56

 ――天文18年、2月。

 和睦のための政略結婚。

 美濃国の斎藤道三の娘、帰蝶(濃姫)が尾張国の信長に輿入れした。


 駕籠から降り立つ帰蝶。

 白無垢姿の帰蝶は、白い綿帽子で顔は隠れ赤い唇しか見えなかった。


「信長様は何処いずこへ?くれない、信長様を知らぬか?」


「知らないよ。さては、逃げ出したかも?」


「に、逃げ出したじゃと!?皆のもの、祝言が始まる前に信長様を捜すのじゃ」


 慌てている平手や家臣達。

 本当に祝言が嫌で逃げ出したのかも。


 信長なら、やりかねないね。


 座敷では祝言の準備がすでに整い、台所には料理や酒が並ぶ。花嫁である帰蝶は金屏風の前に座り、両サイドに両家の家族や親族、織田家に仕える家臣が連なり、花婿となる信長の登場を気を揉みながら待っている。


 時は刻々と過ぎ、一向に現れる気配のない信長に、斎藤家の親族は怒りをぶちまけた。


「噂には聞いたが、祝言に姿を見せぬとは、噂通りの大うつけだ!無礼にも程がある!」


「斎藤殿こそ、声も出せぬ姫君を輿入れさせるとは、噂に勝る蝮でござるな」


「なんじゃと!我が殿を侮辱するとは許さぬ!」


 一触即発、家臣達は睨み合い、同時に刀に手を掛ける。


 帰蝶はその騒ぎの中でも、取り乱すことなく冷静で、身動ぎひとつせず正座したままだ。


「騒ぐでない。花嫁が待っておられるのじゃ!」


 騒然とする中、平手が声を張り、斎藤道三と帰蝶に詫びを入れた。


「斎藤殿、この平手に免じて、我が殿の無礼をお許し下さい。さあ、祝言の宴を始めましょうぞ。濃姫様は長旅でたいそうお疲れになったでしょう。今宵はもう休まれるがよい」


 帰蝶は三つ指をつき、口元を微かに動かした。赤い紅をさした形のいい唇。声を発せなくても、妙に色っぽい。


(宜しくお願い致します)


 口話こうわを読み取る術はないが、手話を習っていたこともあり、短文は口の動きで理解出来た。

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