第15話 429

 四月二十九日は日本の祝日であり、大型連休の初日とされる場合が多い。

 429は4+2+9=15なので、3の倍数であり、素数ではない。

 萌葱高校の最寄り駅は、祝日のためかいつもより人が多かった。みぞれと津々実が待ち合わせ時間の十分前に着くと、既に慧がいた。

 改札前と券売機の間の、なんとなく浮いた空間にぽつねんと立って、スマホをいじっている。紺のセーラーブレザーを着て、長い黒髪をハーフアップにした美少女は、まるでどこかのお嬢様学校の生徒のようだった。すぐ横で誰かを待っているらしい男子高校生が、ちらちらと慧を見ている。

「や、お待たせ」

 津々実が声をかける。慧は顔を上げて、

「こんにちは」

 と言いながらスマホをポケットにしまった。

「待った?」

「そうでもないわ。五分くらいよ」

 またスマホを出して時計を見る。十二時五十分だ。

「宝崎先輩は?」

「まだ来てないわ。待ち合わせは一時だし、それまでは大人しく待ってましょう」

 伊緒菜が来たのは、一時ちょうどだった。

「ごめんごめん、お待たせ」

 ふわふわのツーサイドアップを揺らしながら、改札を小走りに抜ける。

「全員揃ってるわね。じゃ、早速行きましょうか」

 いま抜けて来た改札を指差して、伊緒菜が歩き出す。みぞれ達もあとに続いた。


 今日は、県立柳高校QK部との練習試合だ。みぞれ達一年生にとっては、初の外部との試合になる。みぞれは少なからず緊張していた。

「本当にあたしも付いてきてよかったんですか?」四人並んで座席に座ると、津々実が聞いた。「あたし、試合できませんけど……」

 津々実は入部した日以来、一度もQK部に顔を出していなかった。当然、練習は全くしていない。

「大丈夫よ。どうせ向こうは三人しかいないから、試合は私達だけでやるわ」

「ならいいですけど」

 伊緒菜はちょっと中空を見上げてから、

「でも、そうね。せっかく来てもらうのにただ見てるだけってのも退屈でしょうから、倉藤さんには札譜を書いてもらうわ」

「ふだふ?」

 頭の中で、漢字に変換できなかった。ぽかんとしていると、伊緒菜が鞄からノートを取り出した。

「将棋とかの棋譜って、わかる?」

「試合がどう進んだのかを記録したやつですよね」

「そう。それのQK版が、札譜。つまり、誰が何のカードを出したのかを記録したものね。こんなやつよ」

 伊緒菜がノートを開いて見せた。そこには、きっちりとした文字でこんな記号列が書かれていた。

H(A2267889TQN)

I(AA234568QQK)

H:D(5)8629

I:D(9)86Q3;P(5TQK)

H:QN;N=K

I:KQ=2^5×4A

H:D(9)Pass

……

「なんですか、これ?」

 津々実が怪訝そうな顔をする。みぞれと慧も、初めて見るものだった。

「去年の全国大会で行われた、とある試合の札譜よ。内容はともかく、倉藤さんには書き方を説明するわ。剣持さんと古井丸さんも、覚えてね」

 ノートの札譜を指差しながら、伊緒菜は説明を始めた。

「まず、このHとIは、プレイヤーの名前よ。Iが私ね」

「宝崎……じゃなくて、伊緒菜のIですか」

 津々実が確認する。

「そうそう。んで、『8692』とか『86Q3』とかが、出したカード。Qは当然、クイーンね」

「TとNはなんですか?」

「Tは10、Nはジョーカーよ」

 10はTenだからTか、とみぞれは理解した。

「ジョーカーを出したときは、後ろにセミコロンを付けて、ジョーカーを何として使ったのかを書く。この場合、N=Kとあるから、ジョーカーを13として使ったことがわかるわけね」

 津々実が小さく手を挙げて質問する。

「なんでわざわざ、TとかNにするんですか? 10とかジョーカーって書けばいいんじゃ?」

「出した枚数と文字数を一致させるためよ。カード一枚に記号一文字を対応させておけば、見ただけで何枚出しだったのかわかるでしょ?」

「あ、なるほど」

「それで、合成数出しをしたときは、先に合成数を書いて、『=』のうしろに素因数を書く。かけ算したときは『×』で結んで、指数を使ったときは『^』を使って書く。こんな風に」

 伊緒菜は六行目を指差した。「KQ=2^5×4A」は、2の5乗と4を捨ててKQ1312を出したという意味だ。

「あと、Dはドローの意味。山札から一枚引いたときは『D』を書いて、何を引いたのかもわかるなら、それを括弧の中に書く。Pはペナルティね。これも、何を引いたのかわかる場合は、括弧の中に書く。そして、パスは『Pass』と書いて、ゲームが終わったら、最後の人に『Win』と書く。こんな風に」

 伊緒菜は一番下の行を指差した。

I:A729

H:A279,Win

「先輩、負けたんですね」

「そりゃ、まあ、負けるときもあるわよ」

 バツが悪そうに言った。

「あと最初の二行だけど、これは最初の持ち札を表しているわ。試合中は相手の手札はわからないけど、あとから教えてもらったり、カードの出し方を分析したりすれば、相手の初期手札がわかることもあるから、わかる場合はこうして書くの」

 このように書き残しておけば、あとからどんな試合だったのか、知ることができる。実際、みぞれはいま伊緒菜のノートを見て、すごい試合だなぁ、と思っていた。

 何しろ、相手の“Hさん”は一手目から四枚出しをしている。伊緒菜もそれに対抗しているが、合成数を出してしまいペナルティを受けている。

 最後もすごい。伊緒菜はおそらく逆転を狙って革命を起こしたのだろうが、“Hさん”がそれにカウンターして勝利している。まるで、伊緒菜の革命を読んでいたかのようだ。あるいは、革命を誘ったのだろうか。

「札譜を書いておけば」伊緒菜がノートのページを繰りながら語る。「あとから試合を客観的に分析することができる。勝った試合ならどこが良かったのか、負けた試合ならどうすれば勝てたのか、あとから色々考えることで、自分の戦略の幅を広げられる。強くなるためには、絶対必要なことよ」

 伊緒菜のノートには、何試合分もの札譜と、それを分析したらしいメモが書かれていた。みぞれ達のノートにはまだ、覚えるべき素数がいくつか書いてあるだけだ。しかしいずれ、伊緒菜のノートのように、考察で埋め尽くされていくのだろう。全国で優勝するために。


 一時間ほど電車に揺られ、みぞれ達は目的の駅に着いた。

 県立柳高校は、駅から徒歩十分ほどのところにあった。広い川の横に建つ穏やかな空気の学校だった。河川敷を、同じユニフォームを着た高校生の集団が走っている。

 通っていない学校に入るのは高校受験のとき以来で、みぞれは少しドキドキした。伊緒菜は慣れた様子で、正門に面した校舎に入った。「QK部の練習試合で来たのですが」と受付の事務員に声をかける。

 事務員とのやり取りを終えると、「はいこれ、首から下げといて」と言って、「入校許可」と書かれたネームプレートをみぞれ達に渡した。そして校舎を出る。

「図書館棟に行くわ。そこの『図書準備室』がQK部の部室だから」

 ここでも、QK部にはまともな部室が与えられていないようだ。QK部というのは隅に追いやられる傾向にあるらしい。

 図書館棟の前に、一人の女子生徒が立っていた。彼女は伊緒菜の姿を見つけると、大きく手を振った。

「萌葱高校のみんな、ようこそ柳高校へ!」

 ショートカットの明るい女子だった。ブレザーは着ておらず、ブラウスの前で緑色のネクタイが揺れている。

「お久しぶりです、吉井さん」

 伊緒菜がお辞儀した。

「こっちこそ、久しぶり。そっちの三人が、今年の一年生?」

「はい」

 女子生徒はみぞれ達を品定めするように見たあと、にかっと笑った。

「あたしはここの部長の吉井よしいふみ。よろしく」

「よ、よろしくお願いします」

 みぞれ達も伊緒菜にならってお辞儀した。

「それじゃ、中へどうぞ。まだ冷房がかかってなくて少し暑いけど、我慢してな」

 史に続いて、みぞれ達四人も建物に入った。

 図書館棟というから数階建ての図書館なのかと思ったら、そうではなかった。建物は二階建てだが、実際に図書室があるのは二階だけで、一階には小さな購買や自習室、そして「図書準備室」があるだけだった。

 図書準備室は広く、埃っぽかった。左右の壁際には、古い本が詰まった本棚がある。それらはすべて埃を被っており、長い間読まれた形跡がなかった。床の段ボール箱にも、古い本が詰まっているようだ。

 本棚の一部に、埃を被っていない箇所があった。そこには、「QK部」と書かれたバインダーが収まっている。おそらく、歴代の考察ノートだろう。

 その考察ノートの一冊を、熱心に読んでいる二人組がいた。部屋の中央に置かれたテーブルに、ノートを広げている。

 二人は史の来室に気付くと、ノートを閉じて顔を上げた。

「史先輩、お帰りなさい」

 そっくりな声で、二人同時に言った。

「ただいま。二人とも、立って立って」

 史がジェスチャーで立つように促す。二人が立つと、史はみぞれ達を振り返った。

「この二人が、今年入部した一年生の二人。遠海とおみ美沙みさちゃんと遠海とおみ美衣みいちゃん」

 同じ苗字だ。しかも立ち上がった二人は、顔も背格好もよく似ている。二人は声を揃えて言った。

「初めまして」

「私は遠海美衣の双子の姉、遠海美沙!」

「私は遠海美沙の双子の妹、遠海美衣!」

「よろしく!」

 二人は歯を見せて笑顔を作った。瓜二つな表情だ。声も雰囲気もよく似ている。違うのは髪型くらいだ。姉の方は向かって右側にサイドテールを作り、妹の方は向かって左側にサイドテールを作っている。そのくらいしか、二人を判別できる部分がなかった。髪型を揃えたら、区別付かなくなるだろう。

「初めまして。私が、萌葱高校QK部部長の宝崎伊緒菜よ。部長だけど、吉井さんと違って二年生よ」

 みぞれは、伊緒菜の「私『が』」という自己紹介に違和感を覚えた。どういう意味だろう。

「そしてこっちが、一年の古井丸みぞれさんと、剣持慧さんと、倉藤津々実さん」

 伊緒菜に紹介されて、三人は順にお辞儀した。遠海姉妹にならって、名前だけ名乗る。

「今日は来てくれてありがとう」と史。「まずは、お茶でも飲む?」

 よく見れば、窓際のテーブルの上に電気ポットがある。いいなぁ、とみぞれは思った。

「あ、それならあたし、お菓子持ってきてます」

 津々実が鞄の中から、ラッピングされた菓子を取り出した。一口サイズのチョコで、それぞれにイチゴやブルーベリーなどのドライフルーツが入っている。

「良かったら皆さんでどうぞ」

「マジか、ありがとう。え、これ手作り?」

「はい」

「つーちゃん、お菓子作りとか料理作りとか、得意なんですよ!」

 みぞれはニコニコしながら言った。

 即席のお茶会が開かれた。一時間以上電車に乗って、駅からも少し歩いたので、小休憩が欲しいところだった。ちょうどよかった。

 紅茶を飲んで、チョコをひとつ食べる。その間に、双子がトランプとスマホ、それからタイマーを準備していた。

「対戦形式はどうする?」

 キウイの入ったチョコを食べながら、史が聞く。

「個人戦形式でお願いします」

 伊緒菜が答えると、史が意味深に笑った。

「オーケー。ま、そうだよね」

「あの」津々実が小さく手を挙げた。「どういう意味ですか?」

 史と伊緒菜は顔を見合わせた。

「ま、敵に塩を送るつもりで、解説するか。お菓子ももらったし」史はイチゴ入りのチョコを食べた。「今日は『練習』試合だからね。あたしらにとっての『本番』は、地区予選と全国大会なわけだ。なら、今日の目的は何か?」

「……練習じゃないんですか?」

「違う。目的は、相手の戦力の見極めだ。団体戦では一回しか試合しないけど、個人戦なら最大三回試合する。三回やれば、相手の癖が少しは見える。そしたら地区予選までに、お互い相手の対策が練れるってわけさ」

 ある意味で、大会は既に始まっているということだ。こっちの手の内を見せる代わりに、相手の手の内も探る。それが今日の目的だ。

「……って、団体戦?」と津々実がまた手を挙げる。「QKには、団体戦もあるんですか?」

「…………」

 史が伊緒菜を見た。伊緒菜は、「あっ」と声を上げた。

「そっか、言ってなかったかも」

「おいおい」

 史が呆れる。

「仕方ない、それも解説してやろう。その通り、大会には個人戦と団体戦の二つの形式がある。個人戦は、一対一での試合だ。これは三本勝負で行われ、二本先取した方の勝ち。次の試合へ駒を進められる」

 三本勝負を行うのは、QKには運の要素もあるからだ。一本勝負では、運で勝負がついてしまうこともある。

「団体戦は、三人一組のチーム戦だ。先鋒・中堅・大将同士がそれぞれ戦い、先に二人倒したチームの勝利。ただし個人戦と違って、各試合は一本ずつしか行わない」

「どういうことですか?」

「えーとだな、つまり、先鋒対先鋒で一本勝負を行い、中堅対中堅で一本勝負を行う。ここまでで勝負がつくこともあれば、つかずに大将戦にもつれ込むこともある。言ってみれば、チーム全体で三本勝負を行うわけだな」

 史は伊緒菜を見て、

「他に説明してないこと、ないよな?」

「どうでしょう、持ち時間のことは話しましたけど……あ、シンキングタイムのことは話してないかも」

「シンキングタイム?」

「そう。大会では、カードが配られてから一分間のシンキングタイムがあるの。配っていきなり開始だと、先手があまりに不利だからね。この間は持ち時間も減らないから、手札の組み合わせをじっくり考えられるってわけ」

 先手は出す枚数を決められるため、後手より若干有利だ。それでもシンキングタイムがないと、差し引きマイナスになってしまうのだ。

「そんなところかな」史はカップを空にすると、言った。「んじゃ、机の上片付けようか。あまり時間もないしね」

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