モテる男の『や(い)ゆ(え)よ』

“いなくなっちゃうって、ほんと?”

“うん”



 美藤みふじがいなくなる?

 引いたはずの汗を肌に感じるが、それはあくまで冷たい。身体の奥からじわじわと黒いものが上ってきて飲み込んでいくような恐怖を覚えた。それをなんとか押し戻そうとコーラを一気に飲み込む。オレのことはよそに、楽しげに話し続ける二人が視界の端で揺れる。

七光ななひかりくん!今朝は大変だったねー、大丈夫?」

「それでもちゃんと学校来るところとか、やっぱりイケメンは違うね」

 集まってきたクラスの女子たちが口々に媚びを売る。我先にとオレを誉め、心配しては媚びを売る。美藤みふじの冷たさに慣れたせいか、その態度に胸のうちがぐちゃぐちゃにされるようだった。



 *



 誰にも何も聞けないまま、オレは普段の生活を送った。心の内で悩みながらも普段通り生活していたのは美藤みふじが普段通りだったことが大きい。

 それになりより、彼女がいなくなる素振りなど一切見せなかったことがオレを安心させた。転校こそ人生のようだったオレからすれば、生活の変化が起こる前というのは誰しも多少の変化や前兆を見せるものだ。それがみられないということは、何でもなかったのかもしれない。

「はよ、七光ななひかり

「おはよう美藤みふじ

美藤みふじ“さん”、でしょ?やり直し。」

 当たり前の日常はいつだって目の前にあって、オレを迎え入れてくれる。それに甘えすぎていたのかもしれない。



 *



「えー、みんなに話がある。急なことで申し訳ないんだが、クラスの仲間がひとりいなくなることになってしまった。美藤みふじ、ちょっと前へ。」

 朝のホームルーム、担任が放った一言に、オレの中の言葉は消失した。そのくらい、焦った。

 手招きをする担任、隣からはカタンとイスが動く音がした。視線が離せない。教卓と担任の横で相変わらず彼女は無表情だった。ひとによっては怖く感じるそれさえ美しく思えるような整った顔立ちはいつもよりほんの少しだけ下を向いているような気がした。

「じゃぁ今日で最後なわけだけれど、美藤みふじから一言!はい!」

「いやですよ」

 本気で嫌そうな顔をする美藤みふじを見て、何人かがくすくすと笑った。それでこそ美藤みふじだ!と笑う男子もいた。

 それは嫌な笑いなんかではなく、仲が良いがゆえの笑いだった。

「強いて言うなら」

 小さく、でもはっきりと美藤みふじは話を切り出した。

「まさかこんなに早く決まるとは思ってなくて、まだまだ、このクラスでいるんだろうなって、正直、卒業までそうだと思ってた。」

 彼女の言葉にはっとする。

 これは何回かオレが転校するときの挨拶に使っていたテンプレート文だ。“まだまだ”

“こんなに早く”という部分から美藤みふじが何度も転校を経験していることを悟った。

「でもまぁ、それはそれってことで、頑張ります。今日は全員分コアラのマーチ買ってきたので、貰ってください」

 と控えめに言って笑顔を見せた。クラス一同盛り上がり、美藤みふじが席に一旦戻り鞄をもって配り始めた。「先生の分もあるから」と渡すと担任は珍しく喜んでいた。甘党なのかもしれない。

「はい、七光ななひかりも」

「あ、ああ、うん、ありがと」

 最後にオレにコアラのマーチを手渡した。いつもみたいに品名をもじっていたずらを仕掛けてきたり嫌味を言ったりしてこない。最後だからなのか?


 そうして美藤みふじとオレの最後の1日はあっけなく終わった。少しみんなと言葉を交わしながら、バイトだからと彼女は足早に教室を出る。オレは動けなかった。最後の最後まで何も言えなかった。鞄の中にはまだ借りっぱなしのタオルが入っていた。



 *



 キーンコーンカーンコーン…


 予鈴で我に返ったオレは、時計を見上げた。時刻は6時10分、あれから2時間近くもここでぼんやりとしていたのか。

「あれ、七光ななひかりくん?」

 入り口に居たのは美藤みふじの友達だった。

「まだいたんだね、委員会とか?」

「ううん、今帰るとこ。」

 慌てて鞄をつかむと、心得を思い出した。


『や』さしさと強引さ

『い』まを大切に

『ゆ』めは叶えるもの

『え』るものは価値がある

『よ』ぞらは恋の盛り上げ役


「ごめん、知ってたら、美藤みふじのバイト先、教えてくれない?」


 …なにが彼女がほしいだ。

 ちょっと顔がよければ、簡単に恋愛が出きると思ってた。彼女ができて、毎日楽しくて、妄想みたいなあれこれが起こるものだと。でもそれは、今を大切にし、夢を叶えたものだけが微かに掴めるものだ。

 まだ夕日で明るい空の下、オレはローファーの踵を踏むことも気にせず走り出した。何も伝えられてない、タオルも返せてない、あの日キスしかけた理由も、体育祭で見惚れたのも、会えなくなるのが寂しいのも、まだ、まだ何も。

 美藤みふじの家の方、学校から約2キロのファミレス、そこに彼女はいる。

 呼吸の苦しさと心臓の音を感じる中、ファミレスの裏口から彼女が顔を出していた。


美藤みふじ!」


 伝えなきゃいけないこと、まだ何も伝えられてないんだ。

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