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 明智光秀は事前に本能寺の造りを調べていたのか、迫り来る炎の中で掛け軸の後ろに隠されていた扉を開けた。その扉の向こうには、地下に続く通路があった。


 紅は蘭丸に駆け寄る。


「上様、蘭丸も連れて行きましょう」


 明智光秀は首を左右に振る。


「紅殿、森蘭丸殿はすでに息絶えております。上様、天下人織田信長ともあろうお方が、ただ1人の大切な人も救えぬのですか。紅殿のお命を助けたいのなら、早くお逃げ下さい!」


「……なにを小癪な」


 明智光秀はわしを見据え、最後にこう言い放った。


「上様には、もう2度とお目に掛かることはないでしょう。『どうかお命を大切に、ご自愛下さい』これが、於濃の方様より、上様への別れの言葉じゃ。

 これより於濃の方様は名を変え、明智光秀の妻とすることをお許し下さい」


 帰蝶が明智光秀の妻に……。

 わしと紅の命乞いをしたのは、帰蝶なのか……?


 紅の白馬を盗み、安土城を抜け出した武将が、帰蝶だったというのか?


 あの大人しい帰蝶に、このようなはかりごとが出来るとは……。


 帰蝶の無謀なまでの行動が、明智光秀の心をも変えたのか……。

 

 明智光秀は深々と頭を下げ立ち去る。

 炎が風で巻き上がり、煙が容赦なく器官に入り息をすることも苦しい。


 このままでは紅の命をも、奪ってしまう……。


 ――『ただ1人の大切な人も救えぬのですか』

 明智光秀の言葉が、心に突き刺さる。


 己の面子メンツや地位よりも、大切なものは……紅の命。紅を救うためならば、全てを捨て落ち延びるしかない。


「コホコホッ、上様は怪我をされています。早く避難して下さい」


「これしきのこと、掠り傷じゃ。……紅よ、生かされし命。本能寺が崩れ落ちる前に行くぞ!」


「はい!この抜け道は狭く、一人しか通れませぬ。上様が先に行って下さい!直ぐに追いかけます!」


「直ぐに来るのだぞ。よいな」


 紅が後に続くと信じ、人が1人通れるくらいの幅しかない狭い地下通路に入る。その通路を照らす明かりもなく、手探りで壁を伝いながら進んだ。


 もしこれが明智光秀の陰謀なら、出口には明智軍が待ち構えているやもしれぬ。だが、たとえ罠だとしても、先頭を歩くこの信長が楯となり、紅の命を必ずや守ってみせる。




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