66

 ――その日より、あたしは帰蝶の隣室で寝起きをし、常に側に仕えることとなった。


『子をなせばよいのだな』

 そう断言した信長だが、その後も帰蝶と寝所を共にすることはなかった。


 いつも優しい笑みを絶やさない帰蝶だが、信長の前では怯えたように顔を強張らせた。


 ――帰蝶に仕え、数日が経過。


 天井に人の気配を感じ、刀を構える。


 「紅殿、くせ者ではございませぬ。あれは斎藤家の忍びでございます。帰蝶様を陰より見守っておるのです」


 「忍びとな?頭の黒い鼠か……」


 「はい。もうよい、このお方は帰蝶様の護衛じゃ。向こうにゆけ」


 多恵は天井を見上げ声を掛ける。多恵の一言で人の気配は失せる。


 斎藤道三が輿入れした帰蝶に忍びをつけるとは。帰蝶を見守っているのではなく、織田家の動向を見張っているのだろう。


 油断も隙もない奴だ。


 帰蝶が湯に浸かっている間に、あたしは多恵に問い掛ける。


「多恵、於濃の方様は信長様の前では、体が震えているように思われたが、なにかあったのか?」


「紅殿。ここだけの話でございますが、帰蝶様は病が治られた頃より、様子がおかしいのです。家臣が近付くだけでガクガクと身震いされ、殿方に怯えておるようじゃった。帰蝶様が平常心を保てる殿方は、明智光秀殿とそなただけでございます」


「家臣が近付くだけで身震い?」


「病に伏せる前の帰蝶様は明るく活発で、家臣をやり込めるほど元気な姫様でございましたのに。長き病で人柄まで変わられてしもうた。病で声が出せなくなり、無理もござりませぬ。

 婚儀のお相手が、あの大うつけとなると、女ならなおさらのこと。触れられとうもない」


 多恵は眉をひそめ、矢継ぎ早に信長の悪口を吐き出す。


「於濃の方様が男嫌いとは。クククッ、これは愉快だ」


「これ、紅殿。大きな声で笑わないで下され」


「女好きの信長様が、正室に手が出せないとは、滑稽ではないか」


「シーッ、紅殿、誰かに聞かれては困りますゆえ、お静かに。されど、滑稽でございますね。クスクス」


「なにが滑稽なのだ!」


 襖が開き、信長が姿を現す。

 その眉はつり上がり、明らかに憤慨している。


 多恵は慌てて平伏し、畳に額を擦り付けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る