第十章 刀・逃・闘と時は過ぎ
それから。それからどうしたっけ? まとめようとした考えは、戸のきしむ不気味な音で四散した。寝る前、確かに閉めたはずの扉が薄く開いていた。隙間から廊下の暗闇がのぞいている。
そして、その闇に浮かぶ白い霧。その霧は、風に流れる煙のようにゆっくりと、病室の中に入り込む。そして中空で大きな塊になった。
「あっ……」
その煙は、少しずつ形を変えていく。沓が現われ、長い袴をはいた足が現われる。
あの、通り魔だ。鈴。鈴はどうしたっけ。真菜は震える手で必死に懐を探す。ない。ベッド傍の台の上は? ない。枕元を探し始めて、空也が持っていったことを思い出す。
人型は、もう腰のあたりまであらわれてきている。細かなツタの模様が入った布でできた狩衣。その胸が、肩が、そして顔があらわれた。
「いや、か、母さん!」
からからに乾いた喉からでたのはとても小さな声だった。通り魔の姿を見据えたまま、隣に眠る母の肩をゆさぶる。
「ん、なんです真菜さん」
母が目をこすりながら起き上がった。真菜の指差すほうにのろのろと顔をむける。
「ひ、ああ」
あまりのことに母も悲鳴をあげることができなかったようだ。怨霊はいつのまにか刀を握っている。
二人は抱き合いながら座ったままずるずると寝台の端まで下がっていった。
幽霊は、ゆっくり、しかし確実に真菜達のもとへ近づいてくる。真菜は身を固くした。
「えい!」
真菜は手近にあった花瓶を投げつける。刀夜は避けもしない。花瓶は刀夜の体を通りぬけ、水を振り撒きながら床に落ちて割れた。枯れた花が散らばる。幽霊は、眉一つ動かさないで刀を振り上げる。
「きゃっ」
真菜はのけぞった。その拍子に、壁とベッドの隙間に落っこちる。刀が空中をないだ。伶が甲高い悲鳴を上げた。
「だ、誰か……」
足が震え、立つことができなかった。傷が開き、肩が暖かな血で濡れていく。体が動かない。白い布が、頭に浮かんだ。昼間、空也と見た、隅に血のついた白い布が。
「誰か助けて……っ!」
猫のようにやわらかく笑う幼ななじみの男の子の顔が浮ぶ。
「真菜さん!」
そのとき、バンッ! と戸が開け放たれた。
「空也さん?」
よろよろと立ち上がった真菜は顔を輝かせた。しかし、すぐにその顔から笑顔が消える。
「大丈夫ですか真菜さん!」
「う、浦雪さん、なんであなたが!」
戸口に立っていたのは浦雪だった。寝ている所を急いで出てきたらしく、紫のド派手な
パジャマを着ている。
「あの寛次とかいう警官が宿に来て、真菜さんが危ないと。すぐにどこかに走りさって行きましたが……」
「なんでこの人なの、寛次さぁん!」
泣き笑いのように真菜は言った。
「ううう、浦雪さん。貴方の奥さんになる人よ。真菜を、真菜を助けなさい!」
伶菜が震える声で言う。ゆっくりとベッドを降りて、娘を守ろうと真菜の隣へ這っていった。
ゆらりと部屋の空気が動く。そういえば、ここは外より寒い。その気配に気づいた浦雪は病室の真ん中に目をこらす。
能のような格好をした、白い人。体が透けて、後ろで怯える真菜の姿が見えた。あきらかにこの世のモノではない。そして、その手に持っているのは、長い刀だった。模造等や安物ではないことはしろうとでもよくわかる。ほんのわずか、曇っているのは人の脂のせいだろうか。
作り物めいてみえるほど整った顔がこちらをむいた。白い瞳が、浦雪をとらえる。確かに、目が合った。
「ひっ」
浦雪は後ずさった。どうしよう。ほんの数秒の間に、浦雪の頭に色々な考えがよぎっては消えていく。
(確かに、真菜さんは魅力的な女性で、奥さんにできればそれはそれは嬉しいことだけれど、そのためにはここであの幽霊の前に出て盾になったりしないと印象悪いだろうな。けどむこうは刀でこっちは丸腰だ、無理、無理、絶対死ぬって。まあ刀を持ってたからといって使えないけどさ。結局はどっちを選ぶかだ。ここで真菜を得るために前に出るか、自分の命を守るために退くか)
「真菜さん!」
叫んで、浦雪はくるりときびすを返した。
「警察に連絡してきます!」
「ちょっ、浦雪さん! 逃げた!」
真菜が叫んだときには浦雪は走りさっていった。
「あ、あ」
伶菜と真菜の背が、壁にぶつかった。親子は抱き合って身を固くすることしかできなかった。刀夜は再び刀を振り上げる。窓から差し込む月明かりで刃が冷たく輝いた。銀の光が空を切る。
気がつくと、真菜は近づく刃にむかっていた。伶菜をかばい、大きく両手を広げる。母さんは殺させない。もとはといえば、自分が通り魔に会ったのが原因だ。母さんを巻き添えにするわけにはいかない。
遠くで、母の悲鳴を聞いた気がした。空也さん。どういうわけか、その名前が痺れた頭に浮んだ。
「……!」
振り下ろされた刀の風圧に、髪の毛が少しゆれる。しかし、それだけだった。覚悟していた痛みはない。いつの間にか目を閉じていたようで、目の前は真っ暗だ。何も聞こえず、静かだった。
真菜はおそるおそる目を開けた。少し勇気がいった。実はもう切られたあとで、足元に三途の川が流れていたらどうしよう。
覚悟を決めてゆっくりと目を開ける。三途の川は流れていなかった。足の近くにいたのは人ならぬ殺人鬼だった。刀を握ったまま、力なく両膝をついている。苦しんでいるようにも、祈っているようにも見えた。
「いったい何が…… 鈴もないのに」
怨霊の白い唇から、冬の風のように虚ろな声が漏れる。
「サヤ」
大キク広ゲラレタ腕。ヒルガエル袖。ドコカデ見タ気ガスル。
「サヤ」
ナニカ、大切ナ物ノ名。シカシ、何ノ名ダ? ワカッテイルノハ、ソレヲ目ノ前デ無残ニ壊サレタ事ダケ。
刀夜は、髪をかきあげるようにして頭を押さえた。まるでみえない何かを振り払おうとするように、座った格好のままで刀を振り回す。
「真菜さん」
母が小声で話しかけてきた。
「今なら、あの化物の横を通って逃げられるわ」
「で、でも」
たしかに、あの男が動かない限り、斬られる範囲は相手の腕の長さと刀の長さ分だけだ。でも、化物が正気に戻って襲いかかってきたら?
「いいから! このままここにいても仕方がないでしょう!」
母が背を押す。
真菜が先頭に立って、壁に背を押しつけたままゆっくりと右へ体をずらしていく。そのまま壁に沿ってベッドから遠ざかり、そろそろと戸口にむかう。刀夜は刀を振るのをやめ、うなだれたまま、動かない。
二人は、白い幽霊の真横に差し掛かる。息を殺さなければ。真菜は呼吸を抑えようとした。しかし、そう思えば思うほど、肺が苦しくなって息遣いが荒くなる。鼓動が痛いくらいに高鳴った。
ぴしゃりと小さな水音がして、真菜のつま先が濡れる。さっき投げつけた花瓶の水が床に散っていた。滑らないよう、震える膝に力を入れる。
「きゃああ!」
派手な音を立て、ひっくり返ったのは後の母だった。
白い影は、そろそろと頭をもたげた。両膝が床から離れる。長身が完全に立ち上がった。
そして真菜の恐怖を煽ろうとするように、ゆっくりと振り返る。解けていた髪に隠れていた頬が、唇が、鼻筋が見え、両方の瞳が真菜達を捉え……
「ひ、いやぁ!」
母娘はそろって悲鳴をあげた。
男の姿が消える。一瞬、真菜の視界が真っ白になった。視点を合わせられないほど近くに、幽霊が立っていた。
そのとき、叩きつけるような勢いで扉が開いた。
「大丈夫ですか、真菜さん!」
「空也さん!」
ちりん、と鈴が鳴る。空也は帯に指していた鞘をすばやく外す。白い光が鞘からあふれだした。
白い光は、女性の姿を造りながら刀夜の前へ飛んでいった。
「刀夜様。おやめください!」
しっかりと沙耶は刀夜に抱きついた。
「大丈夫、沙耶はここにいます。もう人を恨まなくてもいいのですよ」
刀夜は刀をぎくしゃくと下ろした。まるで初めて触れる言語を聞き取ろうとするように、沙耶の言葉に聞き入っているように見えた。
真菜は空也に駆け寄る。あれほど言うことを利かなかった足が今度はすんなり動いた。
「どういうことですか、空也さん。いったいこれは……」
「真菜さん、無事でよかった」
空也は大きく息をはいた。
「もう大丈夫です。沙耶さんが来てくれたから」
「沙耶さん?」
「ええ。鞘に取りついている幽霊です。刀夜さんの恋人だった人です」
空也は、沙耶に聞いたことを真菜に語った。沙耶と刀夜、二人の悲しい恋物語を。
「恋人を殺され、悪霊になった刀夜さんを、沙耶さんはずっと押さえていたんです」
沙耶は、まるで子供にするように刀夜の頭をなでていた。刀夜はなにが起こったのか分かっていないように、無表情だ。
「それが、何かのひょうしに離ればなれになってしまったんです」
しかし、それももう終わる。もう一度沙耶に会えたのだから。これから沙耶は、刀夜を鎮めながらずっと彼の傍にいるのだろう。刀夜の心の傷が癒えるまで。傍にいる自分に刀夜が気づき、共に行くべき所へ行けるまで。
空也はクスンと鼻をすすった。
「真菜さん」
娘が振り返るのを待って、伶菜は手を振り上げる。ぱん、と真菜の頬が鳴った。
「え……?」
どうして叩かれたのかがわからずに、真菜は泣くのも忘れて目をしばたかせた。
「あなたは、なんということをするのです」
伶菜の声が震えていた。
「子供が、親をかばってどうするのです。本当は私の背に隠れなければならないのに。母より先に死ぬこと、許しませんよ」
「は、はい」
真菜は涙を浮べて微笑んだ。
「でも、本当にこんなことがあるんですね。幽霊が人を襲うなんて」
玲奈が乱れた髪を整えながらいった。
「ええ、でももう大丈夫ですよ」
空也がむけた視線の先で、沙耶は微笑んでいた。
沙耶の細い右手が、刀の柄を握る刀夜の手に重ねられた。空いた手で、切っ先を鞘へ収めていく。刀のツバと、鞘の口の間に絹糸のような紫電が走った。刃をしまうにつれ、細い細い雷は少しずつ短くなっていく。
「さあ、私はここにいます。また一緒に眠りましょう。あなたの傷が癒えるまで、ずっとそばにいますから」
その様子を見守りながら、真菜が表情をくもらせる。
「しかし、悲しい話ですね。憎しみの塊になってしまうなんて」
「たぶん、大好きな人を助けられなかったのが悔しかったんだろうね」
空也は鞘に隠れていく刀身を見守りながら言った。何人もの血に濡れた、呪いの刀。それでも銀色の刃は美しかった。
「沙耶さんを殺した人も、助けられなかった自分自身も憎くて憎くてしょうがなくて。もう、沙耶さんは父さんのことを許しているっているのに」
もしも滝ちゃんが死んだ原因が、事故ではなくて殺されたのだとしたら。しかも自分の目の前で。そうしたら、自分はどうなっただろう。
もし、真菜が斬られていたら、こうやって封印されていく刀夜を静かに見ていられるだろうか。そんなことを思うけど、空也には見当がつかなかった。
「けれど、おかしいわ」
真菜がぽつりとつぶやいた。
「鈴の音が聞こえるなら、沙耶さんの声も聞こえるはずだわ。沙耶さんが恨みを持っていないこと、わかってもいいはずなのに」
沙耶がガシャンと鞘を取り落とした。刀夜が刀を振ったのだ。
「刀夜様?」
沙耶が不安そうに刀夜を見上げる。
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