第六章 記憶の傷跡

  報告書の作成がひとまず終わって、寛次は町を歩いていた。うっかり人力車に轢かれそうになって、あわてて道の端によける。

「こんだけ仕事ばっかじゃそりゃよろけるっちゅうの!」

 思わず声に出して悪態をついた。

 まず、被害者の人間関係を洗い出し、すべての事件に共通点がないか調べる。過去に似たような事件がないかも知りたいし、パトロールは目下強化中。駆けずり回らなければならない下っ端の悲しさを、今日ほど感じたことはなかった。

「どうした、寛次。もう酒でもひっかけてたのか」

 道の向こうから紺のきりりとした着物で現われたのは美地だった。

「ああ、美地さん。お疲れ様です」

「お疲れ、と言われても、ただ散歩してるだけだがな。寛次、大変そうだな」

「ああ、昼も空也クンを病院から警察署まで送ったんス」

 そこで寛次はある事をふと思い出した。

「そういえば空也、お見舞い、真菜さんの家へ直接送ったんですって? 一体なに贈ったんです?」

「ああ」

 美地は苦笑した。

「ただの花だよ、マーガレットの鉢植だ」

「鉢植ぇ?」

 なんだそりゃ、とでも言いたそうな寛次の口調だった。『根つく』と『寝つく』が同じ音だから、お見舞いに鉢植えを贈ってはいけないのは常識だ。だからこそ、空也も病室に持ち込まないで家に送ったんだろう。

けれど、そんな手間をかけるなら普通に花束にするか、もっと別の物を贈ればよかったのに。

「それがな、切り花にすると花が枯れてしまってかわいそうだというのだよ、奴は。鉢植えなら、手入れさえしてもらえば来年もまた咲くから、だとさ」

「はっはっは。空也が言いそうなことだ」

 女だって花束を贈るとき、いちいち切られる花のことなんか気にしないだろう。化物と対等に渡り合うくせに、変な所で情けないくらい優しい奴だ。

「たぶん真菜さんは何贈ったかも、なんで鉢植えかもみんな見当ついてると思うぜ。あいつ、とっとと自白しちまえばいいのに」

「自白? 告白だろう。……無理だろうな」

 美地は小さい溜息をついた。

「私もなんとかしたいのだが、母親でもどうにもできない。あればかりは空也の気持ちの問題だからな」

「……?」

 寛次は怪訝そうな顔をした。

「ああ、そうか。寛次はこの町に引っ越してきたんだったな。あいつからは聞いてなかったか」

 美地の声は沈んでいて、深刻そうだった。つられて寛次も顔をしかめる。

「お前が来るか来ないかだから、ちょうどあいつが六歳くらいのときか。そのころあの子は、毎日友達と暗くなるまで遊んでいたよ」

 そういうことならば寛次も記憶がある。小さいときはガキ大将を張っていたものだ。

「そのなかに女の子がいてな。滝という。空也はその子と仲がよかった。結婚の約束をしていたな、そういえば」

 口元を押さえて美地は小さく笑った。

二人で座敷に上がりこみ、余所余所しく並んで正座して、何かと思ったら『けっこんのほーこく』と来たものだ。その時の空也がとっても嬉しそうだったのを今でも覚えている。

「その子が亡くなったんだ。空也の目の前で」

 美地の微笑みが消え失せた。

「え……」

「年が明けて、しばらくしたころのことだ。そのとき、たまたま空也と滝は二人だけで遊んでいた。城の傍で。ほら、池があるだろ。防火用水として水が年中貯めてあるのが。そこだ」

 頭の痛みをごまかそうとするように、美地は前髪をかきあげる。

「乗っていた氷が割れてな。滝が落ちた。空也は何とか助けようとしたんだが…… 子供は非力だ」

 美地は一度唇を噛締めた。

「空也に呼ばれて、大人達が駆けつけた頃には、滝はもう沈んでいた」

「……」

 警察署なら、書類を『死亡事故』の四文字で分類し、しまい込まれて終わる事件だ。    

しかし、その出来事に関わった人物にとって、その悲しみはきっと呪いのような物だろう。忘れようとしても、何かのきっかけで浮かび上がる苦痛。

「その日から二、三日、空也は熱をだして寝込んだよ。うわごとで、助けられなかったことを何度も何度も詫びていた。あいつは『自分の無力さ』なんて物を、まだ将来の夢すらろくに持たないときに思い知ってしまったんだ。だから、空也は真菜には告白しないよ。特に、昨日のような事件が起こってしまっては」

「女一人守れないのに告白なんてできない、てか」

 真菜に、傷を負わしてしてしまった。また守りきれなかった。きっと空也はそう思っているに違いない。

「『女は守るもの』という考え方が個人的には気にくわないが、そうなんだろうな」

 美地はいかにも彼女らしい感想を言って、肩をすくめた。

「冷たいようだが、死んでしまった者は仕方がない。泣こうが喚こうが、生き返りはしないのだから。それよりも、過去に縛られ続けている空也が哀れだ。まったく。何物にも縛られぬ、空のような人間になるようあの名をつけたのに」

「……」

 寛次が何も言えなくなったとき。何とも脳天気な声が響いた。

「あ、寛次。母さんも」

 からからと下駄をならしながら駆けて来たのは、当の空也だった。

「お、おう空也。どうした」

 今の今まで、空也に関する深刻な話をしていた二人は、なんとなく気まずい気分を味わう。だが、空也はこっちの動揺に気づかなかったようだ。

「いや、今、寛次から聞いた骨董品屋に、行ってきたんだ」

「ああ、あの鈴の。でも別にいい情報、もらえなかっただろ」

「うん、詳しい話はわからなかったけど…… 収穫はあったよ」

 そういうと空也は寛次の袖をひっぱって美地から離れた。

「そんでね寛次。お願いがあるんだけど……」

「はああっ?」

 とんでもないことを囁かれ、寛次は思わず大声を出していた。そして、聞くんじゃなかったと心の底から後悔した。

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