オート・アイコン

霧島ジュン

オート・アイコン

 僕は、小学生のころ父親の仕事の都合でS県に住んでいたことがある。

 暮らしていた町のはずれには、高い木に囲まれた古い洋館があって、若くて美しい女性が住んでいた。

 冒険心から、いつもと違う通学路で帰ってみたときに知ったのだ。

 彼女は、いつも西側の窓辺にひとり佇んでいる。

 陶器のような滑らかな肌と、さらさらの黒髪が日をあびて輝いて見えた。

 優しげな微笑みをたたえる彼女を一目見たくて、僕は放課後わざと遠回りして帰ることもあった。

 彼女の視線はいつもどこか遠くを見つめており、目が合ったことはない。

 そのことが余計僕の恋心をあつく焦がした。

 彼女の名前が知りたい、彼女と話がしたい…何度もそう思ったが、なんだか照れくさくて彼女のことを誰にも話さなかった。


 中学生になり、父親の転勤のせいで東京へ行くことになった。

 せっかく仲良くなった友達との別れも辛かったが、やはり洋館の女性と会えなくなってしまうことが何より悲しかった。

 最後にこっそり会いに行ったとき、彼女の横顔は西日に照らされ、外国の絵画のように美しかった。

「さよなら!さよなら!」

 つい、僕はこらえきれず大声をあげてしまった。

 どきどきした。彼女がこっちを見るかもしれない。

 彼女は僕の声に気が付かなかった。


 東京に行って、クラスに可愛い女の子はいたが、僕は洋館の彼女への恋心を抱き続けていた。

 しかし、こんなに距離が離れていては会いに行くことはできない。

 彼女のことは忘れよう、忘れようと自分に言い聞かせた。


 高校の間は必死で勉強して、第一志望の大学に合格できた。

 僕の大学生活は充実していた。勉強にバイト、サークル活動…忙しくも楽しい毎日で、洋館の女性のことは記憶の隅に追いやられていった。


 入学してしばらく経ち、すっかり秋になった。

 哲学のおじいちゃん教授は板書をするのが面倒らしく、講義では高校の倫理の資料集をコピーして配布する。


 ──ジェレミー・ベンサム

 イギリスの哲学者。功利主義的な立場から、幸福量は計算によって計ることができるという「最大多数の最大幸福」論を唱え…


 小難しく書かれたベンサムの紹介文に、学生たちは目を通している。

 しかし、僕は違った。

 プリントの隅にあるコラムから目が離せなかった。


『ベンサムの自己標本(オート・アイコン)』

「ベンサムは自分の死後、自ら科学の発展のため検体として解剖された。現在はユニバーシティ・カレッジ・ロンドンに標本として遺体が展示してあり、哲学を目指す者達に刺激を与え続けている…」


 ベンサムの場合は頭部の処理に失敗し、現在は蝋でできたレプリカになっているそうだが、プリントに印刷された写真のベンサムは大きな帽子をかぶり、杖を持って悠然と座っている姿は遠目だと生きているようだ。

 ミイラのカサカサしたイメージとは違い、生々しさを感じる。


 僕は、鳥肌が止まらなかった。

 この後の講義の内容なんて覚えていない。

 ──確かめたい。僕の見当違いであってほしい。

 机の下にスマートフォンをつっこみ、震える指先で、新幹線の時間を調べた。


 新幹線に乗り、電車を乗り継ぎ、僕は6年ぶりにS県にやってきた。

 無人駅に降り立つと、放置自転車を拝借し、あの洋館を目指した。

 6年も経つと、田舎とはいえ風景も少し変わっていたが、あの洋館は変わらずそこにあった。

 がしゃんと乱暴に自転車を乗り捨てると、もつれる足ですっかり伸び放題の庭の草を踏み分け、洋館の西側にまわった。




 彼女は記憶のままの姿でそこにいた。




 後から聞いた話だが、僕がこの町に引っ越してくる何十年も前から、あの窓辺にあるらしい。

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オート・アイコン 霧島ジュン @orangepeco74

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