第9話 2×3=6
図書室は落ち着く。
萌葱高校の図書室は、たまにカウンターでお喋りしている生徒もいるが、基本的には静かだった。運動部の掛け声や吹奏楽部の練習の音を聞きながら、読書に没頭することができた。
慧は既に、図書室の常連になっていた。蔵書はもちろん市立の図書館よりずっと少ないが、代わりに高校生向けの本が厳選されている。特に歴史や科学など、勉強関係の本はその傾向が強かった。
借りていたファンタジー小説を返却し、本棚のある方へ向かう。入口に一番近い本棚に、進路関係の本が置いてある。高校の図書室ならではだ。
大学案内や職業案内が並ぶその棚に、『女子高生のための理系案内』という本を見つけた。
萌葱高校は女子高だ。そして二年からは、生徒たちは四つのコースに分かれる。文理総合、情報、文系、そして理系だ。しかし慧の中では、「女子」と「理系」が結びついていなかった。むしろ、意図的に断っていた。理系は、男子のやることだからだ。少なくとも、そう教えられてきた。
でも、本当に?
昼休みに声をかけて来た二人組を思い出す。二人とも、当たり前のように慧は数学が得意だと信じていた。数学の得意な女子がいるということを、疑っていなかった。
慧自身も、自分は数学が得意だと思っていた。テストの点は常に平均点だが、わざと間違った答えを書いているのだから当然だ。本当は全部、正解がわかっている。その気になれば、いつだって満点が取れるだろう。
本棚の間を歩く。周りに人の目がないことを確認して、数学の本棚の前で立ち止まった。
『数学ガール』『フェルマーの最終定理』『いかにして問題をとくか』『素数の音楽』……。
高校生向けのものから少し難しいものまで、色々な本がある。その中から一冊取って、パラパラとめくる。
小説風に書かれた本だった。高校生の男の子と女の子が、延々と数学の話をしている。明るい女の子が、少し愛想の悪い男の子に、数学の疑問をぶつける。男の子はすぐに答える。それを受けて、女の子は別の質問をする。今度は男の子も、すぐには答えられない。二人で考えて、一定の解決を見る。そこにクールな女の子がやって来て、女の子の質問に別の角度から切り込む。するとたちどころにその問題は深みを増し、三人は奥深い数学の世界に入っていく。
変わった物語だ。男の子より女の子の方が、数学が得意だなんて。それに、三人で数学をやるなんて。
普通の小説を探そうと、本を棚に戻したとき、カウンターから話し声が聞こえて来た。司書の先生を探しているらしい。カウンターの図書委員に、司書室にいると教えられ、歩いていく足音がした。
どこかで聞いた声だと思って、本棚の横から顔を出して確認する。そして、まずい、と思った。昼休みの二人組だった。
眼鏡の先輩は一直線に司書室を目指していたが、ちっちゃい子は物珍しそうにきょろきょろしていた。顔をひっこめようとしたとき、その少女と目が合ってしまった。
「あ、剣持さん!」
声を掛けられ慌てて隠れるが、既に遅い。ちっちゃい古井丸みぞれが、ひょこっと本棚の陰から現れた。
「なにか用?」
「えっと、何してたのかなって思って……」
「本を探してただけよ。図書室なんだから」
「そ、そうだよね」
みぞれは本棚を見上げた。
「ここって、科学とか数学とかのコーナー? やっぱり、こういうの好きなの?」
「そんなわけないでしょ。たまたまいただけよ」
みぞれの脇をすり抜けて、歩き去ろうとする。その腕を、みぞれが掴んだ。
「ねえ、やっぱりQKをやる気は、ないの?」
「ないわよ」
「こ、こういうゲームなんだけど」
と言って、手に持っていた紙を、慧に見せてきた。なんだか見たことあるなと思ったら、廊下に貼ってあったポスターと同じものだ。トランプのクイーンとキングのイラストが大きく描かれたB5サイズのポスターだ。イラストの横に手書きで、「素数を使ったトランプゲームQKをやる部活です!」と書いてある。
「それだけじゃ、どんなゲームなのかわからないんだけど」
「あ、そ、そっか。ええと……」
随分勧誘の下手な子だな、と慧は呆れた。それに、知らない人と話すのが苦手なようだ。慧に話しかけるのも、勇気を絞っているのかもしれない。なんだって、そこまでして勧誘しようとしているのか。
みぞれの手を振りほどいて立ち去ろうとすると、
「あら、剣持さん」
また声を掛けられた。目の前に眼鏡の先輩が立っていた。その胸には、紙の束が抱えられている。
「宝崎先輩ぃ……」
みぞれがすがるような声を出した。
「この時間に図書室にいるということは、あなたは部活に入っておらず、放課後一緒に遊ぶ友達もいない」
「友達くらいいます」
「この際、QK部に入らない?」
話を聞かずに、抱えていた紙の束をこちらに突き出した。みぞれが持っていたものと同じポスターだった。
「入りません」
「どうして?」
「どうしてもです」
伊緒菜は唇をへの字に曲げた。再び、みぞれが口を開く。
「あ、あの、試しに一回、やってみない? 一度やったら、もしかしたら面白いって思うかもしれないよ」
しつこい人達だな、とみぞれを睨む。しかし、このまま押し問答を続けても、埒が明きそうにない。
「じゃあ、一回だけよ」
「本当に!?」
「一回だけだからね。それで面白くなかったら、もう私には構わないでよ」
「それで良いわ。早速部室に行きましょうか」
伊緒菜が歩き出す。慧とみぞれも続いて図書室の出口へ向かった。
第二校舎はL字型をしており、図書室は第二校舎の三階の端にある。QK部の二人は、部活勧誘のポスターを図書室に置いてもらうために来ていたらしい。もっとも、司書の先生に断られてしまったようだが。
伊緒菜とみぞれに連れられて、慧はL字型の廊下を進んだ。廊下の突き当りで曲がり、さらに進む。図書館と反対の端まで来ると、伊緒菜は空き教室の扉を開けて、中に入った。
「ようこそ、QK部の部室へ」
「部室棟じゃないんですね」
「人数が少ないと入れないのよ」
教室の真ん中に、三脚の机が置いてあった。慧とみぞれは向き合うように座り、伊緒菜が教壇に立つ。
「ではまずは、QKのルールを簡単に説明するわね」
QKのルールは、うっすらと聞いていた通りであった。トランプで素数を作り、交互により強い素数を出していく。最初に手札を使い切った人の勝ち。同時に何枚出しても良いが、前の人と同じ枚数でないといけない。間違えるとペナルティを受ける。57で場を流せる。ジョーカーはワイルドカードとして使える。
「本当はもうちょっと複雑なルールなんだけど、いきなり全部説明しても混乱するだろうから、ここまでにするわね」
と言って、伊緒菜は説明を終えた。
「何か質問はある?」
質問はない。けど意見はあった。不満と言うべきか。慧は率直に答えた。
「これ、素数である必要、ありますか?」
「どういう意味かしら?」
「だってこのルール、素数でなくても成立しますよね。例えば『偶数しか出せない』とか、『フィボナッチ数しか出せない』とかでも良いわけです。わざわざ素数である必要がありません」
みぞれが目をしばたたき、伊緒菜を見る。伊緒菜はにやりと笑っていた。
「正しい質問ね。たしかに素数である必要はないわ」
「えっ」
みぞれが驚く。慧は無表情で伊緒菜を見つめた。
「そんな中途半端なルールで、私が興味を持つと思いましたか?」
「それは、あなたが数学が好きだから? 数学好きとして、意味もなく素数を用いているのが、気に入らない?」
「…………」
慧はそっぽを向いた。
「でも安心して。QKには、ちゃんと素数である必然性があるわ。それが、『合成数出し』よ」
「合成数出し?」
慧とみぞれが同時に言った。
「古井丸さんにも、まだ話してなかったわね。二人とも、合成数はわかる?」
慧は首を縦に振り、みぞれは横に振った。
「合成数というのは、1でも素数でもない数のことよ。そして合成数は、必ず二つ以上の素数の積で表せる。例えば6は合成数だけど、これは2×3と表せる」
「ええと、つまり素因数分解できる数ってことですか?」
「その通り」
伊緒菜は頷くと、教壇からみぞれ達のいる机に移動してきた。席に座って、トランプを取り出す。
「で、合成数出しのやり方だけど、例えば手札に2と3と6があるとするでしょ? そしたら、2と3を捨てて、6を出すことができるの。つまり、素因数を捨てて、合成数を場に出すことができるのよ」
伊緒菜は実際に、トランプから「2」「3」「6」を取り出し、並べて見せた。「2」「3」を自分の目の前に置いて、「6」を机の真ん中に置く。これで「2×3=6」を表したことになるらしい。
「そしてこれは、一枚出しの扱いになる。だから、一枚出しにも関わらず、一気に三枚も消費できるのよ」
「でも、手札に素因数と合成数の、両方がないといけないんですよね」
「そうよ。だから出せる機会はそう多くはないんだけど、うまく使えれば一発逆転も可能な方法なの」
伊緒菜はさらにトランプを漁り、「A」「2」「4」「6」を取り出した。
「それから、素因数分解に指数を含むこともできる。例えば2の4乗は16だから……」
自分の目の前に「2」を置き、その肩に「4」を置いた。そして机の真ん中に「A」「6」を置く。
「こうやって、2の4乗=16として出すこともできるの。もちろん、これにさらに素数をかけてもいいわ。2の4乗×3=48とかね」
慧もみぞれも、伊緒菜が出したカードを見つめ、頭の中でルールを再確認した。合成数とその素因数が手札にあれば、素因数を捨てて合成数が出せる。
「このルールですと」と慧。「さっき言っていた、二枚出し最強素数のQKも、必ずしも最強ではないわけですね」
「ええ、その通りよ」
「どういうことですか?」
みぞれだけが理解できておらず、二人の顔を交互に見た。伊緒菜がカードを何枚か取り出して、説明する。
「1213よりも大きな数には、例えば1312がある。これは素数じゃないけど、合成数出しで出すことができる。こんな風にね」
目の前に「2」「5」「4」「A」を置き、机の真ん中に「K」「Q」を置く。
「ええと……?」
「2の5乗×41=1312なのよ。だから、2、5、4、Aを捨てて、KQを二枚出しできるってこと」
「そ、そうなんですか? 2の5乗って、ええっと……」
「32」
慧が即答した。
「計算した……わけじゃないよね?」
みぞれの質問に、慧は黙って頷いた。慧はもはや、自分が数学に詳しいことを、隠そうともしていなかった。
みぞれが小さく手を挙げた。
「これ、2の5乗じゃないとダメなんですか? 32×41を捨てて、1312を出すことは……」
「それはダメよ。32は素数じゃないもの」
「あ、そっか」
合成数出しで捨てられるのは素数だけだ。素数以外の数を捨ててしまった場合は、ペナルティを受ける。かけ算を間違えたときも同様だ、と伊緒菜は説明した。
「それと、0と1だけは指数にしてはいけないルールよ。つまり、3の0乗=1とか、3の1乗=3とかって出し方は不可ってことね」
「3の0乗って1なんですか?」
「3に限らず」と慧。「0以外の実数の0乗は、必ず1になるわ」
「どうして?」
「指数法則を守るためね。例えば、5の3乗と5の4乗をかけたら、何の何乗になる?」
急に言われてみぞれは戸惑った。5の3乗は5を3回かける計算で、5の4乗は5を4回かける計算だ。二つをかけると、5を7回かけることになる。
「5の7乗?」
「そう。そしたら、5の3乗と5の0乗をかけたら、何の何乗になる?」
5を3回かけたあと、5を0回かけるのだから……。
「ええと、5の3乗?」
慧は頷いた。
「5の3乗に5の0乗をかけても、値は5の3乗のままなんだから、5の0乗は『かけても値の変わらない数』ってことになる。そんな数は、1しかないわ」
「な、なるほど……」
しっかり理解できたかどうか自分でもわからなかったが、みぞれはとりあえずそう答えておいた。それからまた小さく手を挙げて聞いた。
「ということは、普通の素数出しでも、合成数出しでも、1は絶対に出せないってことですか?」
「ええ、そうね。1は素数でも合成数でもないからね」
「ふぅん……」みぞれは机の上の「A」に指を載せた。「なんだかちょっと、可哀想ですね。仲間はずれみたいで」
慧は、目を丸くしてみぞれを見た。慧も昔、似たようなことを思ったからだ。
「な、なに?」
慧の視線に気付き、みぞれが戸惑いながら聞く。
「なんでもないわ」
目を反らす。
二人のやり取りを見ながら、伊緒菜は机の上のトランプを回収し、束をシャッフルした。
「QKにはちゃんと素数を使う理由があるって、わかってくれたかしら?」
「……一応、理由はあるみたいですね」
渋々といった体で答えた。
伊緒菜は二人にカードを七枚ずつ配って、言った。
「それじゃ、いよいよやってみましょうか」
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