第十二章 大団円(だいだんえん)には、あと少し

「ここは…… う、沙耶。沙耶様は」

「ここに。私はここにいますわ。刀夜様、私が見えますのね? 声が聞こえますのね? 刀夜様、刀夜様!」

 今まで話しかけても応えてくれなかった埋合わせを求めるように、沙耶は何度も刀夜の名を呼んだ。

「これは。私は死んだのか。そうか、そうだったな」

 刀夜はすべてを思い出し小さく身を震わせた。

「刀夜様。よかった、正気に……」

「触るな、沙耶!」

 刀夜は沙耶から身を引いた。

手に持っている刀は血で汚れていた。目の前には、あちこちに切傷をつくったまだ幼さの残る青年。誰がしたことか、刀夜が一番わかっている。

「刀夜さん。今まで何をしていたか、覚えてる?」

 空也は恐る恐る訊ねた。

「何をしているのかは分かっていた。ただ、己がやっているような気がしなかった」

 誰からも視線を外したまま、刀夜は言う。

「現実を遠くから、空の上から見ているようだった。夢の中の人間を見守っているように。止めようとすることなど思いもしなかった。自分によく似た誰かが人を斬るごとに、憎しみが和らぐような気がした」

 両手を握り締める。一度死んでいるのが悔しかった。自分の命を断って許しを乞うことすらできない。

「私は……」

「もう、いいのですよ」

 沙耶はそっと刀の柄に手を置いた。もうこれを振る必要はないのだと言い聞かせるように。

 話についていけない警官達が顔を見合わせる。

「これは、一体……」

「だから、女神様だよ」

 投げやりな口調でいったのは寛次だった。後手で縛られ、不機嫌そうに口を曲げている。そうとう絞られたようで、赤く染めた髪は乱れているし、頬はどつかれたあざができていた。

「言ったろ? 通り魔事件を押さえるために神様が降りてきたって。言霊と憎しみに囚われて人を斬る事しかできなくなった奴を、女神が救ったんだ。これで安全に夜の外出ができて、刀夜の魂も救われる。万事めでたし大団円じゃねえか。ほら、もう逃げやしねえよ。縄を解いてくれ」

 警官の一人が縄を切ってくれた。

目の前で、これ以上ないくらいはっきりと幽霊を見てしまっては、寛次の説明を信じないわけにはいかなくなったのだろう。

警官達はざわざわとさわぎ始めた。

「まさか、本当に幽霊が」

「しかし、透けている」

 注目をあびているのに気がつき、沙耶が立ち上がって衿と裾を直す。

「皆様、お騒がせしました」

 頭を下げた沙耶につられて、警官達も頭を下げた。

「空也様のおかげで、刀夜様も正気に戻ることができました。この沙耶共々、これで成仏できます。もう通り魔も起らないでしょう」

 部屋の中がもう一度ざわついた。自分が見たことへの驚きと、通り魔が消えるという安堵、そして本当に解決したのかという不安の声だ。

「ふざけるな!」

 叫んだのは背の低い警官だった。病室内が静まり返る。

「その男はこの町だけで二人も人を斬り殺してるんだぞ! 最初に殺された女は、俺の知り合いだった!」

 警官の目には涙が溜まっていた。

「人を何人も殺しておいて、自分だけ救われようってのか。そんなことは許さない!」

「そんな、そんなことを言わないでください」

 沙耶が、警官のそばへ近寄った。

「しかし、刀夜様もお辛かったのです。垣に縛られ、憎しみに囚われ……」

「黙れ!」

 若い警官は沙耶を押し退けようとした。当然触れるはずもなく、沙耶の輪郭をかき乱しただけだった。

 沙耶は助けを求めるように、無言で寛次に目を向ける。

「悪りィ、お姫様」

 寛次は、決まり悪げに目を反らせた。

「一人目の犠牲者な。あれ、家族に遺品届けに言ったの、俺なんだわ」

 見開いた沙耶の目が揺れていた。

「死んだ娘さんの事語る母さんの顔見ちゃうとな。刀夜に罪がないなんて、どうしても言えねえよ」

刀夜様は、まるで夢を見ているようだったと言った。しかし、理性を無くしていたとしても、彼がたくさんの人を殺めたのは、消しようもない事実。

それでも。それでも沙耶は、刀夜と共に逝きたかった。誰にも邪魔をされず、穏やかな場所へ。沙耶は両手で口もとを押さえる。自分の身勝手さに吐き気がした。

「怒る必要はない。私はこれから罰を受ける」

 静かに刀夜が言った。

「罰?」

 細井は、「何のことだ」と刀夜を睨む。

「私は、沙耶ともう会えないだろう」

「え……」

 鞘についた霊は小さく息を飲んだ。

「な、なんですかそれ? どういうことです、刀夜様」

 沙耶は無理に微笑もうとしているようだった。

「い、いやですわ。冗談でしょう? やっとまた会えたのに。もう刀夜様は十分苦しみました」

 声が震えていた。

「分からないでしょう、私がどんな気持ちで永い永い時間を耐えて来たのか。傍にいても貴方の瞳は私を映さず、貴方の耳は私の声を聞かず、私が感じるのは貴方の憎しみと嘆きと怒りだけ!」

沙耶の言葉は最後には叫びになった。

「ようやく、こうして会えたのです。もうどこにも行かないでください。わがままをきいてください!」

 かすかに、だが微かに、刀夜は首を振った。

「これを見ろ、沙耶」

 刀夜は刀を握ったまま、右手を伸ばして見せた。

 刀身に、黒い染みが浮かんだ。それは水に落とした一滴の墨のように、複雑な模様を描きながら少しずつ広がり、刃の表面を覆っていく。

その黒い淀みから、生きている縄のような物が無数に伸び、刀夜の腕を絡み取っている。手だけではない。その懐を、袖を、髪の一房を握り締めていた。

「私が沙耶に会えた喜びを感じていることがしっかりと分かるらしい」

「こ、これは……」

「刀に染みついた、私が切り捨てた者の恨み」

沙耶は、ざわざわとした恐怖で自分の輪郭が歪んでいるのがわかった。

「これがなくならないかぎり、私は天へは昇れない」

 縄は増え、ますます刀夜に絡みついていく。まるで浮かびあがろうとしている何かを捕らえ、引きずり降ろそうとしているように。

「私も『刀』の名を持つ身。少しずつ、この怨念を絶ち斬り、浄化をしていこう。いわば、何年もかけて許しを請うのだ」

「……」

 沙耶はうつむき、動かない。白い唇が噛締められた。

「何年掛かるかわからない。永遠に許されぬかも知れぬ。それでもよければ、待っていてくれるか」

「ここで…… 刀夜様の隣で待つことはできませんか」

「それはできない。この怨みの中には、私のせいで恋人と死に別れた者もいるだろう。その許しを請う私が、お前と共にいたのでは」

 沙耶はゆっくりと顔を上げた。その顔はにっこりほほえんでいた。

「はい。わかりました。一足先にむこうでお待ちしております」

「すまない」

 刀夜は若い警官に向き直った。

「これで少しは罪滅ぼしになればいいのだが」

 沙耶は刀夜の手をとろうとする。しかし刀夜に触れることはできず、透けた指先は空をかいた。

「次にお会いしたときには、今度こそ一緒になりましょうね。わずかな時間だったけれど、あなたと一緒に生きていたときは本当に楽しかった」

「ああ」

 刀夜は微笑んだ。正気に戻ってから初めて見せた笑みだった。

 ふわりと空気が動いて、空也の近くに沙耶が飛んできた。

「寛次様、空也様、ありがとうございました」

「おう」

「元気でね」

 空也がかけた言葉は、死人には少しふさわしくなくて、沙耶は小さな笑い声をたてた。

「お礼の代わりにもなりませんけれど、私の鈴は差し上げます。それを見て、時々思い出してくれると嬉しいわ」

「真菜さんにあげてもいい? 彼女に持っていて欲しいんだ」

「ええ、もちろん」

 ずっと恋人を見守り続けた、優しい沙耶が大切にしていた物。男の自分が持っているよりも、同じ女の子の真菜が持っているほうがふさわしいように空也には思えた。

沙耶の足元から、やわらかい光の粒が立ち昇る。光を浴びた沙耶の輪郭は、爪先から少しずつ揺らぎ、薄れ、陽炎のように消えていく。

その光景に、誰かが感嘆の声を上げた。

蜜のような光は、とうとう沙耶の全身を覆った。沙耶の体が、雨上がりの夕焼けを思わせる暖かな金色に照らし出され、染められていく。

「さようなら、沙耶さん」

「楽しかったぜ」

 空也と寛次が手を振った。

 沙耶が、微かに微笑んだ。光に溶け込んだ沙耶の姿は、もうほとんど見えないはずなのに、空也と寛次にはなぜかそれがはっきりと分かった。

 光の柱は沙耶を覆い隠すと、花火の名残のようにきらめきながら解けて消えていった。照らし出されていた病室がもとの色を取り戻す。

空也は、深く息をはいた。

沙耶の姿は、完全に消えてしまった。行くべきところに行ってしまった。そっと床に落ちっぱなしだった鞘を拾いあげる。

 小さく鈴が鳴った。

「私もそろそろ消えなければならないようだ」

 刀夜の腕にからみついた闇が広がる。白い姿が少しずつ黒に浸食される。

「空也とやら。私が消えたら、この刀を頼む。鞘に戻してくれ。今度は私が自分自身を封印しよう」

「わかった」

 空也は小さくうなずいた。

「そんな悲しそうな顔をするな。辛いことはない。闇の浄化が終われば、今度こそ沙耶と同じ場所に行けるのだから」

 刀夜にまとわりつく黒が濃くなっていく。刀夜が、ほんの少し顔を歪めた。刀夜は影絵のようにその色に染まっていった。その形もじょじょにくずれ、刀の中に吸い込まれていく。

「まったく、人騒がせな奴だぜお前は。もう化けて出たりすんじゃねえぞ」

 寛次が疲れた声でいった。

 ガシャンと音がして、刀が床に落ちる。

 しばらくの間誰一人口をきかず、不思議なくらい静かだった。窓の外で、鳥が鳴いていた。病室に朝日が差し込む。カーテンの焦げあとと、床に落ちた刀がなければ、今までのことがすべて夢みたいに思えた。

 空也が残された刀を拾い、しっかりと、ゆっくりと鞘に収める。

「終わったぁ」

 空也は床に座り込んだ。

「終わったな」

 寛次も大きくため息をついた。

「まったく、これは何かの冗談か」

 細井が呟く。

 隣の病室の患者か、おじさんが入ってきた。

「いい、一体なんだ、さっきからどったんばったん……」

 おじさんの顔は、少し恐怖が混じっていた。どうやら物騒な物音が怖くて、今まで様子を見に来られなかったらしい。

「なんでもない、もう終わった!」

 細井が叫んだけれど効果はなかったようだ。他の部屋からも患者がようすを見に集まってくる。廊下は寝巻姿の人達でいっぱいになっていた。

「ええっと、色々知りたいこともあるだろうけど……」

 空也は「よっこいせ」と声をあげて、拾い上げた棍を杖代わりに、のろのろと立ち上がった。

「疲れたから、後にしてね。寄らないと行けないところもあるし」

 ふらふらと病室を出ていく空也を止めるには、警官達も患者達も、呆気に取られすぎていた。

空也は、軋んだ階段を下りていった。

「空也さん!」

 玄関先で、初めて空也は呼び止められた。寝巻きのままの真菜がそこに立っていた。

「よかった、空也さん、生きていて……」

 真菜は、それだけいうと袖で口元を覆ってしゃくり上げた。

「安心して、真菜さん。すべて終わった…… とは言えないけれど、とにかくもう、通り魔は出ないから」

 そう、すべて終わったわけではない。本当に全部が終わるのは、刀夜が罪を償ってまた沙耶に会えたときだ。『永遠に許されないかも知れない』と刀夜は言っていたが、その時は必ず来るだろう。空也は、そう信じていた。

「真菜さん、これを」

 空也は鞘から鈴を外して真菜に渡した。沙耶の形見の鈴は、もう土も血もついていない。

「これって……」

「詳しいことは、あとで話すよ」

 まだ不安そうな真菜に、空也はにっこりと微笑んで見せた。

「まだ、ちょっとやることがあるんだ」

 戸口に向かう空也に、真菜は慌てて声をかける。

「空也さん。どこへ行くんですか? 少し休んでください!」

「大丈夫。もう危ないことはしないから」

 まだ何か言いたそうな真菜に、空也は軽く手を振った。外を出て、玄関の戸を閉める。

「さて、僕も罪滅ぼしにいかなくちゃ」

 緊張で、空也の顔が固くなった。

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