒舌になっていく。

「解くだけじゃなくて、問題を変えることもある。値を変えてみたり、変数を増やしてみたり。問題によっては、それだけで難易度が劇的に変わったりするんだ。で、どうしてそんな風になるのかを考えることで、背後の数学的構造がわかったり、出題者の意図を読み取れたりして……」

 熱く語っていると、慧の反応が薄くなってきた。ひとりで話しすぎたかな、とあす香は話を止めた。

 すると、慧がぽつりと聞いた。

「そういう話をしていて、周りから変だとか言われること、ありませんか?」

「変?」

 一瞬、慧が話に飽きたのかと思った。しかし、そんな雰囲気ではない。

 あす香もすぐに察した。こういうことを聞きたがる心理には覚えがある。

「周りって、部活外の人ってこと?」

「ええ、はい、その……親とか」

 あす香にとっても、積極的に話したいと思える話題ではなかった。それでも、後輩が悩んでいるならば相談に乗ろうと思った。

「……あるよ。うちの部の女子は、だいたい経験してる」

 あす香も『女なのに数学が好きなんて変だ』と指をさされた経験は何度もあった。世間的に、理数系は男の学問で、女には向かないと思われているらしい。あす香達の部には女子もたくさんいるのに。

「そういうとき、どうしてますか?」

 慧が身を乗り出して聞くと、あす香はきっぱりと答えた。

「無視する」

「え……」

 その答えに、慧はいくらか失望した。。できないから聞いているのだ。「女に数学はできない」「女に数学は必要ない」と言われるたびに、心の中に無視できない怒りと悲しみが生まれる。

 女に数学ができないなら、数学が得意な私はなんなのか。そう反論したくなるが、すぐに思いとどまる。相手の反応が想像できてしまうからだ。

「本当に得意なの?」「何年かしたらできなくなるよ」

 この言葉に、慧は反論できない。慧より数学が得意な人間は歴史上何人もいるし、未来のことはわからない。数学好きとして論拠を重んじる慧には、何も言い返せない。そして無反論は、敗北と肯定を意味する。

 慧は、本当は数学が得意じゃないし、何年かしたら数学ができなくなるのではないか。

 それは、大好きな数学からの拒絶だ。それを想像するだけで、慧は恐怖に震える。いっそのこと、数学を嫌いになれれば楽なのに……。

「慧の気持ちはわかるよ」慧の様子を見て、あす香は付け加えた。「私も、最初から無視できていたわけじゃない」

 その言葉に、慧は少しだけ救われた。

「じゃあ、いつから?」

「ほんの二年前。数学部に入ってからだよ。ここには仲間がいるからね。私以外の数学好きの女子と毎日会えるから、他人の言葉を無視できるようになった」

 慧には、そのような相手はまだいない。伊緒菜もみぞれも慧の話を茶化さずに聞いてくれるが、二人は知的好奇心が強いだけで、数学が好きなわけではない。唯一の例外はあす香たち数学部のメンバーだが、彼女らと毎日会うことはできない。

 落ち込む慧に、あす香は真面目な顔で言った。

「これは部長の受け売りだけど……そういう人たちって、人を属性でしか見てないんだよね。『女』だとか、『理系』だとか。あとは『高校生』だとか、どこに住んでるかとか……」

 慧は今のマンションに引っ越すとき、母親がマンションの内装よりも、住所や階数を気にしていたことを思い出した。

「そしてその属性に対する自分の偏見を、すべての人が必ず守らなきゃいけないと考えているみたいなんだ。脅迫的にね」

「どうしてですか?」

「さぁね……。さらに恐ろしいのは、その人たちが自分自身のことも、属性でしか見てないことだよ」

「え、そんなことありえますか?」

「あると思うよ。自分は○○だからこれができるべき、これができないべき、と決めつけて行動している人は、少なくない。もっと柔軟に考えていいと思うのに、どうしてかそうしないんだ」

「文系だから数学はできない、とかですか」

「そう、それ。やってみれば案外できるかもしれないのに、やろうともしない。いやむしろ、意図的に避けている。だからさ、『女に数学はできない』なんて言う人は、自分自身にも『これはできるべきでない』と考えて、選択肢を潰してる人なんだよ。だから私たちみたいに、広い選択肢を持っている人がのさ」

 慧の母は、慧を羨ましがっているのだろうか。少し考えたが、慧にはわからなかった。

「しかも羨ましがるだけならいいけど、わざわざこっちの選択肢を潰そうとしてくる。でもそれは理不尽な八つ当たりだから、そんなものに付き合ってやる必要はないんだ。無視するのが一番だよ」

 しかし、それが一番難しいのだ。

「あす香さんは、その、両親に反対されたりしなかったんですか? 数学部に入ることとか、数学をやることは……」

 慧は尋ねずにはいられなかった。あす香は頬杖をついてから答えた。

「まあ、良い顔はされなかったね。入部した日だったかな、夕ご飯の最中に数学部に入ったことを言ったら、二人ともまず数学部の存在自体に驚いてたよ。そんなものが好きな高校生がいるの、って」

「属性、ですね」

「そうだね。それで母には『何する部なの?』って聞かれたし、父には『背が高いんだから運動部にすればいいのに』と言われた」

「なんて答えたんですか?」

「父には、中学でやったからもういい、って答えた。母には、先輩に聞いた内容をそのまま答えたよ」

 あす香は自嘲気味に笑った。

「その日以来、父とはなんとなく仲が悪いね。私が一方的に避けてるんだけど」

「わかります」

 慧は食い気味に言った。

「避けるようになりますよね」

「うん。好きなものを否定されるのもつらいけど、を否定されるのは、もっとつらい」

 慧も同じ気持ちだった。

「本当に、わかります。私も、その、母が、あまり……。この間、少しだけ歩み寄れはしたんですが……」

「歩み寄れたの? どうやって?」

「百点のテストを見せました」

 言葉にしてしまえば簡単な行為である。人によっては笑うかもしれない。しかしあす香は、それが慧にとってどれだけ勇気のいる行動であったか、察してくれた。

「なるほど、いい手だね。私も数検一級が取れたら父に見せてみるよ」

「あれ、取れてないんですか?」

「そうなんだよ。二年の中でまだ取れてないの私だけでさ……変な数ばかり覚えようとしてるからだよ、ってみんなにからかわれるんだ」

 あす香の趣味は、色々な数を覚えることだった。以前は、現在知られている完全数を全て覚えようとしていた。

「ちなみにいまは、eのπ√163乗の値を少しでも長く覚えようとしてる。26京くらいの数なんだけど」

「なんですか、それ?」

「ほとんど整数なんだ。小数点以下十二桁まで9が続くすごい数なんだよ。正確な値は、26京2537兆……」

 二人はその後、再び数学トークに花を咲かせた。スマホの着信にも気付かず、あす香の班員たちが探しにくるまで、時間も忘れて話し続けていた。

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