第93話 1/2
十二月に入った。体育祭や文化祭などイベントの多かった二学期も、あと数週間で終わる。残っているイベントは、学期末テストしかない。
学期末テストは十二月十三日から始まる。奇遇にもみぞれの誕生日だ。水木金と、三日かけてのテストとなる。
みぞれにとっては、憂鬱な話だった。
誕生日からテストが始まることに加え、その日は進路希望調査票を提出しなくてはいけない。そこに書いた希望に沿って、来年度のクラス分けが行われるのだ。
文系、理系、文理、情報の四コースから進む先を選び、それぞれで全く異なる授業を受けることになる。ここでの選択は大学受験にも影響するし、今後の人生も決まりかねない。担任教師は脅すようにそう言った。
「どうしてテストの初日にするんだろう」部室への道すがら、みぞれは津々実に愚痴った。「テスト後にしてくれれば、一番良い点取った教科で決めるのに」
「そういう大雑把な決め方をして欲しくないんでしょ」
津々実の言い方はあっけらかんとしていたが、みぞれのことを親身に考えているのはわかった。
「他のみんなは、どうやって決めてるのかな?」
「う〜ん、私は元々決まってたようなものだけど……。だいたいみんな、得意科目とかで決めてる感じかな」
「大雑把じゃない?」
「大雑把だね」
二人とも笑った。
「でも、やりたいことや好きなことで決めてる人もいる。歴史が好きだからとか、外国で働きたいからとか……。みぞれにも、そういうのがあればいいんだけど」
みぞれには、具体的な目標がなかった。強いて言うならば、自分に自信をつけたい。でもそれには、どんな勉強が役立つというのだろう?
二人で悩みながら、やがて第二校舎についた。みぞれは津々実と別れて、QK部室へ向かう。
部室には、伊緒菜も慧もすでに来ていた。伊緒菜が何やら分厚い本を開いて、腕を組んでいる。慧がそれを横から眺めていた。
みぞれに気付いた伊緒菜が、本から顔を上げて手を振った。
「あ、こんにちは」
「こんにちは。何してるんですか?」
「進路希望を書いてるの」
「え? 三年でもクラス分けがあるんですか?」
「違うわよ、大学よ」
伊緒菜が見ていたのは大学案内であった。図書室から借りてきたらしい。
「大学って、思ったよりもいっぱいあるのね。適当に近くの大学に進学しようと思ってたけど、偏差値とかカリキュラムとかを比較しだすと目移りするというか……選択肢が多すぎて絞るのが難しいのよ」
「伊緒菜先輩って、偏差値高いんですか?」
「そこそこ」
伊緒菜は胸を張った。
「現文なら七十近くあるわ」
「え、すごい」
「でも他は低いんだって」
と慧が水を差した。
「これから上がるから大丈夫よ。慧だって、数学以外は高くないんじゃないの?」
「まだ模試を受けたことがないのでわかりません」
慧はさらっと答えた。
そんな慧の前には、みぞれが持っているのと同じ、クラス分け用の調査票が置いてあった。第一志望はもちろん理系。そして第二志望は情報だった。
「慧ちゃん、プログラミングとか興味あったんだ」
「あ、これ? そういうわけじゃないんだけど……」
「だけど?」
「文理だと誰もいないけど、情報だと遠野が第一希望にしてるから……」
慧は少し恥ずかしそうに答えた。友達がいるから選んだということだ。慧がそういう選び方をするのは意外だった。最近の慧は、本当に丸くなった。
「でも情報系で数学ができるかどうか……」
不安がる慧に、伊緒菜は大学案内を見せた。
「できるんじゃないかしら? ほらこの大学、理工学部に数理情報学科ってのがあるわよ」
みぞれも一緒にページを見る。隣県の女子大に最近新設された学部だった。
「数理情報学科ってなにするんですか?」
「えっと、社会現象や自然現象を、コンピュータや数学を用いて……」
伊緒菜が紹介文を読み上げるなか、慧はじっとそのページを見つめていた。
もし母と少しでも歩み寄れていなかったら、慧の進路希望も混迷を極めていただろう。帰り道で、慧はそう思った。理系以外には進みたくないが、理系を選ぶことは絶対に反対されるはずだ。黙って書いて提出していたかもしれない。隠れて数学書を読んでいたときのように。
母とはいまだに打ち解けているとは言い難いが、それでも以前に比べれば話すようになっていた。QK部のことも話すし、夕食の席でテレビを見ながら、その感想を言い合うこともある。
今日の番組はニュースだった。母は興味もなさそうに、それを眺めていた。近頃やっとわかってきたが、母はほとんどの番組に興味を示さない。感想を言い合っても、面白かったと言うことはほとんどなかった。
不思議な人だ。母が何を好きなのか、慧はよく知らなかった。
食事を終えて一息つく。お茶を一口飲んだ慧は、意を決して話し始めた。
「あの、お母さん。うちの学校、二年になるときにコース分けがあるの、知ってる?」
母は慧をちらりと見てから、
「知ってるけど」
と素っ気なく答えた。
「私、それで理系コースに進もうと思ってる」
これを言うべきかどうか、慧は今日までずっと悩んでいた。
わざわざ言う必要はない。このコース選択に親の許可はいらないのだから、勝手に決めたって構わない。
それでも慧は、言うべきだと判断した。こそこそとやるのではなく、堂々と数学に向き合いたかったから。そのための第一歩として、理系に進むことを母に受け入れてもらう必要があった。
きっと受け入れてくれるだろうと思っていた。前に歩み寄れたときのように。
そう思っていた慧にとって、母の反応はあまりに冷酷だった。
「え、理系? どうして?」
まるで初耳と言わんばかりの反応だった。いや、事実これを言うのは初めてだが、数学が好きなことは既に心を込めて話している。
「どうしてって……だって、数学が好きだから。前に言ったでしょ?」
「たしかに聞いたけど、まさか、進路に選ぶほどだとは思ってなくて」
それは慧にとって衝撃的な感想だった。こっちは涙まで流したのだ。なのに、伝わってなかったなんて。
慧の中に、怒りと絶望が生まれた。理解してくれなかった母への怒りと、想いを伝えられていなかったことへの絶望。
「選ぶ、ほどだよ」あまりの衝撃に、声が震えた。「ずっと、好き、だったんだから」
「でも数学でしょ? やめときなさいよ。あんなの何の役に立つの?」
「役に、立つよ!」
慧は当然、数学の有用性を知っていた。数学が世の中にどう役立っているか知っていた。だが慧の口から出たのは、それとは全く違う言葉だった。
「数学があったから、私は、QK部に入れた。みぞれちゃんや伊緒菜先輩の力になれた。数学があったから、クラスの友達とも仲良くなれた。広島にも友達ができた。数学が、みんなと出会わせてくれたの!」
高校でみぞれと出会ってから、慧の人生は間違いなく幸福なものに変わっていた。それを与えてくれたのは、数学だ。
「だから、私にとって、数学は、役に、立つの!」
数学が役に立たないだなんて言わせない。それは、みんなとの日々を否定する言葉だから。それだけは、絶対に許せなかった。
しかし慧の想いは、やはり母にはほとんど届かなかった。
「だからって、わざわざ進路に選ぶ必要はないじゃない。だって、大学に行っても、数学をやることになるのよ?」
「な……」
慧は、母の言葉を理解するのに、数秒を要した。やりたいから行くということが、母に全く伝わっていない。
「そう、よ。私は、大学で数学がやりたいの。違う、大学だけじゃない、一生かけて数学がやりたいの!」
今度は母が絶句した。慧の言葉を理解できないという表情だった。
なぜわかってもらえないのだ。まさか、ないのか。この人には、一生かけてでもやりたいと思えることが、何もないのか。テレビを見ても、本を読んでも、何一つ興味を抱かないのか。そんな人間が存在するのか。
いや、いるのだろう。少なくとも、母はそういう人物なのだ。
こんな人間に、何を言えばいいのか。慧には何も思いつかなかった。
「一生数学をやるなんて……」
母は、その様子を想像しているようだった。しかし、それは母の想像力を遥かに凌駕する価値観だった。
「そんな寂しい人生で、慧はいいの? 女の子なんだし、もっと明るい人生を目指さないと」
慧は頭に血が上った。すべての価値観がまるで違う。結局母は、それしか考えていないのだ。女の子が取るべき選択肢しか。
「じゃあ、なんで女になんて産んだのよっ!」
慧は、賢い。こんなことを母に言ってもどうしようもないことくらい、わかっていた。母だって、慧の性別を選べたわけではない。二分の一の確率で決まったことだ。
だけど、それでも、言わずにはいられなかった。すべての元凶は、ここにあるのだから。
男にさえ、産まれていれば。
もう、母の顔は見られなかった。慧は泣きそうになりながら立ち上がると、自分の部屋へ駆け込んだ。
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