紗紅side

184

 その手紙は美しい文字で綴られていた。


【多恵様

 おかわり御座いませぬか。

 私は2人で穏やかに暮らしておるゆえ、心配はいりませぬ。

 多恵にはたいそう世話になり、その礼も言えぬまま出立し、申し訳なく思っています。

 多恵がいつも側にいてくれ、私はとても心強かった。多恵は私にとって、姉であり母のような存在でした。

 深く感謝しております。

 本当にありがとうございました。


 赤い牡丹の花も黒い蝶と仲良く戯れておいででしょう。

 多恵もどうか健やかにお過ごし下さい。

 遠い地より、多恵のご多幸を願っております。   美濃】


 胸に熱いものが込み上げ……

 涙が溢れる。


 美濃は……

 死んでいなかった……。


 明智光秀は……

 落ち武者狩りで自害してはいなかった。


 2人は再会し……落ち延び……

 ともに暮らしていたんだ……。


「この手紙は本には掲載せず、世間に公表していないのですが、実はもう一通、美濃という女性が書いたと思われる不思議なふみがあるのです」


「……もう一通?」


「多恵の手記によると、先ほどのふみの中に紛れていたそうですが、これも豊臣の目に触れた時のことを考え、隠し言葉で書かれているようです」


 橋本さんはもう一通の手紙を私に差し出した。表書きには『黒い蝶よ』と書かれていた。


【――名もなき黒い蝶よ。

 この広き世界で、美しい羽を広げ自由に飛び回っているのでしょうか。


 ――名もなき黒い蝶よ。

 色鮮やかな紅き牡丹の花びらと、戯れているのでしょうか。


 ――もしも、黒い蝶がこの広い空を飛び越え、平和な世に戻れたなら、この世に残した紫色の蝶が不憫だと、悲しまないで下さい。


 紫色の蝶は、大きな蝶と小さな蝶に囲まれ、野山を自由に飛び回っていることでしょう。


 ――名もなき黒い蝶よ。

 小さな蝶は、やがてあなたのように強く逞しい蝶へと成長することでしょう。


 ――名もなき黒い蝶よ。


 愛しき……私の蝶よ。     

              美濃】


 ――これは……。

 あたしに宛てた手紙……?


 黒い蝶はあたし。

 赤い牡丹は織田信長。

 紫色の蝶は美濃。

 大きな蝶は明智光秀。

 小さな蝶は……。


 美濃の……子供……!?


 あたしは形振り構わず、その手紙を胸に抱き声を上げて泣いた。


 美濃は現世に戻れなかった。

 いや、自分の意思で戻らなかったのかもしれない……。


 美濃は……

 幸せだったんだね。


 幸せな生涯を過ごせたんだよね。



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