エピローグ

紫色の蝶

187

 ――1583年(天正11年)


 薩摩国の農村で、元気な赤ちゃんの産声が響いた。


弥吉やきち、生まれたぞ!の子じゃ!」


「……の子」


「なんばしとっと!母ちゃんとこに早ういかんか!」


 隣に住む彦太ひこたに背中を押され、弥吉は茅葺き屋根の粗末な家の戸を開く。


 弥吉は家の中に飛び込み、布団の上で横たわる妻に視線を向けた。


「美濃!でかした!の子じゃ!」


「……弥吉さん」


 私は生まれたばかりの赤ちゃんを見つめ、光秀(弥吉)に視線を向けた。光秀の瞳には涙が浮かび、私の頬にも一筋の涙が溢れ落ちた。


 ◇◇


 ――私達はあの日……

 落ち武者狩りから逃れ、命からがら落ち延びた。竹槍に刺され傷を負った光秀は、何度も高熱を出し魘されたが、幸いにも内臓損傷は免れ、奇跡的に一命を取り留めた。


 落ち延びるために光秀が手配していた漁船を乗り継ぎ、行き着いた先がこの薩摩国だった。


 光秀は農民になりすまし、名を弥吉と変え、私は美濃と名乗り、素性を隠したまま小さな集落に辿り着いた。そして親切な彦太夫婦の世話になり、慣れない農作業に勤しんだ。


 彦太の善意で、古い茅葺き屋根の家を借り終の住処とする。


 ――穏やかな時が流れ、私達に更なる奇跡が起きた。赤ちゃんを授かったのだ。


 初めての妊娠、悪阻つわりに苦しみ、やがて迎えた初めての出産。未来からタイムスリップした私が、この時代に子供を生むことは、歴史を塗り変えてしまうことになる。


 時空の歪みにより、子供が無事に生まれ、無事に育つ確証もない。もしかしたら、自分の命をも落とすことになるかもしれない。


 ――たとえ、神から天罰が下ったとしても……私に、迷いはなかった。


 この子は、大切な愛の証。

 小さな命を、自らの手で奪うことは出来ない。


 祈る思いで過ごし、無事に出産の日を迎えた。赤ちゃんを取り上げてくれたのは、医師でも助産婦でもない。6人の子を生んだ彦太の妻だった。

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