第二話 祝! 修くん学習塾講師仮就任

翌週、火曜日の夕方四時頃、修は自転車で望月宅へとやって来た。彼の自宅から望月宅までの所要時間は二〇分ほど。電車を使うまでもなかったのだ。

 服装はいつもの就職活動スタイル、つまり紺色のリクルートスーツとグレイのネクタイを身に着けて、黒一色のビジネスバッグを手に持った姿だ。

(いよいよ今日から、僕も就業者になるのか)

 修はわくわくしながらも恐る恐る、玄関入口横のチャイムボタンを押した。修の心拍数は高まる。

 数秒後、住民の誰かによって扉がガチャッと開かれた。

修の心拍数はさらに高まる。

「修ちゃん、いらっしゃい」

 出て来たのは、満由実さんであった。

「いらっしゃーい、修くん。私、キリンさんみたいに首を長ぁくして待ってたよ」

 数歩もすぐ後ろ側にいた。修を温かく迎え入れる。

「あっ、今日から、お世話になります、しっ、霜浦修です。よろしく、お願い致します」

 修が緊張気味に挨拶すると、

「修ちゃん、そんなに畏まらなくても」

「修くん、もっとリラックス、リラックス。こちらこそよろしくお願いしますね」

 満由実さん、数歩は優しく微笑んだ。

「お気遣い、ありがとうございます。あの、おばさん。こちらを……」

修は満由実さんから提出を求められていた履歴書と健康診断書に加え、大学の卒業証明書と成績証明書もビジネスバッグから取り出し手渡した。

「あら、助かるわ。じゃ、これも合わせて頂いておくね」

 満由実さんはありがたく受け取った。 

「優をたくさん取ってますね。すごいです修くん」

 成績証明書を覗き見た数歩が褒めてくる。

「いえ、それほど、たいしたことでは……」

 修は自分を卑下するものの、

(僕、優の評価もわりと多く取得しているけど、大学の成績は講義毎の担当教官が独自の判断で決めているからな。講義に参加した人全員に優を与えてくれる教官もけっこういるし。中高の通知表における5段階評価の5、10段階評価の9、10を取得するよりも遥かに簡単なことなんだよ)

 このことは黙っておいた。

「修ちゃん、べつにスーツじゃなくてもいいのよ」

「いやまあ、これが、僕の、普段着のような、ものですから」

 満由実さんの指摘に、修は照れくさそうに答える。

「ふふふ、とっても似合ってるわ。修ちゃんにメンバー表を渡しておくわね」

 満由実さんはA4サイズの用紙を一枚手渡す。

「ありがとうございます」

……かなり変わった苗字の子もいるな。僕の苗字以上に。

 修は数歩以外の塾生達四人の氏名も確認した。彼は塾生達が来るまで、リビングで待機させてもらう。

「どんな、子達なんだろう?」

 修の不安がますます高まってくる。出されていた紅茶とクッキーにも手をつけられなかった。

「修くん、心配しないで。みんなすごくいい子達だから」

「とっても真面目な子よ。それじゃあ、みんな来るまでしばらく待っててね」

 数歩と満由実さんからなだめられる。その二人は一足先に教室へ入り、一緒に自習学習をし始めた。

 午後四時半頃、

「こんにちはーっ! 満由実おばちゃん、数歩お姉ちゃん」

「「いらっしゃい」」

 数歩を除く最初の塾生がやって来る。玄関は通らず、教室と繋がる庭から直接だった。

 それから十数分おきに、他の三人の塾生達も同じようにして教室へ続々入って来た。

「修ちゃん、みんな揃ったわよ」

満由実さんがリビングへ戻って来て伝えると、

「はっ、はい」

 修はびくっと反応し、すっくと立ち上がった。彼は満由実さんの背中を眺めながら、緊張気味に廊下を歩き進む。

「修ちゃん、ここで止まってね」

 教室出入口扉一メートルほど手前で、満由実さんから小声で指示された。

 修はぴたっと立ち止まる。

 満由実さんは扉を引き、中へ入ると、

「皆さん、前回の授業でお伝えしたように、今日から新しい塾講師さんが来ますよ。若い男の方です。温かく迎えてあげてね」

 塾生達にこう伝えた。

「どんな感じの奴かな?」

「楽しみ♪」

 塾生達の騒ぎ声が扉越しに修の耳に飛び込んでくる。

(おっ、おばさん。プレッシャーかけないで下さぁーい)

 修はカタカタ震えながら、ロボットのような歩みで扉の前へと向かう。

 コンコンコンッと三回ノックした。

「どうぞ入ってね」

 満由実さんから告げられると、修は取っ手に指を掛け、そぉーっと引く。

 そして教室へ足を踏み入れた。

 すると、

 パチパチパチパチパチ。

 塾生達から盛大な拍手で迎えられた。

 修は塾生達と目を合わせないまま満由実さんの側へ歩み寄り、隣に立つ。

「あの、僕は、本日から、ここの塾の、講師を、務めさせていただく、霜浦、修、と、いい、ます」

 修は緊張のあまり、言葉が詰まってしまった。

修の目の前に広がる、五人の塾生達。

(視線を、感じる)

「えっと、おばさん。僕は、まず、何から?」

「自己紹介するように言ってあげて」

 戸惑う修に、満由実さんは耳元で囁く。

「では、とりあえず、その、皆さんからも、自己紹介。その、えっと、まず、こやまうちさん、から」

「おさないです。読み方よく間違えられるんですけどね。わたしが、小山内藍子です」

 その子はてへっと笑いながら立ち上がってぺこりと一礼する。背丈は一四〇センチ代半ばくらい。くりくりした丸っこい目。ほんのり茶色な髪を水玉模様のリボンでお団子結びにしていることで幼さがより一層引き出されていた。修のすぐ側、つまり一番前の席に座っていた。

「きみが、小学六年生の……」

「高一です。こう見えても今の塾生の中で一番年上なんです」

 藍子はすぐに訂正した。

「えっ、あっ、そっ、それは、失礼」

 修はとても気まずい気分になった。

「オサムっち、この一番年上っぽい子が、一番年下の小学六年生だぜ」

 一番後ろの列に座っている塾生の一人が伝え、対象の子をビッと指差した。

「はじめまして。あたしの名前は菓子紗奈でーす」

 その紗奈と名乗った子はゆっくり立ち上がって修に向かってぺこりと一礼した後、照れくさそうに自己紹介した。真ん中の列にいた。その子の隣に数歩がいる。

紗奈の背丈は、一七〇センチ近くはあるように見えた。しかしながら、みかんのチャーム付きシュシュで二つ結びにしているほんのり紫がかった髪と、丸っこくぱっちりした目、丸っこい顔つきには小学生らしいあどけなさが感じられた。

「カッシー、オサムっちと並んでみて」

 さっきの子が指示を出す。ぱっちりとした鳶色の瞳にちょっぴり広めなおでこ、四角っこいお顔が特徴的で、ほんのり栗色な髪をポニーテールに束ねている子だ。

「はーい」

 紗奈は修の横にぴょこぴょこ歩み寄り、並んでみた。

「おう! やっぱカッシーの方が高い。ちなみにアタシは一五三」

「本当に、高いね」

 修は目を少し上に向ける。彼はほんの少しだけショックを受けた。

「あたしのママ、一七三センチあるから。遺伝したのかも」

 紗奈は俯き加減でもじもじしながら打ち明けた。

「バレーとか、バスケをやってるの?」

「やってないよ。あたし、体育は一番の苦手科目だから。得意科目は音楽」

 修の質問に、紗奈はしゅんとした表情で打ち明けた。

「修先生、先入観を持っちゃダメですよ。洞窟のイドラです」

 藍子は爽やかな表情で哲学用語を用いて指摘する。

「すっ、すみません」

 修はすぐに謝罪した。

「カッシーの姿見たら、普通はそうイメージするよな。アタシも最初見た時そう思ったし。アタシは樋口絵梨佳って言います。中学二年生!」

「あっ、きっ、きみが……あと、望月さんで、もう一人が、花屋晴恵さんという子だね」

「……」

 修が問いかけると、その紗奈の隣に座っている子は何も言わずこくりと頷いた。ごく普通の形のまん丸な眼鏡をかけて、濡れ羽色の髪を黄色いりぼんで三つ編み一つ結びにしていた。とても真面目そう、加えてお淑やかで大人しそうな感じの子だった。

「では修ちゃん、あとは一人でやってね」

 満由実さんは笑顔で告げて、教室から出て行ってしまった。

「えっ、あっ、あのですね、僕は、新人なので……」

 修はかなり焦る。

「修くん、頑張れー」

 数歩からエールが送られた。

「でっ、では、じゅっ、授業を、進めて、いきます」

 修の緊張感はさらに増す。

「修先生、さっそく質問があります」

藍子から呼ばれた。 

「あっ、はい、今、行きます」

 修はすぐさま藍子の隣に駆け寄る。

「学校の宿題なんですけど、これの解き方についてなのですが……」

 藍子は数学ⅠAの問題集の該当箇所を指で押さえた。

「絶対値記号のついた、二次関数の問題か。けっこうハイレベルな問題を、やってるんだね」

「はい。この問題は飛ばしても良いと先生はおっしゃっていたのですが、わたし、二年から理系クラスに進むつもりなので、これくらいのは解けるようになっておきたいのです」

「そっ、そうですか。僕は、高校時代理系クラスでした。これは、こうやって、場合分けをして……」

「ありがとうございます。これ、満由実先生に訊いても答えられなかったんですよ」

 修がヒントを与えると、藍子はとても喜んでくれた。大学でも数学を学んで来た修にとって高校数学の問題を解くことはたやすいことだった。

「どっ、どういたし、まして」

 修は少し照れてしまう。

「ねえ、オサムっちぃー」

 絵梨佳は手をピンッとまっすぐに上げた。

「どっ、どんな、質問、でしょうか?」

 修はその子の方を振り向く。

「ナプキン、変えて来てもいいですか? アタシ、今、アレが来てる最中なので」

 絵梨佳はほんのり頬を赤らめて、照れくさそうに問いかける。

「どっ、どうぞ」

 修は少し戸惑いつつ、許可した。

「ありがとうございまーす」

 絵梨佳はすっくと立ち上がって、扉の方へ。

「絵梨佳さん、普通にトイレに行ってきますって言いなさい。修先生困ってるでしょ」

 藍子は困惑顔で注意した。

「はーぃ。次から気をつけまーす」

 絵梨佳はてへっと笑い、教室から出て行った。

「……」

 修はなんとも言えない気持ちになった。

「修くん、この理科の問題なんだけど、どうやって解けばいいのかな?」

 今度は数歩に呼ばれた。

「えっと、こっ、これは……」

 修は気にせず学習指導を続けていく。

「ありがとう修くん。あっという間に解けちゃった。修くんは〝筆記の達人さん〟だね」

 数歩はにっこり微笑む。

「えっ、あっ、それは、どういたし、まして。あの、花屋さんは、何か、質問は、ないかな?」

 修は気まずい面持ちのまま、晴恵の側へ近寄った。

 こくりと頷いて、晴恵は黙々と問題を解いていく。

(この子、僕の、学生時代とよく似てるかも)

 修は晴恵に親近感が湧いたようだ。

「修お兄ちゃん、〝きんろう〟と〝のうぜい〟って、どうやって書くの?」

 紗奈からも呼ばれる。

「こっ、これは……」

 修は紗奈の持っていた可愛らしい動物柄のHB鉛筆を借り、苦虫を噛み潰したような顔をしてプリントの該当解答欄に『勤労』、『納税』と書いてあげた。

(無職期間が長かった僕には、何とも痛く突き刺さる言葉だな)

 下線部を漢字に直せという問題で、【きんろう、教育、のうぜいは、日本国民の三大義務である】と書かれてあったのだ。

「うーん、難しいやぁ。修お兄ちゃんも難しい問題を一生懸命考えてるようなお顔してたし。あたしも真似ぇーっ」

 紗奈は眉間にしわを寄せた。

「紗奈さん、漢字は反復練習が大事よ」

「分かってる。担任の先生も同じ漢字を最低十回は書きなさいって言ってるから」

 藍子が助言し紗奈が返事したちょうどその時、

「ただいまーっ、すっきりしたよ。自習に集中出来そうだ」

 絵梨佳が戻って来て、

「オサムっち、また質問があります。円周率のπについてですが、オサムっちはこの言葉にどういった印象をお持ちで?」

 修に嬉しそうに尋ねる。

「絵梨佳さん、くだらない質問はしない!」

「あいたっ」

 藍子は絵梨佳の後頭部を、数学Aの教科書でベシンと叩いた。

(ご指導ありがとうございます。小山内さん)

 修は心の中で礼を言っておいた。彼はその後も、塾生達から質問が来ると順次対応していく。


「皆さん、少し休憩取りましょう」

 午後六時半頃、満由実さんが教室へ戻ってくる。

(やっと戻って来てくれた)

 修はホッと一息ついた。

「修ちゃん、今から塾生のみんなと一緒に記念撮影するわよ」

 満由実さんはデジカメを手に持っていた。

「ぼっ、僕、写真はあまり……」

「まあまあ修ちゃん、そんなこと言わないで」

 やや顔をしかませた修に、満由実さんは爽やかな表情で説得する。

 塾生達はホワイトボードの前に並んでいく。

「修くん、ここに並んでーっ」

「わわわ」

 数歩に腕を引っ張られ、無理やり並ばされた。

 教室後ろ側窓際でデジカメを構える満由実さんから見て、修の右隣に数歩。左隣に絵梨花。その隣に晴恵。数歩の隣に紗奈、藍子という構図だ。

晴恵の背丈は一五〇センチあるかないかくらいで、藍子の次に小柄であることが分かった。

「それじゃ、撮るわね。はいチーズ」

 満由実さんはそう告げてから約三秒後に、シャッターを押した。これにて撮影完了。

「きれいに撮れてるね。さすがお母さん」

「マユミン、すげえ」

 数歩と絵梨佳はすぐさま満由実さんの側へ駆け寄り、保存された画像を見て感心する。

数歩、絵梨佳、藍子、紗奈はにこやかな笑顔。

 修と晴恵は普段通りのすまし顔であった。

「さて、これから修ちゃんの歓迎会をするね」

「……あっ、ありがとう、ございます。僕なんかのために」

 満由実さんの計らいに、修は深く感謝した。

 ともあれみんなはダイニングキッチンへと向かっていく。

 すでにテーブルの上に夕食が並べられてあった。

 満由実さんはさっきの間、これの準備をしていたのだ。

大皿に乗せられた鯛やマグロ、イカ、ウニ、貝柱などの刺身盛り合わせ。

 他に、中華料理なども用意されていた。

七人は椅子に座る。

時計回りに修、数歩、絵梨佳、晴恵、藍子、紗奈、満由実さんという座席配置。

 修は晴恵と向かい合うような形となった。

「それでは手を合わせて」

 満由実さんがそう告げると、塾生の五人はすぐに両手を合わせた。

「あっ……」

 修はワンテンポ遅れてしまった。

「修ちゃん、そんなに慌てなくていいのよ」

 満由実さんは優しく微笑む。

「おあがりなさい」

「「「「「いただきます」」」」」

 こう告げると塾生五人、

「いただき、ます」

そして修と満由実さんも食事に手をつけ始める。

「修ちゃん、遠慮せずにどんどん食べてね」

「はっ、はい」

修は当然のように緊張していた。女の子達に囲まれて食事をするのは、彼の人生初めての体験だからという理由が一番大きい。

「修先生、これどうぞ」 

 藍子は修の前の並べられていた小皿に餃子とシューマイを入れてあげた。

「あっ、どっ、どうも」

 修は軽く頭を下げてから受け取る。

「オサムっち、これ食べて。めっちゃ美味いぜ」

「どっ、どうも」(わさび塗れなのですが……)

 絵梨佳の厚意に、修は困惑する。

「修お兄ちゃん、ゴマ団子どうぞ」

「修くん、大トロだよ。すごく美味しいよ」

 紗奈と数歩もよそってくれた。

「あっ、ありがとう」

(えっと、刺身醤油。あっ、すぐ前にあった)

 修は手を伸ばし、刺身醤油の瓶を取ろうとした。

「あっ、ごめんね」

 その際、同じく取ろうとしていた晴恵の手の甲に触れてしまった。慌てて謝る。

「!!」

 晴恵はびくーっとなって、反射的に手を引っ込めた。さらにその子は下を俯いてしまった。

(どうしよう。嫌われちゃったかな?)

 修はとても気まずい気分になった。

「修ちゃん、お飲み物どれでも好きなのを選んでね」

「あっ、はい」

 テーブルの上には烏龍茶、オレンジジュース、メロンソーダ、レモンサイダー、コカコーラのペットボトルも置かれてあった。

 修は慎重な動作で烏龍茶のペットボトルを手に取り、コップに注ぎ入れる。

「ねえ、修くん、塾講師になる前は無職だったんでしょ?」

「えっ、まあ、お恥ずかしながら」

 数歩からの突然の質問に、修はびくりと反応する。思わず烏龍茶をこぼしそうになった。

「私、そのおかげで今日は助かったよ」

「へっ!? どういうことで、しょうか?」

 修はぽかんとなった。

「五時限目の理科の授業中、フェノールフタレイン液を加えた水酸化ナトリウム水溶液に、塩酸を少しずつ加えていくと、水溶液の色は赤紫から何色に変化するのか答えなさいって当てられたんだけど、私、居眠りしてて寝惚けてて、修くんのことが頭に浮かんじゃって、思わず無色って答えちゃったの。そしたら当たってて。先生に褒められちゃった」

数歩は満面の笑みを浮かべながら伝えた。

「それは、どうも……」

 数歩はどう突っ込めばいいのか分からなくなった。

「オサムっちは肉食系でも草食系でもない、無職系なんだね」

 絵梨佳はくすくす笑う。

「絵梨佳お姉ちゃん、そんなこと言ったら失礼だよ」

 紗奈は注意する。

「いいんですよ。僕にとっては、無職は称号のようなものですから」

 修はむしろ喜んでいた。

「私、青色だと思ってたんだけどなぁー。それでもっと加えると黄色になって、また赤紫に戻るの」

「信号機じゃないんだから。期末テストでも出題されると思うから、しっかり覚えておくようにね」

 藍子は爽やかな表情で忠告する。

「はーぃ」

 数歩はてへっと笑い、舌をぺろりと出した。

修はこの後も、満由実さんや塾生達と少しだけ会話しながら食事を進めていく。

 数雄とお父さんは、今日はみんなに気を遣って外食するとのことだった。


「皆さんもう食べ終わったね。では手を合わせて」

夕食後、満由実さんからの合図で塾生達はすぐに手を合わせる。

「あっと……」

 修はまたもワンテンポ遅れてしまった。

「修ちゃん、慌てなくていいよ。ごちそうさま」

 満由実さんは優しく気遣ってくれる。

「「「「ごちそうさまでした」」」」

「ごちそうさまでした」

「ごちそう、さま、でした」

満由実さんの合図に続いて合わせるように塾生達、晴恵と修もワンテンポ遅れて手を合わせて食後の挨拶をした。

「オサムっち、カズポンが言ってた通り、見るからにすごくいい人そうだね。ねえ、オサムっち、似顔絵描いてもいい?」

 絵梨佳は通学カバンからスケッチブックを取り出し、お願いしてくる。

「べっ、べつに、かまわないですけど……」

「やったぁ!」

 修が承諾すると絵梨佳は大喜びし、筆箱から4B鉛筆も取り出した。スケッチブックを開き、4B鉛筆をシャカシャカ走らせる。

 三〇秒ほどのち、

「はい、完成。どうぞオサムっち」

 絵梨佳は描いていたページを千切り取り、修に手渡した。

「えっ、もう出来たの!? ……しかも、かなり、上手い」

 修は自分の似顔絵を見て、驚き顔になった。

「絵梨佳ちゃんは、美術部に入ってるの」

 数歩は説明する。絵梨佳は同じ中学の後輩なのだ。

「あっ、どうりで」

 修はすぐに腑に落ちた。

数歩以外の塾生達が全員帰った後、

「修ちゃん、今日はどうだった?」

 満由実さんから早速感想を訊かれる。

「僕、非常に、緊張致しました。その、人に、教えると、いう経験は、生まれて、初めてでしたから」

「そっか。でもよく頑張ってたよ、修ちゃん」

 満由実さんはにこりと笑い、修の頭をなでてあげた。

「あっ、あの、ですね」

「何かしら?」

「花屋晴恵さん、という子なんですけど」

「あの子ね。けっこう人見知り激しいのよ。中一の頃一時期、不登校になってたこともあって。その時に、この塾の方へ通うようになったの」

「あっ、そっ、そうなんですか」

 修は晴恵に憐憫の気持ちが芽生えた。

「絵梨佳ちゃんと小学校時代からすごく仲が良いみたいだよ。中学二年生で初めて同じクラスになって、また学校へ行けるようになったんだって」

 数歩は嬉しそうに教える。

「いい話ですね。あの、樋口さんは、花屋さんの勧めで、この塾へ通うようになったのでしょうか?」

「いやいや、違うのよ。絵梨ちゃんは今年の七月に入塾したばかりで、今いる子達の中では一番最近に入って来た子なんだけど、絵梨ちゃんの意思で入ったわけじゃないのよ。絵梨ちゃんのママから、絵梨ちゃんをここの塾に通わせてあげてって頼まれたのよ。絵梨ちゃんは、定期テストの成績がいつも悪いからって理由でママに無理やり入れさせられたんだって嘆いてたけどね」

 満由実さんは笑顔で伝える。

「学習塾に通う子って、親に言われて仕方なくって子も多いらしいですからね」

 修は共感した。

「私はお母さんの授業大好きだけどなぁ」

 数歩はにっこり微笑んだ。

「ありがとう数歩」

「樋口さんは、僕には、ちょっと苦手なタイプです。真面目そうな感じではないですし」

 修は苦い表情で伝えた。

「ふふふ、じつはワタクシ、絵梨ちゃんのママと幼馴染なの。ワタクシより、三学年年下よ。あの子、今でもワタクシのこと満由実姉ちゃんって呼んでくれてるの。そんな人懐っこいところ、絵梨ちゃんにそっくりなのよ」

 満由実さんは笑顔で語る。

「遺伝、してるんですね、性格が」

 修は苦笑する。

「そんな絵梨ちゃんも、藍ちゃんには逆らえないみたいよ。藍ちゃんは、小学二年生の頃から数歩とずっと通ってるの」

「そうなんですか」

「藍子ちゃんは、私のお姉ちゃんみたいな存在だよ。妹にしたいけどね」

 数歩は嬉しそうに伝えた。

「修ちゃん、塾講師の務めは授業をするだけじゃないわよ。ちょっとお部屋に来てね」

「はい」

 修は満由実さんのお部屋に招かれる。

 数歩も付いていった。

 満由実さんのお部屋には幅一メートル奥行き五〇センチ、高さ二メートル近くはある大きな本棚が三つあった。膨大な数の教科書・参考書類やプリント類が教科ごと学年ごとに、きれいに整理整頓されて並べられてある。

机の上には、デスクトップパソコンも置かれてあった。オリジナルテキストや自習プリント作りに重宝しているらしい。

 八畳ほどの広さがある洋室だが、かなり狭く感じられた。

「修ちゃんに、学習塾講師としての適性能力を測るために、一つ重大な任務を与えるね」

 満由実さんから突然告げられる。

「どういった、任務なのでしょうか?」

 修はつばをごくりと飲み込んだ。心拍数も急激に高まる。

「修ちゃんにも、塾生一人一人の学力に合った自習プリントを作るのを手伝ってほしいの」

「そりゃもちろんいいですよ。仕事が頂けることは大変光栄なことです」

 満由実さんの依頼を、修は快く引き受けた。

「あっ、でも、どのように、作成すれば……」

 しかしすぐに困ったことが出て来た。

「最初は分からなくても無理ないわ。今回はワタクシがサンプルで作ったものを参考にしてみてね」

「はい」

 満由実さんは塾生達の苦手分野を表にまとめたプリントも合わせて修に手渡した。

「修ちゃん、パソコンに詳しいみたいね。大学でプログラミング演習とか、データベース基礎論とかいうのを履修しているし」

「いえいえ。僕、それらの講義ほとんど理解出来ませんでしたから」

「修ちゃんったら、控えめね、良の評価取ってるのに。修ちゃんはとても優秀な子なんだから、もっと自分に自信を持ちなさい」

「はい。分かり、ました」

満由実さんに優しく諭され、修は照れくさそうに返事する。

「塾生のみんなの成績は、これを見れば分かるわ」

 満由実さんは続いて、とある資料が綴じられたファイルの束を机の引出から取り出した。彼女は学校のテスト用紙とその個人成績表、通知表のコピーを、結果が出るたび塾生達に提出させている。満由実さんは塾生達の苦手教科の成績をどうすれば効率的にアップさせられるか、日夜研究に努めているのだ。

「えっ、いいんですか? こんなプライバシー的なもの、僕なんかが覗いて」 

「もちろんよ。というか、見なきゃダメよ。修ちゃんも、もうここの塾講師なんだから」

 罪悪感に駆られる修に、満由実さんは優しくそう告げた。

「分かり、ました」

 修は恐る恐る、一番上に置かれてあるファイルから手に取り確認していく。

 各ファイルに、塾生達の名前が書かれてある。分かりやすいよう一人一人別々にまとめてあるのだ。

「私のも見られるから、ちょっと恥ずかしいな」

 数歩はほんのり頬を赤らめた。

「小山内さんは、けっこう成績良いんですね。通知表もほとんど8以上取っていますし」

藍子の今年度二学期中間テスト総合得点は、八〇〇点満点中六九八点。学年順位は三〇五人中一八位だった。

「藍ちゃん用のは、基礎レベルの問題は大方マスター出来てるから、得意分野をさらに伸ばせるように、応用から発展レベルの問題を多めに取り入れてるの。さすがに高校レベルともなるとオリジナル教材を作りにくいから、市販の教材を使わせていただく場合がほとんどよ」

「そうでしたか。菓子さんの分は、たくさん、ありますね」

 小学生の紗奈については定期テストは無いため、頻繁に行われる単元別のテストを提出させていた。算数と理科は六〇点前後、その他は八〇点前後であった。小学校のテストは満点が当たり前なので、普通よりちょっと悪いと修は判断した。通知表も3段階評価で音楽が3、体育が1という以外は全て2であった。

「紗奈ちゃんは、小学四年生の頃から通い始めたの。あの頃でもワタクシと背が同じくらいあったわ。性格は幼いけどね」

「確かに、背は僕より高くても、やはりしぐさを見ると小学生だなと感じました。花屋さんは、わりと優秀ですね……あの、樋口さん、確かに良くないですね。全部平均点以下なので。総合得点も二百点台半ばですし。通知表も2が多く……美術だけはしっかり5取ってる」

 修は困惑顔で、絵梨佳の成績表を眺める。

「絵梨ちゃん、主要五教科はどれも苦手みたい。ワタクシの教え方では、成績をあまり上げられなかったわ」

 満由実さんは苦笑した。気にしているようだった。

 修は続いて、数歩の分を確認した。

「修くん、私は数学と、理科の特に一分野が大の苦手なの。私、この間の中間テスト、数学と理科でかなり悪い点採ってるでしょ」

数歩は照れくさそうに打ち明けた。

「理科が平均61点の45点。数学が平均67点の48点だね。公立中学で、それも、学内の定期テストで、これでは、ちょっと……」

 修は数歩の中間テスト結果表を眺め、難しい表情を浮かべた。

「やっぱり悪いんだよね。テスト前は、すごく頑張って勉強したんだけど、暗記が利かないからね。私、藍子ちゃんが行ってる高校狙ってるの。でも、中間の後の面談で、担任からはもう一ランク下げるように言われちゃって」

 数歩は落ち込む。

「いや、まあ、中学レベルでしたら、じゅうぶん挽回は可能かと。それに、国社英は全部平均点を二〇点近く上回っているので」

 修は勇気付けようとした。

「他の教科は特に問題ないみたいだから、修ちゃん、数歩には、数学と理科を重点的に教えてあげてね」

 満由実さんは修にエールを送る。

「はい。僕、その科目は、一応得意ですので」

「修くん、よろしく頼むよう」

「あっ、あの……」 

 数歩に背後からいきなり抱きつかれ、修は焦った。

「塾生のみんなの成績アップ、特に絵梨ちゃんが期末テストで中間よりも良い点取ることが出来るように、修ちゃんも勉強の手助けをしてあげてね」

「分かり、ました」

 満由実さんの要求を修は引き受けるも、

(僕なんかに、あの樋口さんの成績を上げることなんて出来るのかな?)

脳裏に一抹の不安がよぎった。

「修くん、涙が出てる?」

 数歩は指摘した。

「僕、今、とても嬉しいんですよ」

修は目に涙を浮かべながらこう説明する。彼は仕事を与えてもらえることのありがたみを、今までどこからも雇ってもらえなかったこともあって人一倍強く感じているのだ。

「喜んでもらえて、ワタクシもとても嬉しいわ。修ちゃん、次は金曜日ね」

「はい」

 修は満由実さんから教科書・参考書類も何冊か受け取り、望月宅をあとにする。


(塾生みんなの、さらなる成績アップに努めるぞ)

家に帰ったあと、修はさっそく教科書・参考書、満由実さんからいただいたプリント類を机に上に並べ、ノートパソコンも立ち上げた。ノートパソコンは大学時代の講義レポートや卒論の作成、そして就職活動などで大変重宝したものだ。

(メールが何件か入ってるな)

 修はお知らせアイコンをクリックし、メールの中身を開いてみた。

(一週間くらい前にネットの応募フォームからエントリーした、鉄道車両部品の製造工場と、食品メーカーと、広告代理店と、老人ホーム。四社からの不採用通知か。僕の就職活動は、もう一応終わったんだ)

 修はそのメールを得意げな気分で削除した。

 今までは不採用通知を眺めるたび沈んだ気分になっていたが、今回はとても清清しい気分であった。すでに就職先を決めているからだ。

修はとても楽しそうに、自習プリントの作成作業を進めていったのであった。

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