95


「紅を奇妙丸(信忠)の傅役もりやく(教育係)に命ずる」


「この俺が……奇妙丸様の傅役!?」


「奇妙丸を戦国一の逞しき武将に育ててくれ」


 あたしが……

 お世継ぎの傅役……。


 男としてこの乱世を生き抜いているあたしが、一生母になることはないと思っていた。


 信長の子を生むことが出来ないあたしに、信長は大切な世継ぎの傅役に任命した。


 嬉しくて涙ぐむあたしを、信長は優しく抱きしめてくれた。


「勿体ない……お言葉。しかと承りました」


「そうか。頼りにしておるぞ」


 縺れ合うように畳の上に崩れ落ちる。

 信勝を殺した罪を共に背負い、その傷を舐め合うように抱き合う。


 着物が擦れ合う音にすら敏感に反応するあたしは、信長の手中では一人の女に過ぎない。


 ――1560年(永禄3年)


「殿!今川軍が尾張国へ侵攻し、その軍勢は4万とのこと!このままでは今川軍にやられてしまいます」


「出陣じゃ!挙兵せよ!今川義元を討ち取るのじゃー!」


 “信長は静寂を保っていたが4000の軍勢を整えて襲撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川義元を討ち取り、今川軍は駿河国へと退去した。”


 あたしは奇妙丸(信忠)の傅役となり、合戦に同行することはなかった。信長はあたしを戦に連れて行きたくはなかったのだろう。


 あたしは信長の側に仕え、信長の楯となるつもりだったが、今は小さな若君の楯となり、若君を教育するが務め。


 我が子を抱いたこともないあたしが、若君に母性本能を刺激され、母である錯覚に陥った。


 そんな時……

 ふと思い出すのは、現世に残っている母の姿。父が亡くなったあと、女手ひとつで苦労しながら、あたしと姉を育ててくれた母に、あたしはどうしてあんな酷いことをしてしまったのだろう。


 もう一度逢えるものなら……

 母にした数々の親不孝を詫びたい。



 ――信長は戦いに明け暮れ、数年もの間、吉乃とは疎遠になっていると思っていた。


 奇妙丸と3人で過ごしていると、ひとつの家族になれた気がして、ささやかな幸せを感じていた。


 吉乃は徳姫出産後、産後の肥立ちが悪く重症に陥っていたことを、その時、あたしは知らなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る