第一章 穴に落ちて

 おちている。

 私は今、落ちている。


 ………どこへ?


 ………下に向かって───落ちて、いる?


 ………あれ?本当に、私は落ちているの?




 おちていたよね?ずっとずっと長い時間。

 ………あれ?一体どこから落ちてきたんだっけ??



 私……。あれ、私って一体───誰?

 どうしよう?何も、わからなくなってきた。

 私はだぁれ?私はなぁに?ここは………どこ?







「はじめまして。えーっと………あれ?何番目だったかな??」

 声が聞こえた。男の子………かな?

「まぁ、そんなことはどうでもいいよね」

 1人で何かを言っている。どこにいるんだろう??

 真っ暗で何も見えない。

「ねぇ、君はこんなところで何をしているの?」

 きみが、ここで、何をしているのか。

 そんなこと、わからない。


「ねぇ、君の名前は?」

「わから、ない」

 返事をして、初めて自分の声を思い出す。

 こんな声だったんだっけ。

「そっか。じゃあ、なんて呼んでほしい?───って、そんなこと言われても、わからないよね。だから、新しい名前が決まるまで、君の名前は」

 質問をしてきたくせに、答える暇もなく話し続ける声。でも、勝手に名前を決められそうだったから、慌てて質問されたときに空っぽの頭に浮かんだ名前を口にする。

「アリス」

 私の言葉に、声は「え?」っと驚くような声をもらした。なんだか、いけないことをしてしまった気分になって、慌てて謝る。

「あ……、ごめんなさい。でも、どうしてだろう?どうせ呼ばれるなら、アリスって呼んでほしいなって、思ったの」

 自分でもわからないけれど。

 なぜかこの名前が頭に浮かんできた。

「………そう」

 落ち着くようにを開けて相づちをうつ話し相手。

 声しか聞こえないのに、なんとなく、声の主の表情が曇っている気がして、どうしたらいいのかわからなくなる。けれど、そんな気持ちをよそに声は突然明るく調子を変えた。

「それは偶然だね!僕も仮の名前として、アリスはどう?って聞こうと思っていたところなんだ」

 その言葉にさっきの反応や私の言葉への相づちまでにあったはこの偶然のせいだったのかなぁと、ぼんやり考える。


 なんだか、話すのが楽しい。

 姿が見たいけど、一体どこにいるのだろう?

 声は聞こえるのに、姿は見えない。

 姿は見えないけれど、でも、声は聞こえている。だから───もっと話をしたい。

 そして、名前を呼ぼうと思ってハッとする。

「あなたは?」

 突然の問いに、「え?」と少し気のぬけた声が返ってくる。

「あなたのことを、私はなんて呼べばいい?」

 私は仮の名前"アリス"があるけれど、この話し相手の呼び名を私は知らない。

「………お好きなように」

 何も知らないのに、呼び方なんて思いつかない。私が聞きたいのはそういう言葉じゃない。

「じゃあ、あなたの名前を教えてよ」

「え?」

「名前は?」

 食い下がる私。でも、返事はない。

 どれだけの時間が経ったのか。

 とても長かったような気もするし、一瞬だったような気もする、そんな時間。

「僕の、名前は───」

 やっと答えが返ってくる、そう思ったのに。

 ふいに響いた鐘の音にその言葉は遮られる。

 鐘の音が止み、鐘の音に遮られた声がもう一度言葉を紡ぐ。

「………ごめんね、アリス。僕はそろそろいかなくちゃ」

 けれど、それは、の欲しかった言葉ではない。

「え?」

 私の声が聞こえてないかのように、その声は私のことを無視して言葉を紡ぐ。

「あ、見て?あそこに看板があるよ。見てきたらどうかな?それじゃ、僕はもういくよ。さようなら、アリス」

「あっ………」

 その声に呼応するように突然見えた看板。

 そして足音が聞こえてきた。その足音は徐々に小さくなってすぐに聞こえなくなる。

 私の問いに答えは帰ってこなかったけれど、きっとすでに私の近くにはいないのだろう。

 さっき聞こえた足音はさっきの声の主で、私の問いに答えることなくこの場を去ったのだろう。


 ゆっくりと看板に近づいてみる。

 他には何も見えないし、他にやることもないから。




 看板には、文字が描かれていた。


 welcome to wonderland


 せっかく、正しく書かれているのに、誰が書いたのか真っ赤な文字で一部が修正されている。


 welcame tu wandarland


 よくみると、黄色でも修正が入っている。

 黄色の修正で改めて読むと………


 wellcamu to wondealand


 ………結局、スペルがおかしくなっているだけ?

 意味があるかもしれないと思っていたのに、その期待は裏切られ脆く崩れ去る。


 看板の他に、何か見えるものはないかと辺りを見渡すと、もうひとつ、看板があった。

(白い………うさぎ?)


 看板の前には、白いうさぎが立っている。

 服を着ているけれど、赤や黄色で汚れている。そして、手には白い


「ねぇ、何をしているの?」

 その声にうさぎはキョロキョロと私の姿を探す。

 けれど、私に目を止めることはなかった。

「ねぇ、私はここにいるよ?見えない?」

 その言葉で私の位置がわかったのか、今度はしっかりと私のいる方を見ている。

 けれど、私を見ていない。

 ………私の姿が目に映っていない。

「もしかして、新しい人?」

 うさぎは真っ白だった。

 所々赤や黄色、黒なんかで汚れているけれど。

「あなたは、"白うさぎ"?」

「………いいえ、でも、そうですね。うさぎなのでしょうね」

 私の問いに答えたうさぎは、下を向いてしまって表情はわからない。けれど、しょんぼりしているような、そんな気がした。

 けれど、そんな時間は一瞬で、パッと顔をあげたうさぎは、ケロッとしている。

「ところで、あなたは、どうやってお話をしているのです?」

「え?」

「では、どうやってここまで来ましたか?」

「………」

 突然の質問攻めに言葉につまったわけではない。

 答えられなかったのだ。

 話すのも移動もできていた。

 けれど、たしかに、問われてみれば答えを持っていない。

「………貴方は誰ですか?」

「私は………アリス」

「!………では、貴方は何ですか?」

 私は何か。また、答えられない。私は何だろう。

 底無し沼の深みにはまってしまったように、どろどろと鈍い思考。

 けれど、そんなシンキングタイムは唐突に終わりを迎えた。


「………もう、結構です。意地悪が過ぎましたね」


「ようこそ、我があるじ箱庭不思議の国『wAnderLand』ワンダーランドへ。私はクロウと申します。貴方を歓迎しましょう」

 クロウの言葉に対応するように、wAnderLandワンダーランドという真っ赤な文字が真っ暗な空中に浮かび上がった。

「不思議の国?」

「はい。不思議の国です。………でも、ここは不思議の国の中ではありません。ですから、入り口までご案内致します」

「さっきのということは、移動はできるのですよね?ついてきてください」

 クロウはそういって、ひとつ目の看板の方に歩き出す。そして、看板と看板の中間辺りから向きを45度変えてまた進む。

 そうして、どれだけたったのか。

 赤い【∃N⊥ЕЯ】の文字が浮いている。

「着きました。ここにいてください。───すぐに終わります」

 クロウが言い終わった直後、赤い文字が白くなり、辺りが少しずつ白に包まれていく。

「あ、ありがとう!」

 その白は光のような白さで、クロウの姿が見えなくなっていくのに気づいて慌ててお礼をいった。

 なんとなく、お別れな気がしたから。

 そして、ホワイトアウトしていく世界になんとなく、既視感を覚えながら、ひかりに身を委ねた………。

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