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「御殿様のご嫡男奇妙丸様の傅役は、平手紅殿でございますよ」


(紅が……奇妙丸の傅役とな)


「はい」


 紅は今も元気に暮らしている。

 合戦で命を落とすことなく、生き延びている。


 それだけで、胸に熱いものがこみ上げる。


「帰蝶様がこのような場所で身を隠しておられることが、御殿様に知れたら一大事でございます。光秀殿も無事ではすまされますまい。大事に至らぬ前に、どうか、清州城にお戻り下さい」


(……多恵。暫く考えさせてはくれぬか)


「躊躇している場合ではござりませぬ。こうしている間にも、織田家の家臣がここを突き止めるやも。帰蝶様、一刻を争うのです」


(……織田の家臣がここを。光秀殿を巻き込むわけにはいきませぬ。わかりました。殿の元に戻ります)


 「はい。この多恵が命にかえても帰蝶様をお守り致します」


 ――その夜、屋敷に光秀が訪れた。


 私は光秀に文をしたため、それを見せる。


【わらわは織田信長殿の元に戻ります】


「どうしても戻るのか」


【殿はきっとここを突き止めましょう。光秀殿に迷惑をかけとうない。わらわが奇妙丸を育てとうございます】


「奇妙丸様を……。それが帰蝶の本心なのか?そなたのことじゃ。行くなと申しても、行くのであろう」


 頷く私を、光秀は強く抱きしめた。


「たとえ織田信長殿の元に戻ろうとも、帰蝶はわしの心の妻にかわりはない」


 心の妻……。


 決して結ばれることのない、心の妻……。

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