第33話 14641
「すい、へー、りー、べ、ぼ、く、の、ふ、ね……」
みぞれは周期表を指折り数えていた。
土曜日、QK部の面々は再び伊緒菜の家に集まっていた。伊緒菜の部屋で座卓を囲み、お菓子とジュースを手にテスト勉強に励んでいる。
「ええと、だからネオンは9番目?」
「違うって。『の』はNとOを合わせてるから、ここだけで2つなんだって」
「お、覚えにくいよぉ……」
「意外ね」数学の問題集から顔を上げて伊緒菜が言った。「暗記、得意だと思ってたのに」
みぞれは唇を尖らせた。
「前にも言いましたけど、わたし別に暗記得意じゃないですよ……そもそも勉強全般苦手ですし……」
言っているうちに声が小さくなる。自分で言ってて悲しくなった。
伊緒菜はペンで眼鏡を持ち上げて、
「素数だけ覚えられるとか?」
「ううん……?」
二人して首を傾げた。
「ひょっとしたら、ビジュアルで覚えてるのかもしれないわね」
「ビジュアル?」
「たまにいるのよ。トランプの絵柄で覚えてるから、音としては覚えてない人。クイーンとキングを並べれば素数になることは覚えてても、『1213は素数か?』って口頭で聞かれると答えられない、みたいな」
「そんなことあるんですか?」
伊緒菜は頷いて、
「だからみぞれは、『すいへーりーべ』みたいな語呂合わせでも良いけど、周期表や電子配置を絵で描いた方が覚えられるかも……」
「ほんとですか?」
半信半疑ながら、みぞれは言われた通り絵を描き始めた。
「素数は絵で覚えにくいのよねぇ」伊緒菜がノートの端に素数を書き並べながら言う。「語呂合わせを絵にしてる人もいるみたいだけど、だったら語呂合わせを覚えればって話だし」
「素数書いてないで問題解いてくださいよ」
慧が注意する。
「そろそろわからなくなって来たわ。ヘルプ」
「どれですか?」
伊緒菜が「これよ」と、ノートを差し出す。高次の展開だ。二項定理を使えばすぐできる。
「……って、ここまでの問題、かなり間違えてません?」
「え、そう?」
伊緒菜は解答ページを開いて、答え合わせを始めた。×、×、×……と、バツが続いていく。
「こ、こんなはずじゃ……」
「計算ミスもありますけど、ほぼすべて符号の間違いですね。ということは……」慧は一瞬で伊緒菜の計算過程を精査した。「公式の使い方が違います。bには符号ごと代入するんです。だから、奇数乗の項では符号がマイナスになるはずなんです」
「え、どういうこと?」
慧は実際に問題を解きながら、使い方を説明した。伊緒菜は眉をひそめて腕を組んだ。
「なんでそうなるわけ?」
「えっと……」慧にはむしろ、どうしてわからないのかがわからなかった。「……えっと、そうですね、たぶん、どうしてこの公式が成立するのかを考えれば、わかるんじゃないかと思います。(a+b)のn乗を展開したいわけですが、どうやってこれを展開するかと考えると……」
慧は卓上のホワイトボードに数式を書きながら説明した。
「……となるので、この式でk番目の項の係数がわかるんです」
Q.E.D.と記す。伊緒菜は数式を何度も見返して、頭の中を整理した。
「えっ、じゃあ何、この式は単に展開の仕方をややこしく書いてるだけなの?」
「ややこしくしているんじゃなくて、記号を使って短くまとめているんです」
「そうだったのね……」
伊緒菜は感心したように数式を眺めていた。
「この際だから、テスト範囲の式を全部解説して欲しいわね」
「別に構いませんよ」
「じゃあお願い。授業より分かりやすいわ」
「それは授業をちゃんと聞いていないからなんじゃないですか?」
白い目で見ながらも、慧は少しだけ嬉しかった。
二人が数学をやっている間に、みぞれ達は理科の勉強を進めていた。
「絵描いて覚えられた?」
余裕綽々で試験範囲の問題を解き終えた津々実が聞く。
「ううん、覚えたようなそうでもないような……」
「希ガスを答えよ」
「ええと、ヘリウム、ネオン、アルゴン……」
みぞれに問題を出しながら、津々実は国語の宿題を始めた。
それが終わる頃には、慧の授業も一段落していた。
「初めて数学が理解できたかもしれない」伊緒菜は解説を写したノートを見ながら、感動していた。「今回は赤点を回避するかもしれないわ」
「毎回赤点なんですか」
「数学だけよ? 他はそうでもないわ。国語なんて毎回ほぼ満点だし」
津々実が手を止めた。
「国語って、勉強しようがなくないですか? 読めばわかるというか、読んでもわからなかったら勉強してもしょうがないというか……。古文や漢文なら別ですけど」
「あら、そうでもないわよ」
伊緒菜は得意気に言って、津々実の宿題を見た。
「国語の先生、誰?」
「いしちゃんですけど」
快活なお婆ちゃん先生だ。
「ああ、
「はい」
伊緒菜はノートを開き、一文を指差した。
「ほら、文章の読み解き方が書いてあるでしょ? 国語の教科書に出てくる小説は、話の作り方が文字通りお手本みたいになってるから、この方法通りに読み解けば良いのよ」
「はぁ」
津々実はピンと来ていないようだった。一緒に聞いているみぞれと慧も、同じような反応だ。
「ちょっと待ってて」
伊緒菜は立ち上がると、自分の勉強机を漁った。棚の上にあるファイルを取ると、そこからプリントを何枚か抜き出した。
「はいこれ。去年の石破先生のテスト」
「えっ」
伊緒菜はにやりと笑っている。
「私も去年、石破先生だったのよ。だから、たぶん今年もそこにあるような問題が出ると思うわ。ただし……」
紙をめくって見せた。前半は授業でやった『羅生門』だが、後半は読んだことのない文章だ。
「あの人、いつも教科書にない文章も載せるのよ」
「えっ。それこそますます勉強のしようがないんじゃ」
「そんなことないわ。むしろ逆よ。教科書の文章ではないけど、授業で説明した読み取り方で読める文章を出してくるから」
文章に読み方があるなんて発想が、そもそもなかった。読めばわかるじゃん、と思っていたのだが。
伊緒菜はノートを示し、
「ほら、ここにも書いてあるでしょ? 小説というのは、最初に主人公が持っていたトラブルや思想が、ある事件を通して変化する、その様子を描いているの。だから、最初と最後で主人公がどう変化したかが読めれば、その話のテーマがわかる。試しにその問題、解いてみたら?」
「やってみます」
津々実は早速、後半の問題に取り組んだ。
慧が勉強机を見て言った。
「もしかして、去年のテスト問題、全部取ってあるんですか?」
「ええ」
「じゃあ、それを見れば、他の科目もだいたいの傾向がわかるんですか?」
「先生が同じならね」
各科目の担当を言い合う。みぞれと慧は別クラスなので、担当の先生も違っていた。慧のクラスは社会が一致し、みぞれのクラスは国語と数Iが一致した。
慧に社会のテストを渡しながら、
「あの先生は標語とかが好きだから、そういうのを中心に覚えるといいかも。重要な事柄を、一言でビシッとまとめるのが好きみたい」
とアドバイスした。
「伊緒菜先輩って、テストのたびに先生の性格とか考えてるんですか?」
「もちろん」にやりと笑いながら即答した。「学校のテストなんて、結局は先生との知恵比べなんだから。ボドゲと同じで、相手の思考パターンがわかれば、出てくる問題の傾向もだいたいわかるわよ」
「ならどうして数学は赤点なんですか?」
伊緒菜は目を逸らした。
「傾向がわかっても、解けないものは解けないのよ。そ、そんなことより、他の科目のノートを見せなさい。板書内容から、先生の性格を炙り出してあげるから」
本当にそんなことができるのだろうかと疑いながら、慧たちはノートを開いた。
「全問正解しました」
津々実が国語のテストを解き終えて、採点した。
「後半だけですけど」
「すごいじゃない」
と伊緒菜が褒めた。
「やっぱりつーちゃんすごい!」
半分程度しか正解しなかったみぞれが目を輝かせる。
「津々実ちゃんって、全科目得意なんだっけ?」
「まーね」
「つーちゃんはなんでもできるんだよ!」
なぜかみぞれが得意になって答える。津々実は照れ臭そうに笑った。
慧は眉根を寄せて、小声で聞いた。
「でも、それって……その、目立たない?」
「慧は目立ちたくないんだっけ?」合宿中にそんなこと言ってたな、と津々実は思い出した。「確かに目立つし、それで疎まれることもあるけど……あたしはそういうの、気にしないタイプだからさ」
「そう……」慧は目を伏せた。「すごいね」
「う? うん」
慧の妙な反応に、津々実は戸惑った。伊緒菜が何かを察したように言った。
「そういう“女の子”もいるのよ。あなたが誰の目を気にしているのか知らないけど、少なくとも私達はあなたが数学を得意でも、変に思ったりしないわ」
「別に、そんなこと気にしてません」
慧はそっぽを向いた。図星を付かれるとこういう反応をするのかな、と伊緒菜は思った。
「それに私は、あなたの数学力には感謝しているわ」伊緒菜はノートを見せた。「ほら、少しだけ解けるようになった」
「そうだよ!」みぞれも同調した。「わたし、慧ちゃんの数学の話聞くの、好きだよ。面白いもん」
「……そう。なら、良いけど……」
なおもそっぽを向きながら、慧は髪の毛をいじった。初めて人の役に立ったような気がした。
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