第5章 中間テスト

第32話 1987

「テスト週間で部活が休みだ!」

 遠野とおのさくが、放課後になるなり慧の席に来て言った。

「遊ぼうぜ!」

「バカじゃないの」

 慧の後ろの席から、たちばな由乃よしのがツッコミを入れる。

「勉強しろし」

「勉強なんていつでもできるだろ! でも遊べるのは部活が休みの今だけだ!」

 陸上部の遠野は、毎日遅くまで部活に励んでいた。慧は目を細めて、

「遠野はいつも勉強してるの?」

「してるしてる。週に5日も朝から夕まで」

「それ授業じゃん」橘が遠野の脇腹をつつく。「しかもあんた、だいたい寝てるじゃん」

「授業時間だって勉強時間だよな?」

 橘の攻撃をかわしながら、助けを求めるように慧を見る。

「寝てなければね」

「ぐはー」

 遠野はわざとらしくその場に崩れた。橘が鞄に教科書類を入れながら、

「剣持だってたまに寝てるの、私は知ってるぞ。特に数学と国語」

 と詰めてきた。

「う、うん、まぁ……」

「なんだよ、仲間なのかよ。真面目そうな顔して意外だな」

 慧は苦笑した。

 国語はともかく、数学で寝ている理由はおそらく異なるだろう。慧にとって、学校の授業は簡単すぎるのだ。大半が既に知っている内容だし、知らなかった内容も、一分でわかることを三十分以上もかけて説明されれば眠くなる。

「ん? 数学も?」

 遠野は腕を組んで首を傾げた。

「剣持って、なんか数学やる部活に入ってるんじゃなかったっけ? なのに数学の授業中寝てるの?」

「うちはそんな部活じゃないわよ。QKっていうトランプゲームをやる部活だから」

「どんなゲームなんだ?」

 遠野の質問に、

「あ、それ私、少し調べたんだよ」

 と橘がスマホを取り出し、呼びかける。

「『素数大富豪』で検索」

 検索結果を二人に見せる。素数大富豪のルール紹介のページや、無料で遊べるアプリなどが並んでいる。

「正式名称は『素数大富豪』って言って、素数を出していく大富豪なんだって。全国大会もやってるらしくって……剣持も出るの?」

「うん。六月に予選があって、全国大会は八月」

「来月じゃん。ってかうちも来月大会だ」

 二人の視線が文芸部員の橘に向く。

「橘はなんかないの?」

「ないよ」

「部誌作ったりとかしないの?」

「しないしない。文化祭のときだけ」

 鞄を持って立ち上がる。

「それじゃ、私は文芸部員らしく図書室で勉強してくるから」

「真面目だなー」

「私も久しぶりに行こうかな」

 慧も続いて立ち上がった。QK部に入って以来、行っていなかった。

「えー、遊ぼうよー」

「バカなこと言ってないで勉強するぞ」

 遠野の腕を引っ張って、第二校舎三階の図書室へと連行していく。


 図書室は混んでいた。しかし本を読んでいる生徒は少数派で、過半数はプリントやノートを広げていた。

 慧たちも空いている席を探した。図書室は入って右側に本棚が並び、左側に読書用の長テーブルと椅子が並んでいる。奥の方に、ちょうど三人座れる一角を見つけた。

「何やる?」

「まずは社会かな」

 慧は現代社会のプリントを出した。今日配られたものだ。穴を埋めれば、テストで十分な点が取れるらしい。

「うちもそれやるか」遠野が鞄をごそごそと探す。「あれ、ない」

「今日配られたのに……?」

「お前の鞄、ブラックホールなんじゃないの?」

 本当に見つからないようで、遠野は早々に探すのを諦めた。

「いいや、他のことやろ」

「見せてやるから書き写せ!」

 橘が自分のプリントを遠野に押し付ける。

「えー、これ全部書くの?」

「その方が覚えられるだろ。むしろお前はそうした方が良い」

 遠野は渋々社会のノートを開き(ノートはあった)、プリントを写し始めた。

 慧も社会の教科書を開いて、プリントの空欄を埋めていく。地球温暖化、生態系の保護、オゾン層の破壊。モントリオール議定書は特定フロンの全廃を求めたもので、採択されたのは1987年。

「素数だ」

 と慧は呟いた。

「え?」

「1987は素数なの」

「ふーん……」

 遠野も橘も、興味なさそうに相槌を打った。

「やっぱりQKやるには、そういうの覚えないといけないんだ」

「えっ、う、うん、少しはね」

「へー、大変だねー」

 遠野がシャーペンを転がしながら言う。

「遊ぶな、遠野」

「飽きた……」

「早過ぎるだろ!」

 二人とも、再び黙々と自分の作業に戻った。遠野はプリントを書き写し、橘はせっせと数学の問題集を解いている。

 橘の手もあまり進んでいない。しかしそれは遠野のようにサボっているからではなく、解法が思い浮かばないからのようだ。

 それは慧にとって、簡単な因数分解だった。一度展開してaでまとめれば、たすき掛けで分解できる。

 ノートを見る限り、橘は公式通りの因数分解はすらすらできている。一旦展開して因数分解するとか、文字でおくとか、そういう段階的な操作が苦手なようだ。

 教えてあげるべきだろうか。でもこの三人の中では、橘が一番頭が良い。その橘に数学を教えるということは、自分は数学が得意だと告白するようなもので……。それは、なんだか嫌だった。

 しばらく経ってから、ようやく橘はペンを動かした。式を展開し、aでまとめる。しかし、そこでまたペンが止まった。たすき掛けが思いつかないようだ。

 慧は口出ししそうになりながら見ていたが、一分くらい経って、橘は式変形を再開した。今度こそペンは止まらず、正しい答えを導いた。

 慧はほっとした。橘が正解したからではない。自分が口出しせずに済んだからだ。橘が次の問題に取り掛かる前に、目を反らす。

「あ、あのさ」

 自分のプリントを見ながら、慧は二人に聞いた。

「二人は、数学が好きな人のこと、どう思う?」

「えー?」

 遠野がペンを回しながら答える。

「変人?」

 慧は顔も上げずに固まった。

「なんかそういう奴って、『俺の計算によれば、成功する確率は○○パーセント』とか言い出しそうじゃん」

「漫画の読み過ぎだ」

 橘もペンを止めて言う。

「まーでも、モリアーティ教授も犀川教授も変人だし、数学ができる奴にまともな奴はいない……」

「誰?」

「ホームズぐらい知ってろよ」

「そのくらい知ってるよ。犬のアニメでしょ?」

「違うよバカ」

 二人のやり取りを、慧は黙って聞いていた。心臓が凍り付きそうな気分だった。


 自宅のマンションに着き、慧はセキュリティシステムに鍵を差した。エントランスのガラス扉が自動で開く。エレベータで三階へ上った。

 家の前まで誰にも会わなかった。玄関の扉を開けて、靴を脱ぐ。

「ただいま」

 リビングのドアを開けて、小さい声で言った。

「おかえり」ソファで新聞を読んでいた母親が、こちらを見て答えた。「早かったわね」

「うん。今週はテスト前で、部活が休みだから……」

「ああ、テスト」母親は新聞を畳んだ。「ちゃんと勉強しなさいよ」

「うん」

「ご飯まだだから、先にお風呂に入りなさい」

「わかった」

 母親に背を向けて、自室へ行く。

 勉強机に鞄を置くと、セーラーブレザーを脱いでブラウス姿になった。トイレを済ませたあと、ふと思い立って風呂場へ行った。案の定、風呂は沸いていない。軽くシャワーで浴槽を洗って、湯を入れ始めた。

 キッチンで母親が料理を作り始めた音がする。慧は部屋に戻ると、クローゼットから下着と寝間着を取り出した。

 脱衣所で服を脱ぐ。制服と下着をそれぞれ籠に入れる。風呂はまだ湯が溜まっていなかったが、気にせず入った。

 湯船で足を伸ばして、少しずつ上がる水面を眺める。

「私の計算によれば、お湯が溜まるまで約十分」

 ぼそっと呟く。実際には計算なんてしていないし、湯が溜まるまでの時間なんて知ろうとも思わない。数学が好きだからと言って、四六時中そんなことばかり考えているわけじゃない。

 それでも、私は変なのだろうか。数学が好きな時点で……。

 それ以前に、勉強が好きだという時点で、既に特殊なのかもしれない。遠野はもちろん、橘だってたぶん、勉強は好きじゃない。慧も数学以外の勉強は嫌いだった。それが好きだというのは、どこかまともじゃないのかもしれない。

 湯が胸の下あたりまで溜まったので、慧は蛇口を閉めた。急に静かになった風呂場に、キッチンからの音が届く。何かを切っている音だった。

 変といえば、母親との関係も変わっているのだろうか。伊緒菜や津々実は、両親ととても仲が良さそうに見えた。一方、慧は母親とあまり会話しない。父親とはなおさらだ。思春期の少女とはそういうものだと思って、今まで特に気にしないでいた。だけど伊緒菜や津々実を見ていると、それすら自信がなくなってくる。

 いつから母親と話さなくなったんだっけ、と慧は考えて、中学一年の秋頃かな、と思った。慧が数学に興味を持ち始めたあの頃から、会話が減っていった。

 慧が一番話したいのは、数学のことだった。でも母親は言ったのだ。「女の子が数学なんてできてもねぇ」と。その言葉が尾を引いて、慧は母親を避けるようになっていった。

 なんだ、原因は数学じゃないか、と慧は自嘲した。思春期とか関係なかった。やはり私は、どこか変わっているのかもしれない。

 伊緒菜たちは、私のことをどう思っているのだろう。入部のときは受け入れてくれたが、今でもそうだろうか。そうなら、良いけれど……。

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