第十一章 解けよ、縛め
刀夜は頭を押さえていた。目を見開き歯を食いしばり、凄まじい苦痛に耐えているように顔を歪めている。輪郭がおちつかなく揺らいだ。大きく息をしているように肩が激しく上下している。
「どうしたのですか! しっかりしてください」
沙耶は焦った。封じられない。祈りが、何かに邪魔をされている。刀夜のいらだちが伝わってきた。逆に、なだめようとする沙耶の気持ちは頑なに跳ね返されてしまう。
「そんな…… 初めて封印したときはうまくいったのに」
「まずい」
空気がひんやりと冷えてくる。道で襲われたときの、あの感覚だった。ただならない刀夜の雰囲気に、空也は背筋が冷たくなった。
「真菜さん、伶菜さん、逃げて!」
「でも……」
「いいから早く!」
刀夜が真菜に切りかかってきた。空也はその刀を払いのける。棍の先端が少し斬り飛ばされた。視界の隅で、伶菜に手を引かれ廊下へ引きずり出される真菜を確認する。空也は戸口を背にして、棍を水平に構えた。
刀夜が空也を見据える。表情に浮かんでいた混乱は消え、前のような無表情に戻っていた。
刀夜は、敵の頭に向けて思い切り刃を振り下ろす。ほとんど動物のように見境のない襲い方だ。
空也はとっさに後へ跳んだ。振り下ろした刃を真っ正面から受けたら、間違いなく棍は折られ、体まで斬られてしまう。
切っ先が、床を縦一文字の切り傷を残す。
「どうしたんだ、刀夜さん! なんで沙耶さんのことがわからないの?」
空也が呼びかける。しかし、刀夜には聞こえていないようだった。
握り直された鞘が、カチャリと堅い音を立てる。
刀の作り出す風圧と冷気を空也は首筋に感じた。身をかがめ、切っ先をかい潜る。その勢いで広がった右袖が切り裂かれた。
少しでも動きやすくなるよう、空也は下駄を脱ぎ捨てる。
「刀夜様! 刀夜様!」
泣きながら沙耶が声をあげる。
けれど刀夜にその言葉は届かない。刀夜は音もなく空也との間合いをつめてくる。
「くそ!」
右肩が、少し斬られた。一撃を避けて床に手をついた空也は、息を切らせていた。
少しずつ反応が遅れていくのが自分でもわかる。増えていく生傷と疲れが、体の動きを確実に鈍らせていった。
生きて戦いを終わらせるには、相手を倒すしかない。しかし、空也に相手を斬ることはできない。おまけに、刀夜の体力は底なし。
喉が乾いて、空也は唾を飲み込んだ。汗で塗る指に力を込める。心の奥に沈めていた恐怖が、意地悪く浮かび上がってきた。
そもそも、棒術の基礎を知ってはいても、あくまで人間相手の護身用だ。理性と手加減を忘れてしまった者に勝てる気はしない。ここまで心臓を貫かれなかったのが自分でも不思議なくらいだ。
「真菜さん!」
叫んだ声は、恐怖と喉の渇きで擦れていた。
「逃げて…… できるだけ遠くまで!」
刀夜が横薙ぎに振った剣先が、枕元に置かれていた台を引っ繰り返す。上に置かれていた食べかけのリンゴやナイフが散乱し、体温計が割れた。水銀の粒が散らばり、床に毒を含んだ銀色の星空を作り出した。
刀夜は飽きることなく攻撃を繰り返してくる。
連撃を避け、間合いを取る空也の背が壁に当たった。刀夜が、空也の左胸に切っ先を向け、突きの構えを取る。
「空也! ここにいるのは分かってるんだ!」
その時、無数の足音が階段を登ってきた。
近づいてくる殺気に気づいたか、刀夜が戸口に顔を向けた。その瞬間を見逃さず、空也は刀夜と壁の隙間から抜け出し、部屋の中央に戻る。
「竜胆のはトリックだろう! もう騙されないぞ!」
また叫んだのは、どこかで聞いた声だった。空也は熱に浮かされたようにモウロウとした頭を使い、必死で記憶をたどる。
(そうだ、あの警官だ! 寛次の上司……)
空也は思いっきり舌打ちをした。こんなところで第三者に踏み込まれたくない。逃げる場所がなくなるし、脇から何かちょっかいを出されたら刀夜の剣を避ける自信はない。
「沙耶さん!」
「扉を閉ざします」
空也の考えを酌んで、沙耶が力で引き戸を押さえる。廊下から怒鳴り声が聞こえた。
「く、なんだこりゃ」
「こらあ、開けろ! 」
がたがたと戸が揺さ振られる。
「勝手なことを!」
空也は泣きたい気分だった。そんなことをやっている間にも、刀夜は容赦なく切り掛かってくる。
「おい、空也! 何があった! 二人は会えたんじゃないのか」
姿は見る余裕はないものの、聞き慣れた寛次の声がして、空也は少し安心した。
「耐えられません!」
ついに沙耶の叫びとともに戸が開かれた。警官達がなだれ込んでくる。
「これはいったい」
乗り込んできた細井は、室内の荒れようをみてしばらく呆然としていた。
カーテンは裂かれ、ベッドには刀傷がつき、詰め物が飛び出している。床には皿や花瓶、ナイフや体温計などが散乱していた。そして、部屋の奥で血を流している空也に、男女の白い影。
「う、うわああ! ば、化けも……!」
パニックになった警官の一人が、手にもっていた角灯を投げ付けた。木枠とガラスでできたカンテラは派手な音をたてて砕ける。ロウソクの火がカーテンに引火した。
炎はあっという間に白い布地をはい上がっていく。わずかな月明かりをたよりにしていた空也には目が焼かれるように眩しかった。
そのとき、空也は視界のすみに金色に光る物を見つけた。細めた目を凝らす。炎で赤金色に輝いているそれは刀夜の持っている刀の根元だった。つばのすぐ上、刃と柄の境目の金具が輝いている。
その表面に何かが細かく彫りこまれていた。葉の模様だった。あの葉は、たしか……
「あ、そうか!」
空也の顔が途端に明るくなる。
急に今までの謎がとけた。刀夜に沙耶の姿が見えなかった理由も、恨みを捨てて成仏できない理由も。
どうすればいいのか、やっと分かった。これをするのはとても難しいけれど。
カーテンの炎はますます激しくなる。
「刀夜! こっちだ」
空也は唯一の武器である棍を投げ捨てた。そしてベッドに駆け寄ると、床に落ちていた果物ナイフを拾った。そして木の壁に背を預け、大きく両手を広げる。
「空也さん、なにを」
あまりに無防備な空也の格好に沙耶は悲鳴に近い叫びを上げた。空也は恐怖を隠して無理に微笑んでみせた。
「大丈夫だよ、沙耶さん。刀夜さんをもとに戻してあげるから、見てて」
空也の額に汗が浮ぶ。あの炎のおかげで、刀夜を正気に戻す方法はわかった。たぶん間違いないだろう。あとは自分しだいだ。タイミングを少し間違えれば死んでしまう。唾を飲みこみ、手に持ったナイフを口にくわえる。
「……」
腕、足、視線。どんな動きも見逃さないように刀夜を見つめる。恐ろしさに目をつぶりそうになるが、そんなことをしたら本当に命がない。
刀夜の輪郭が、ふわりと歪んだ。
来た!
次の瞬間、空也はしゃがみこんだ。剣の風圧で、髪の毛が揺れる。頭のすぐ上で壁に刀が突き刺さった。ちょうど今まで左胸があった所だ。木クズがぱらぱらとふりかかる。
空也は上に手を伸ばし、両手で刀の柄を握り締めた。鞘のように、刀だけは実体だ。
「くっ!」
刀を引こうとする刀夜を、空也は必死で押さえる。
「沙耶さん、手伝って!」
「は、はい」
肩を切らないように注意しながら、空也は刀を引き寄せる。ちょうど脇腹の辺りで刀夜の腕を抱えるような形になった。沙耶も力を使って刀の動きを封じようとする。しかしそれでも押さえつけるのは大変だった。振りほどかれそうになりながら、口にくわえたナイフを右手に持ちかえる。空也はナイフの先端を刀の柄に突き立てた。
金属の削れる嫌な音が響く。
「空也さん、いったい何を」
「家紋だよ!」
空也が叫んだ。
「ここに彫ってあるんだ! これ、沙耶さんちの家紋だろ!」
「ええ、そうですけど……」
空也は柄を削り続ける。
沙耶はわけがわからずきょとんとしている。
「葉っぱだよ。家紋の葉、あれ柿の葉だろ?」
「え……」
確かに、沙耶の家紋は柿の葉が三枚重なり合っている模様だ。しかしそれが刀夜とどう係わるかがわからない。
「わからない? 『柿』が『垣』にかかったんだ。垣根の垣」
切っ先が叩きつけられるたび、金がへこみ、下の地肌が見えた。ナイフのほうか刀のほうか、細かな金属片が飛び散る。ようやく完全に家紋が削れて、空也は手を止めた。糸を斬られたあやつり人形のように刀夜が床に崩れ落ちる。
「垣の中に閉じこめられていたんだよ、刀夜さんは」
倒れた刀夜に、起き上がるようすはなかった。ぴりぴりと寒かった空気がいつの間にかもとに戻っている。
空也のすぐ傍でカーテンが燃え落ちた。幸い他に燃え移ったりしないで火は消えた。ちらちらとした火の粉が消えたあとは、病室にもとの薄闇が訪れた。
空也は大きく息を吐く。一撃を避けるために集中していた分、緊張がとけると一気に力が抜けた。座り込みそうになる膝に力を入れる。
「だから、沙耶さんの声も姿も見えなかった。垣に囲まれて、憎しみからも逃げ出せなかった。真菜さんが言っていた通りだったね」
いくら、憎しみに囚われたままで死んでしまっても、沙耶のことを忘れるはずがない。それこそ、失って狂うほど沙耶のことを愛していたのなら、声で、雰囲気で彼女が傍にいることがわかったはずだ。
それを妨げていたのは、言霊の呪力。憎しみという垣に囚われてしまった刀夜は、理性をなくして通り魔を続けることになってしまった。
「鞘を盗んだお詫びに、お店に刀をあげようと思ったんだけど、かなり安くなっちゃったなあ」
刀の柄に塗られた金は、無残にくぼんでハゲてしまっていた。
沙耶がためらうようにゆっくりと刀夜に近づいた。
「刀夜様、刀夜様」
白い幽霊はゆっくりと体を起こした。悪夢から覚めたばかりのように頭を振り、目をこする。
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