第34話 100
三日間の中間試験が始まった。最初の試験は数Iだ。
試験用紙が配られてから試験が始まるまでの、ほんの短い静寂の時間。慧は、いまクラスで一番緊張しているのは自分だろうな、と思っていた。
チャイムが鳴った。クラスメイト達が一斉に紙をめくる。試験監督の教師の「はじめ」と言う声が、その音に被った。
慧も用紙を開いて、問題を見る。
大問1は、中学レベルの二次方程式や確率の問題が五問。大問2は公式通りの展開と因数分解の問題が、合わせて二十問。大問3は複雑な因数分解の問題が五問。大問4は、おそらく満点防止のためだろう、文章問題が一問だ。
どれも簡単な問題だった。
むしろ難しいのは、何点を取るべきかという問題だった。
いつも通り、平均点を狙うべきだろうか。それとも、もう満点を取ってしまって良いだろうか。
仮に満点を取った場合、橘や遠野はなんと言うだろうか。自分のことを頭のおかしい奴だと気持ち悪がるだろうか。それに、母親はどんな反応をするだろう。女の子らしくないと怒るだろうか。
ペンを走らせる音が教室中に木魂する。慧はまだ手を動かしていなかった。
目を閉じて考える。
今までずっと我慢していた。家や学校で数学の話をしたいのも我慢していたし、問題を正解したいのも我慢していた。
でも、もう良いんじゃないのか?
津々実みたいに、周りの目を気にせずに、自分にできることをするべきじゃないのか。そうすれば、伊緒菜みたいに、慧を頼る人が現れるかもしれない。みぞれみたいに、慧の話を面白いと言ってくれる人すら見つかるかもしれない。
大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。数学ができることは、悪いことじゃない。
目を開ける。ペンの音がそこかしこから聞こえてくる。慧もそれに混じり、ペンを動かした。
「わけわかんなかったぜ」
試験が終わるなり、遠野が慧の席に来て愚痴った。
「確率とか覚えてないし!」
「中学の範囲だけど?」
「お前よく入学できたな」
「辛辣!」
遠野はすがるように慧を見た。
「でも、剣持だって、そんなにできたわけじゃないだろ?」
どきりとした。いつもの自分なら、誤魔化すように苦笑するシーンだった。
「……ううん。今回は、そこそこできたと思う」
「ほんとかよー」遠野が疑いの眼差しを向けてくる。「じゃあ賭けようぜ。この中で一番数学の点が低かったやつが、アイス奢りな」
「ありがとう、遠野」
「金あるのか、遠野?」
「なんでうちが負ける前提なんだよー!」
三日間は無事に過ぎていった。
その翌日の木曜日に、数Iの授業があった。
「いよいよだな」授業前に、遠野がふん反り返って言った。「賭けのことは忘れてないだろうな」
「こっちの台詞だ。ちゃんと奢れよ」
遠野は何か反論しかけたが、教師が入ってきたので慌てて席へ戻って行った。
日直が号令をかけると、
「それじゃ早速、お待ちかねのテストを返すぞー」
と、教師がおどけたように言った。それから厳しめの声で、
「高校にも慣れて気が抜けてきた頃だと思うが、みんな勉強するために高校入ったんだってこと、忘れないように。特に今回、中学レベルの問題ができてない者が数人いたが、そいつらはなおのこと気を引き締めるように」
「せんせー、説教が長いです」
「遠野、お前のことだ」
「ふえっ!?」
クラス中が笑いに包まれる。生徒たちを静かにさせると、教師は答案を返し始めた。
「剣持ー」
名前を呼ばれて前に出る。答案用紙を渡すとき、教師が小声で言った。
「よく頑張ったな」
見ると、慧は満点だった。教師はそれ以上何も言わず、次の生徒を呼んだ。
教師の態度はあっさりとしていたが、慧は動揺していた。自分はいま、褒められたのだ。数学ができて!
ぼんやりしながら、席に戻った。入れ替わりに橘が答案を取りに行く。
「何点だった?」
戻ってきた橘が聞く。
「あとで、三人同時に見せ合おう?」
「なんだよ、もったいぶるなぁ。よっぽど良かったのか?」
返却が終わると、教師は問題の解説を始めた。クラスメイト達はみんな真面目にノートを取っている。慧もノートを取った。
授業が終わると、早速遠野がやってきた。
「さあ、点数を見せ合うぞ!」
慧は緊張しながらも、覚悟を決めた。
「いっせーの、せ!」
遠野の号令で、一斉に答案を見せる。
遠野62点。橘80点。そして、慧100点。
「え!?」
「は!?」
二人とも声を上げる。慧は二人の次の言葉を、恐々としながら待った。引かれるだろうか。気持ち悪がるだろうか。 嫌な想像が、慧の頭をよぎる。
「剣持、そんなにアイス食べたかったのか!」
「……は?」
遠野の反応があまりに予想外で、慧は目が点になった。
「バカ、遠野。賭けをしたのはテストの後なんだから、賭けとは無関係だ」
「あれ、そうだっけ」
「しかしすごいな、最後の問題もできてる……」
「あ、あの」慧は突っ込まずにはいられなかった。「もっと、他の反応、ないの? その、変、とか……」
「変?」
「だ、だって、この間二人とも言ってたじゃない。数学ができるなんて変だって……」
橘は先週の会話を思い出し、「ああ」と呟いた。
「変わってるとは思うけど、数学ができることは、素直にすごいと思うよ。てか、私も数学、できないわけじゃないし」
と、80点の答案を振った。
遠野が当たり前のように付け加える。
「それに、剣持が変わってるのなんて、もう知ってるし」
「え゛」
慧は軽くショックを覚えた。私、数学と無関係に変わってるの?
なんでもないことのように、遠野は続けた。
「無口だし、笑いのツボがよくわかんないし、あと、『これは素数』とか言い出すし」
「わ、私って、そんな人?」
「自覚なかったのかよ」
橘に突っ込まれた。
「だって私、無口じゃないし、変なところで笑ったりなんてしないし……。『これは素数』だなんて、何度も言ってないでしょ?」
遠野がケラケラと笑いだした。
「剣持は意外と面白い奴だなー」
「お前ほどじゃないけどな」
「ふぇっ!?」
「お前も自覚なかったのかよ」
慧は二人のやりとりを、ただ困惑しながら見ていた。
部室に入ると、伊緒菜が数学の答案を得意気に見せつけてきた。
「あなたのおかげで、赤点は回避したわ。ありがとう」
「えっと……」
たしかに回避はしているが、ひどい点数だった。なんと言うべきか悩みながら、助けを求めるようにみぞれを見る。みぞれも苦笑していた。
「が、頑張りましたね」
「……ま、いい点数じゃないのはわかってるけど」
「ならなんでそんな得意そうなんですか」
伊緒菜はにこにこしながら、
「慧はどうだったの、数学」
「……」
慧は黙って、答案を出した。
「ひゃ、100点です」
「さすがね」伊緒菜が慧の目を見た。「もうすっかり自信はついたかしら?」
「自信……て、なんのですか?」
慧は眉を潜めた。みぞれも小首を傾げている。
「自覚はないのね」
伊緒菜にまで言われてしまい、慧は脱力した。
「それ、さっきもクラスの友達に言われました。私、そんなに自分のことわかってないですか?」
「さぁね」
伊緒菜は小さく息を吐いてから、真面目な顔で言った。
「で? 『数学ができても良いんだ』という自信はついたかしら?」
そういう意味か、と慧は得心した。今までの自分は、そのことを隠していた。それはある意味、後ろめたさがあったからかもしれない。
「まだ、心の底から自信があるわけではないですけど……ただ、褒められるのは嬉しいんだなってことに、気付きました」
「そう」伊緒菜はにこりと笑った。「それはいずれ、自信に繋がるわ」
日が長くなってきた。部活を終えて帰ってきても、太陽はまだマンションを照らしている。
3階の自宅に帰る。母親はリビングのソファでテレビを見ていた。リビングに面したキッチンでは、味噌汁の入った鍋が湯気を立てている。
「おかえり」母親はテレビを消して立ち上がった。「すぐご飯にするから……」
「あのっ、お母さんっ」
慧は母親の話を遮った。娘の珍しい態度に、母親は驚いた。
「なに?」
「あの、テストが返ってきたから、見せようと思って」
「ああ、そう。どうだったの?」
慧は鞄からテストを出した。今日は数学以外に、英語と社会も返ってきた。三つまとめて母親に手渡す。
英Rも現社も、平均より少し高い程度だった。母親は不満そうな顔でそれを見ていたが、数学の成績を見た途端、眉を上げた。
「100点……」
母親は答案と、切実そうな表情の慧を、交互に見た。
「ど、どう?」
慧は感想を促した。母親は他の2教科のテストとも見比べて、無表情に言った。
「すごいけど……でも、女の子なんだし、理系科目より文系科目ができた方が良いんじゃない?」
「わ、私!」
慧が声を荒げる。そんな娘を見るのは初めてだったので、母親は面食らった。慧は深呼吸してから、落ち着いて話した。
「私、数学が好きなの。女の子らしくないかもしれないけど、それでも好きだし、数学やってるときは楽しいの。だから、できたときは、ちゃんと褒めてほしい」
論理が繋がっていない、と慧は感じた。だがそんなことはどうでもよかった。口に出して初めて、これが自分の素直な気持ちなのだと理解できた。
「褒めてって……」
今日の娘は、本当にどうしてしまったのか。いつもと全く様子が違う。どう褒めたらよいのかもわからず、母親はうろたえた。
悩んだ末に、慧の頭に手を載せた。
「……よくできたわね」
さらさらした髪の上から、頭を撫でてやる。小さい頃は、よくこうやって褒めていたような気がした。
「うん、ありがとう」
慧は目頭が熱くなるのを感じた。なんてことはない、私はお母さんに褒められたかっただけなのだ。
「なにも泣くことないじゃない」
「な、泣いて……」なんかない、と言いかけて、今だけは素直になろうと思った。「……だって、嬉しいから」
母親はなおも困ったような表情で慧の頭を撫でていたが、やがてぽんぽんと頭を叩いた。
「数学が好きなのはわかったから、他の勉強もちゃんとしなさいよ」
「うん」
「それじゃ、ご飯にするから、着替えてきなさい」
「うん、わかった」
涙を拭って、部屋を出る。足取りは軽かった。重い重い肩の荷が、ようやく下ろせたから。
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