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 元気な産声を聞き、私は母になれたのだと安堵した。


 ――もうこの時代から、現世に戻ることはないだろう。


 たとえ、その時が来ても……。


 この時代で、花の如く散るが定め。


 ――もう戻れない。


 私はこの戦国の世で、明智光秀の子を生んだのだから。


「元気な子じゃ。美濃によう似ておる」


「弥吉さん、この子の名ですが……。私が付けても構いませんか?」


「ああ構わないよ。美濃がよい名を付けてくれ」


「はい。この子が立派なの子に育つように、くれないと名付けとうございます」


「紅とな?」


「はい。この子の名は、斎藤紅さいとうくれないでございます」


 光秀は逞しい腕に愛しい我が子を抱き、優しい眼差しで見つめ、生まれたばかりの我が子にこう話し掛けた。


「紅よ。そなたの父と母がもしも捕らわれ死んだとて、そなたは強く生きるのだぞ。そなたは誇り高き武士の子。明智光秀と帰蝶の子なり」


 ――紗紅……

 あなたも幸せに暮らしていますか?


 織田信長殿と落ち延び……

 この日本のどこかで、幸せに暮らしていますか?


 信忠もきっと……

 日本のどこかで、幸せに暮らしているはず……。


 私はこの小さな集落で、武家の誇りを胸に、1人の母として生きていきます。


 この戦国の世にも……

 やがて天下泰平の世が訪れでしょう。



 ――出産から1ヶ月、紅は乳をよく飲みよく眠り、すくすくと育った。


 この時代にタイムスリップし、未来から来た私の時は止まっていたが、子供を生んだことで、時空の針が少しずつ動き出した。


 この時代に生きることを、やっと神に認められたようだ。


 ――いずれはこの地で……

 光秀とともに年を老い、生涯を終えることでしょう。


 それならば……

 私が無事であったということを、幸せであったということを、せめて紗紅に伝えたい。


 私は危険を承知で、豊臣家に仕えているであろう多恵にふみをしたためた。私達が落ち延びたことを豊臣秀吉に悟られないように隠語を使用し、無事であることと感謝の気持ちを伝えた。


 ――紗紅……

 いつかまた……逢えるといいね。


 ――紗紅……

 幸せになりなさい。


 家の中に差し込む明るい太陽の光も、この澄んだ青空も……

 

 きっと平和な未来へと続いていることでしょう。

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