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「身代わりと知った上で、於濃の方様と婚儀を……」


「紅も薄々気付いていたのではないか。濃姫は気が強い女子おなごだと、平手政秀より聞いておったが、帰蝶は奥ゆかしい女だった。如何なる理由かは知らぬが、声を無くし身代わりとなった帰蝶が不憫であった。

 喋れぬことをいいことに、蝮の餌食となったのだ。その企みを知りながら、斎藤道三に加担した明智光秀が、今だに帰蝶と情を通じていると知り許せなかった。

 紅、わしは間違っておるか」


「……上様」


「帰蝶は鳴かぬのではなく、鳴けぬのだ。もしかしたら、蝮に声を奪われたのやもしれぬ」


 そんな……。

 帰蝶が声を失ったのは、病ではなく斎藤道三に脅されたからだというの?


 信長は斎藤道三の企みを知った上で、和睦のために身代わりとなり輿入れした帰蝶を正室に迎えた。


 その心情を想いやり、夫婦の契りを交わさずとも、心が自分に向いていればよかったというのか……。


 だけど、帰蝶は……

 身も心も明智光秀に捧げた。


「紅、わしは中国遠征出兵準備のために上洛する。蘭丸を同行させるゆえ、紅は帰蝶と安土城に残るがよい」


 中国遠征出兵……。

 まさか……本能寺へ……!?


「上様、本能寺に立ち寄ってはなりませぬ!」


「なんと、これは異な事を。わしが考えておることが、よくわかったな。本能寺に暫く逗留こうりゅうするつもりだ」


「本能寺に行ってはなりませぬ!」


「何を向きになっておるのだ。紅の指図は受けぬ」


「どうしても本能寺に行くのなら、俺もおともします」


 信長は一瞬目を見開いたが、すぐに頬を緩めた。


「蘭丸に妬いておるのか?わしと蘭丸は主君と小姓以外の何ものでもない」


「……そんなこと、わかってる」


 信長は笑いながら、あたしを抱きしめた。光秀は秀吉の援軍に向かうはず。


『於濃の方様を悲しませることは致しませぬ』と、はっきりあたしに断言した。


 ――光秀が本能寺を襲撃するはずはない。

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