第66話 1000
「せんぱーい、がんばってくださーい!」
黄色い声援が飛ぶ。
「史せんぱーい」「勝てますから自信持ってー」
息の揃った二人の応援が飛ぶ。
「後輩たちに好かれてるんですね」
対戦相手の一浦小海三が、爽やかな笑顔で言った。決して男勝りな顔立ちではなく、むしろ可愛らしい顔立ちだが、どこか男性的な魅力のある少女だった。
「一浦さんも、あのツインテの子に好かれてるみたいですね」
小海三は照れ臭そうに苦笑した。
「ちょっと重いときもあるけどね……」
素数判定員がカードを配り終えた。
「先攻は一浦選手です。ではこれより、一分間のシンキングタイムを始めます」
史と小海三は同時にカードを取った。声援を送っていた三人も、一斉に口をつぐむ。ここから先は見守るしかない。
カードを持つ手が震えていることに、史は気が付いた。自分は緊張しているらしい。今までこんなことはなかった。QKの試合で緊張するなんて。
落ち着け、双子が見ているんだ。いや、見ていると意識しない方がいいのか? 史は混乱しそうな意識をなだめるため、深呼吸を繰り返した。よし、大丈夫、あたしは勝てる。
小海三のことは、事前に少し調べていた。群馬県立木蘭女子高QK部の部長。去年、全国大会一回戦で敗退した選手だ。しかしその一回戦の相手は伊緒菜だったので、小海三が弱かったというより相手が強かったというべきだろう。
「シンキングタイム終了です。これより、一浦選手の手番となります」
「一枚引きます」
小海三はカードを増やし、並べ替えている。史も自分の手札を確認する。
A、2、3、3、4、5、8、9、J、Q、K。
目を閉じて記憶を呼ぶ。
3^5=243、3^8=6561、3^9=……えっと……。
緊張で頭が働かない。覚えてたはずなのに出てこない。そうこうするうちに、小海三がカードを出した。
「3^5=243!」
「合ってます、合成数出し成功です」
史はたじろいだ。小海三も合成数出しが得意なのか?
去年の小海三は一回戦敗退で、しかも相手は伊緒菜だったため、あまり試合のデータが残っていない。小海三の得意戦法は謎に包まれているのだ。
だけど、それは相手にとっても同じはず。史が全国へ来るのは初めてだから、小海三もこちらのことはよく知らないはずだ。お互い手探りで戦うことになる。
それに、仮に小海三が史の地区予選での戦績を調べていたとしても、今の史のことは何もわからないだろう。今の史は四枚出しで悩むような選手ではないし、ましてや
そのことを、双子に証明したい。だからここは、勝たなくては。
「一枚引きます」
手札には、J、Q、Kがある。これらはどう並べ替えても9の倍数だが、合成数出しを覚えている。しかし、そのためにはカードが足りない。この他にも、あと一枚か二枚あれば出せる合成数が、いくつかある。良いカードが来れば、どれかが出せる可能性は高い。
引いたカードは7だった。これで出せるものは、3QK=7^4×A3! しかし、いまいきなりこれを出すよりは、一回り小さい数を出すべきだ。
「だから、あ~……これだ、859」
「859は素数です」
小海三は想定された流れだと言わんばかりに、次の素数を出した。
「JQJ」
「111211は素数です」
やられた、と史は頭を抱えた。3QKはこれより小さい。
いや、まだだ。二桁カードを引ければまだ返せる可能性がある。
「一枚引きます」
引いたカードはQ、二桁カードだ。期待した史だったが、手札と見比べて肩を落とした。J、Q、Q、Kはどの三枚をとっても素数にならない。
「パスします」
場が流される。判定員がタイマーを切り替えると、小海三は手札を再確認してから出した。
「QTA9」
「121019は素数です。よってこの試合、一浦選手の勝利です!」
「きゃーっ! 先輩さすがですー!」
ツインテの子が黄色い声で叫んだ。小海三は振り返ると、彼女を静かにさせようと唇に指を当てた。
「史先輩」「まだ一本です」「次勝てば同点ですから」「落ち着いて」
双子が浴びせるように応援してくる。史は右手を振っただけで、双子の双子の顔を見れなかった。
「ではこれより二本目を始めます。先攻は吉井選手です」
素数判定員の声で、小海三が前に向き直る。判定員は無言でカードを配り終えると、
「これより一分間のシンキングタイムを始めます」
落ち着く暇もない。史は慌ててカードを取った。そしてまた頭を抱えそうになった。
A、2、2、4、4、4、6、9、T、J、J。
偶数だらけだ。おまけに偏っている。せめて8があればまだ出しやすかったのだが。
しかし、8がなくても出せる数はたくさんある。それに、4が三枚ある場合の合成数出しをいくつか覚えてきたはずだ。思い出せ、思い出せ。
「シンキングタイム終了です。これより吉井選手の持ち時間となります」
史はとりあえず一枚引いた。3だ。揃った手札を見て史は既視感を覚えた。
手札に
いやいや駄目だ、と史は頭を振った。
「頼む、あたしにそろばんを教えてくれ!」
六月二十五日。地区予選の帰り道で、史は遠海姉妹に頭を下げていた。
「そろばん、ですか」
史におごってもらったクレープを口にくわえながら、美衣と美沙は同時に言った。
「もしかして、このクレープはそのための交渉材料ですか」
「いや、そういうわけじゃないんだが」
双子は同じ顔で同じ大きさのイチゴをもぐもぐと噛みながら、顔を見合わせた。イチゴを飲み込むと、
「どうしてですか?」
「今日一日で、よくわかったんだ。あたしはQKに真剣に取り組んだことがないし、全然強くもない。今日はまぐれで勝てたようなものだ」
美衣も美沙も、猫のように感情の読めない表情でじっと史を見つめた。
「でも、二人は強いだろ? それはたぶん、そろばんをやってるからだ。覚えてなくても素数が出せちゃうんだから。だから、あたしにもそろばんを教えてくれ」
史はまた頭を下げた。美衣と美沙はクリームをぺろりと舐めると、
「なるほど」「なるほど……」
と唸った。
「だ、駄目か?」
「いえ、ダメじゃないです」「ダメじゃないですけど……」
「けど?」
二人は深く頷いてから、史にクレープを突き付けた。
「甘い!」「甘いです、史先輩!!」
「え、えぇ……」
だじろぐ史に、双子は口々に言葉を投げつけた。
「覚えるのが面倒だから計算しようって腹なのかもしれませんが!」
「そろばんだって一朝一夕にできるようにはなりません!」
「そ、そうなのか?」
「そうです!!」
怒鳴って、美衣はクレープを頬張った。その間に美沙が言った。
「たしかにうちらは暗算得意だけど、それは小一から九年間そろばんをやってるからです。全国大会までの二か月程度じゃ、全然足りないよ」
美沙がクレープを頬張ると、今度は美衣が喋り始めた。
「史先輩は一回もそろばんに触ったことないんですよね? それじゃ、珠の弾き方を覚えるだけで二か月経っちゃいます」
また美衣がクレープを頬張って、美沙が喋る。
「だから、今からそろばんをやっても遅いです。史先輩にできるのは、覚えることだけです。とにかく、素数を覚えましょう」
二人は黙ってもぐもぐもぐとクレープを食べきった。史はそれを見届けてから、頭を掻いた。
「やっぱり、手っ取り早く強くなる方法なんてないか」
「当然です」
双子は力強く頷いたが、互いに顔を見合わせると、眉を下げた。
「でも、せっかく史先輩がやる気になったのに士気を下げるのも可哀想だから……」
「いいでしょう、そろばんは教えませんが、うちらが一肌脱ぎます」
「本当か!?」
双子は、ふっふっふー、と鼻を鳴らした。
「うちらの特訓は、厳しいですよ」
数日後、部室にやってきた双子は、テーブルの上にバラバラと小物を広げた。
「なんだそれ?」
トランプを切っていた史が、それらを見下ろす。手のひらサイズの小さな短冊の束だ。
「単語帳です」と美衣。
「受験生なんですから、単語帳くらい知ってるでしょ」と美沙。
「いや、それは知ってるけど」
「中を見てください」
言われた通り、ひとつ取って一枚めくる。そこには「JQK」と書かれていた。アルファベットだが、明らかに英単語ではない。史は嫌な予感がした。裏をめくると、そこには「3^4×1373」と書かれていた。明らかに、英単語では、ない。
「あの、これはもしや……」
「はい」双子は頷き、同じ声で同時に言った。「合成数カードです」
「これ、全部?」
「そうです」
双子は鼻高々に説明した。
「この数日で、思いつく限りの合成数出しを片っ端から書きました」
「使いにくいのもあると思いますが、大半は使えるもののはずです」
「これを、全部覚えろと?」
「そうです」
単語カードは十束ある。一束百ページとすると、全部で千個。
「いくつかダブってるので、実際は九百個くらいだと思います」
「それに2の10乗とかの常識的なものも入ってるので、それらを除くと八百個くらいだと思います」
「常識的な合成数出しって、百個もあるか?」
双子は反対方向に首を傾げて、
「じゃあ、八百五十個くらいでしょうか」
「とにかくそれ、全部覚えてください」
「あの、先生」史は挙手した。「どうしてこういう作戦に至ったのか、理由を聞いてもいいですか」
先生と呼ばれて、双子は得意気になった。
「それは、これが一番効率の良い方法だからです」
「史先輩も知っての通り、合成数出しは同じn枚出しでも、相手より多くのカードを減らせます」
「そして合成数出しを覚えるということは、その素因数分解も覚えるということ。つまり、ひとつの合成数を覚えると、同時に二つや三つの素数も覚えられるんです」
双子は声をそろえた。
「ね、効率的でしょ?」
史は単語帳をめくり続けた。「385」「5×7×11」「243」「3^5」「8T4K」「191×4243」……。
見たことない合成数出しが、無数にある。史は双子の顔を見た。同じ顔で愉快そうな表情をしているが、よく見たら目元が暗い。千個も合成数を書いたのだ。二人で分担しても、一人五百個。三日で書き上げたとしても、寝る間を惜しんで書き続けないといけなかっただろう。
二人はそれだけ、あたしに期待しているんだ。それに、そもそも頼んだのはあたしだ。あたしには二人の期待に応える義務がある。
「わかった。絶対に覚える。ここにある千個、全部覚えて、全国で優勝してみせるよ」
「ふっふっふー、言いましたね、史先輩」
「楽しみにしてますよ、史先輩」
双子はやっぱり、愉快そうだった。
だから、44123なんて、しょうもないものを気にしてる場合じゃない。史は手札を検めた。
4が三枚あるこの手札、出せる合成数はいくつかある。その中でいま適しているのは、たぶん、これだ。
464=2^4×29。
これを出すと、残りはA、3、T、J、J。これは色々な出し方があるが、三枚出しなら最大はTJJだ。残ったA3はもちろん素数。
これで、行ってみよう。史は場と素因数場にカードを並べた。
「464は、2の4乗かける29」
小海三が「え」と声を出した。初めて見る合成数出しだったのだろう。判定員がタブレットを操作し、告げた。
「合っています、合成数出し、成功です」
「へぇ……すごいね。計算したんですか?」
「いえ」史は胸を張って答えた。「覚えてました」
あたしには美衣と美沙がついている。勝てるはずだ。勝たなきゃ、いけない。
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