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「わしと帰蝶は夫婦めおとの契りを交わした。平手、これで文句はないな」


 信長の言葉に帰蝶は頬を赤く染めた。

 夫婦の契りなんて交わしていないくせに、しゃあしゃあとよく言うよ。


 平手はすっかりその言葉を信じ、満足そうに笑みを浮かべる。


 信長はその日を境に、毎夜帰蝶と寝所を共にした。けれどそれは平手や家臣、斎藤家より仕える侍女の目を欺くため。


 夜が深まるとあたしの部屋に忍び込み、あたしの布団に潜り込む。


 優しい男なのか、本物のうつけなのか、あたしにはよくわからない。


 あたしは蓑虫のように布団の隅に蹲り、信長の寝息を聞きながら眠れぬ夜を過ごす。


 10代の男女がひとつの布団で寝ているのだ。意識するなという方が無理な話。


「……ひっ」


 信長の腕が体の上にトンッと被さる。

 信長に背後から抱かれた体制となり、思わず小さな悲鳴を上げた。


 信長の寝息が耳に触れトクトクと鼓動が早まる。信長が眠っていることを確認し、そっと信長の腕を持ち上げ体から引き離す。


 大うつけと呼ばれている男も、寝顔を見ればまだ少年の面影が残っている。


 契りを交わしたとうそぶく信長。帰蝶はどんな気持ちで毎夜過ごしているのだろう。


 あたしは……もう耐えられないよ。

 信長といると胸が苦しくなる。



 ――天文18年、信長は正徳寺で斎藤道三と会見した。あたしは信長に同行する。険悪な場面も想定されだが、この会見により、斎藤道三と信長の蟠りが解消されたように思えた。


 その日を境に、屋根裏に潜んでいた鼠(斎藤家が仕向けた忍び)は姿を消した。


 “1551年(天文20年)織田信秀おだのぶひで(信長の父)が死亡し信長は家督を継いだ。信長は葬儀の席で祭壇に抹香を投げつけ、うつけ者の名を世に知らしめた。”


 表の顔と裏の顔。

 信長は奇行の持主なのか、敵を欺くために演技じているだけなのか、信長の本心がわからないまま月日だけが流れた。

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