第一話 国立大学は出たけれど

「それではまず、霜浦さんの自己PRをして下さい」

「僕、わたくしは……その、けっこう、几帳面な、性格でして……地道な努力家で、継続力があり、挑戦意欲が高く、慈悲深く…………あの……えっと…………」

神戸市の中心地、三宮のオフィス街に佇む、とあるウェブシステム開発会社の会議室。

ここで今、入社面接が行われている。

室内中央付近にぽつんと置かれた折り畳み式パイプ椅子に座る修と、長机備えの木製椅子に座る三人の面接官とが向かい合う座席配置。

面接官は修から見て右前方に三〇代後半くらいの女性、真正面に五〇代前半くらいのがっちりとした薄毛の男性、左前方に二〇代後半くらいの眼鏡をかけた若々しい男性であった。

「……えー、では問い方を変えますね。霜浦さんが今までで最も一生懸命取り組んで来たこと、これだけは誰にも負けないということをお聞かせ下さい」

「えっと、わたくしはですね、その、地理とか、数学の、勉強などを……大学では、数理科学を専攻し……卒業研究では、ある社会現象に対して、連立微分方程式を、組み立てて、数理モデル化し、ヤコビアンの固有値や、平衡点の安定性を調べて、解の挙動を、Mathematicaという、数式処理システムを利用して、その、解析を……高校時代、地理だけは、定期テストや、全統模試で、学年トップに、輝いた、こともあり……その……」

「それらの経験を通じて、具体的には、どのような能力が身に付きましたか?」

「えっと……その、えーまあ、強いて言うなら、粘り強さ、でしょうか…………」

 面接開始当初から女性面接官がやや困惑顔で、次々と質問を投げかけてくる。修が緊張気味に答えていくと、面接官三人とも何かメモをとるしぐさをし始めた。おそらくは採点をしているのであろう。

「ワタシの方からも二、三尋ねさせていただきます。うちの会社を志望した動機は?」

 真正面にいる、重役と思われる面接官からも質問が来た。

「えー、その、御社では、メインの、ホームページ製作業務のみならず、地図作成ソフトという、ソフトウェアも、開発されておられるという点に、わたくし、特に興味を惹かれまして……その、他社にはあまり無い、独自性というか、社員数五〇名ほどしかいない、中小IT企業なのに、業務が、多岐に渡っているというか……加えて、わたくしが、大学時代に学んで来た知識も、大いに、活かせるのではないかと……えーまあ、そういうことです」

 修は時折、言葉を詰まらせながらも何とか必死に伝えようとする。

「何か、スポーツ経験は?」

「……特には……ないです」

 次の質問に対し、修はその面接官と目を合わせながらも、自信無さそうに答えた。

 そのあと数秒間、沈黙が続く。

この面接官は終始、険しい表情であった。

「大学をご卒業されてからは、どのように過ごされて来たのでしょうか?」

 そして左前方にいる若手面接官からの質問。彼はにこやかな表情であった。修が事前に送付していた履歴書の学歴・職歴欄を確認する。

この質問は、修にとって非常に痛い所を突かれるものだ。

「えー、その、食品メーカーや、電機メーカーや、農協、老人ホームなど、いろいろな企業を受けつつ、資格試験や、公務員試験にも、チャレンジを……」

修は硬い表情のまま、ぼそぼそした声で正直に答えた。

「資格について、少しお尋ねします。弊社でも取得を推奨している基本情報技術者につきまして、来月取得見込みと記載されてあるのですが、これは、つい先日行われた分を受験されたということですね?」

 若手面接官は続けて、履歴書の資格欄に目を移して質問をする。

「はい」

「その分の試験について、自信の程はいかがですか?」

「それが、その……ちょっと、あの、午後の試験の方が……その、春に受けた、ITパスポートは、楽に取得出来たのですが、こちらは、けっこう、難しかった、ですね……」

このようにたどたどしく答えた修に対し、

「そうですか。分かりました」

 若手面接官はちょっとだけ顔を顰めた。

「霜浦さんは、今何かアルバイトはされていますか?」

 再び女性面接官から質問が来る。

「いえ、それすらも、ずっと落とされまくってる、状況で、ありまして……」

 修が俯き加減でこう答えると、

「えっ! ……アルバイトもですか?」

 女性面接官に驚かれ、くすっと笑われてしまった。

「はい。そうなんですよ、事実」

 修は顔を真正面に向けて、開き直ったように言う。

「「……」」

他の二人の面接官からも苦笑いされてしまった。

「では本日の面接はこれにて終了致します。採否結果は一週間以内にお知らせします。お気をつけてお帰り下さい」

 その数秒後、真正面にいる面接官がやや早口調で告げる。

「……ありがとう、ござい、ました」

 修はかくんと頭を下げてお辞儀をしてから、おもむろに立ち上がった。ぎこちなく体の向きを変えて、ロボットのようにカタカタとした動きで出入口扉の前へと向かう。

「失礼、致します」

辿り着くと面接官の方を向いて再度お辞儀。その所作もどこかぎこちなかった。

修はまた扉の方を向くとドアノブに手を掛け、そぉっと開ける。廊下へ出たのちゆっくりと閉めて、会議室をあとにした。

(あぁ……今回も絶対、不採用だろうなぁ。試験案内には〝面接は一時間程度を予定しております〟と書かれてあったけど、五分くらいで終わったし――今までにも何度もあったことだけど。今回に限っては最後に何かご質問はありますか? とも訊かれなかったな)

先ほど受けた会社が入居する古びたオフィスビルから外へ出た修は、沈んだ気分でJR三ノ宮駅へと向かって歩き進む。その姿は傍から見ると、紺色のリクルートスーツがマッチ棒みたいな形をして路上を舞っているようだった。

修の身長は一六五センチ。体重は五〇キロにも満たない。標準的な成人男性と比較すれば、かなりみすぼらしい体格といえよう。そのうえどんよりとした目つきで大抵いつも暗い表情、鈍重な立ち居振る舞い、声が小さく話すペースも遅い。いかにも頼りなさそうな風貌なのだ。そんなただでさえこの人とはお付き合いしたくないなぁと、第一印象で思われ嫌厭されやすい特徴であることに加え、修は先ほどのやり取りを見ても明らかな通り、面接を大の苦手としている。

集団面接、集団討論(グループディスカッション)の場において修は毎回、同じグループになった他のメンバーと比べて最も発言量が少なかった。しかもその発言内容も場をしらけさせてしまうような、あまりに突飛で的外れなものであることが多かった。他のメンバーや面接官を苛立たせたり、唖然とさせたりして来たことは枚挙に暇が無い。入室してから着席するまでと退出する際の動作も、他のメンバーと見比べて悪い意味で一番よく目立ってしまうことが常であった。

今回受けたような個人面接の場においても、訊かれた質問に対して返答するまでに、かなり時間がかかってしまうことがこれまでにも度々あった。そして答える時は大抵しどろもどろになってしまう。

ようするに修は、コミュニケーション能力が著しく低いのだ。

面接結果は言わずもがな、いつも不採用となっている。

就職活動を始めた当初、二一歳の大学三年生だった修も、いつの間にか二七歳になってしまった。もう六年以上もの歳月、就職活動を続けていることになる。けれども未だ、どこからも雇ってもらえない状況が継続中というわけである。

修がこれまで不採用となった企業の数は書類選考落ち、応募後音沙汰無しも含むとはいえ聞いて驚く無かれ、なんと延べ五百社以上にまで達している。正社員はもちろんのこと契約・派遣社員、アルバイトですらも断られ続ける日々。公務員試験も、筆記は高確率で通過出来るのだがやはり面接で撃沈。

就職活動をしていく上で、ごく普通の人であれば十社も受ければ少なくとも一、二社は採用に至るものだ。修がいかに社会から必要とされていないのかがよくお分かりだろう。

それでもこんな惨めな修にでも、接して来てくれるものがあるにはあった。

「こんにちはー、大学生ですかぁ? 今、就活に関する意識調査を実施……」

「…………」

修は目を合わせないようにして先を急ぐ。駅へ戻る途中、彼に接して来たのは黒のレディーススーツを身に纏い、ボールペンとアンケート用紙を手に持った三〇歳くらいの女性だった。

(僕はもう大学生ではないし。まあ、浪人留年休学しまくって、僕よりも年上の大学生もけっこういるみたいだけどな。これって、喫茶店や営業所に連れ込んで、英会話教室とか資格講座とかの契約をしつこく強引に迫ってくるアレだろ?)

修は表情を曇らせる。その女性は彼の推測通り、就職試験会場周辺や駅前、繁華街の信号機横などに現れ、アンケートと称して近寄ってくるキャッチセールス集団の一人であった。

「すみませーん、きみ、学生さんだよね? ちょっとだけお時間を……」

修がここを振り切っても、しばらく歩き進めば同集団に属する別の人物が近寄ってくる。見るからに弱々しい風貌の修は、彼女らにとって格好のターゲットなのだ。

(磁石かよ、僕は――)

かわすことは容易だが、接して来る度なんとも胸糞悪い気分になってしまう。

(僕は簡単に入れる冴えない地方国立大卒。東大でなくとも旧帝大のどこかか早慶に入れていれば、状況が少しは違っていたのかもしれないな) 

 ふと予備校の広告を見つけ、修は己の学歴の低さに改めて失望感を抱く。彼は学業面においても落ちこぼれだったのだ。

駅へ近づくにつれ、人通りもかなり増えてくる。

修のように一人で歩いている者よりは、複数で行動している者の方がずっと多かった。

そんな中、

「今日の懇親会におった阪大とか神大のやつら、マージうざかったよなぁ」

「あぁ。なんであいつらが俺らと同期なん? って思ったで。ていうか俺らみたいなFラン大の内定者、他にほとんどおらんかったな」

 とあるコンビニエンスストアの出入口から、修と同じようなリクルートスーツ姿の男性二人組が現れた。

「周り高学歴ばっかやのにオレらが内定もらえたんも、筆記が替え玉してもバレんWebテストやったからこそやな」

「ほんっまそれやー。甲南大の高嶋さんに感謝せなな。俺らの頭じゃ普通に受けたら絶対その時点で足切り食らって面接へ進めんかったで」

会話内容から察するに、おそらく就職活動をめでたく終えた、来春卒業を迎える大学生なのであろう。彼らは修の前方を遮るように並んで歩き進む。二人とも背丈は一八〇センチ近くあった。

「面接まで行きゃぁあとは楽勝やもんなー。高嶋のやつも公務員受かりやがってマジむかつくわー、二度と合コン誘いたくねー。そういやオレと同じゼミに横山さんってのがおるねんけど、あいつまだ内定一社も出んから就活続けとるらしいで。もう一年近くになるとか、五〇社以上連続で落ちた言うてはったし」

「マージで!? ちょっと引くでそれ。そんだけ受けて決まらんとかあり得んやろ、そいつどんだけ無能なんよ。俺なんか一社目で即効決まったで」

「やるなあ。オレは一社目最終面接落ちで、二社目で初めて内々定もらった。不況や言うてるけど楽勝やったよな。オレの武庫女の彼女も三社目で地銀に決まっとったわー」

 男子大学生二人組は缶コーヒーを飲みつつ生き生きとした表情で、楽しそうに会話を弾ませる。次の瞬間、彼らはとんでもない行動をとった。飲み終えた缶コーヒーを道路脇に平然とポイ捨てしていったのだ。罪悪感に全く駆られてないのだろう、彼らはスマートフォンを取り出しいじり始める。

(僕なんか、その横山さんとか言うやつよりさらに五年以上余分に長く就活続けてるんだぜ。不採用は彼の十倍以上だ。世の中には、リア充高身長なきみたちの想像を遥かに絶する社会的無能人間が存在するものなのだよ……口が上手くて要領良くて、社交性のあるやつらは大学のレベルに関係なく、あっさり内定取ってくるよな……採用担当者共はあんなろくでもないやつらに内定を与えてるのかよ。あいつら入社試験会場内では礼儀正しくマナー良く振る舞ってるんだろうけど、外へ出ればあんな態度だ……皮肉なことに、ああいうタイプの人間って、他人に媚びへつらうのも上手いんだよな)

 彼らの発した言葉や行動に、修は強い憤りを感じた。思わず路肩に落ちていた小石をぶつけてやろうかと思ったほどだ。

(僕の方が、あいつらなんかよりもずっとずっとモラルの高い人間だってことを教えてあげよう。これは、スチールだな)

 修はU字磁石のような形に腰を曲げ、彼らの投げ捨てた二本の缶コーヒーを拾い上げて、そこから三〇メートルほど先にあった自販機横の空き缶入れにきちんと分別して捨ててあげた。

(……学生の身分の内に易々と仕事にありつけてしまうやつらって、仕事をさせてもらえるということが、いかにありがたいことであるのかが一切理解出来ない人間になっていくんだろうな。仕事はもらえて当然、適当に仕事してても給料いっぱい貰えるんだって舐めた考えになるんだよ、絶対。特に一流企業勤めや公務員の方々はその傾向が顕著だろう。何でも自分の思い通りになるという、我侭で横柄な人格も形成されていくに違いないぞ。実際、仕事に就いてるやつらって、短気で傲慢でモラル低いのばかりだからな。さっき商社マンっぽい三人組が平気な顔で信号無視して横断歩道渡ってるのを見たし。道いっぱいに広がって、のろのろ歩いてるサラリーマン・OL連中はけっこう見かけるなぁ。他の歩行者の邪魔になってるってことを何とも思わない自己中なやつらなんだよ、きっと。だいたい悪徳業者の存在。パワハラ、不当解雇、給料未払いといった職場いじめっていうのは、冷酷で悪辣でモラルの低いやつらばかりが仕事にありつけてしまっているからこそ、社会問題化してるんだろ)

修は俯き加減で歩きながら、心の中で持論を呟く。長きに渡る不採用経験から人間的にも歪んでしまった彼は、そんな心情が芽生えてしまっていた。

 

「ん?」

 JR三ノ宮駅構内、中央口改札を抜けたちょうどその時、修所有のスマホがブーッと震えた。

(メールか)

 修はホームへ通じる階段を上りながら、スマホをズボンポケットから取り出す。

採否結果のご案内かよ。

修は件名を見ると、期待を全くせずにメールの中身を開いてみた。

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霜浦 修様

                      株式会社一迅ソフト

総務部人事課採用担当 三木田 一哲 


            採否結果のご案内


清秋の候、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。

この度は、弊社求人へご応募いただき、誠にありがとうございました。

さて、今般の選考に当たりまして慎重に検討いたしました結果、今回は貴意に添えないとの結論に至りました。何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。

 末筆ながら、貴殿の今後ますますのご健勝をお祈り申し上げます。   

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 このような不採用通知の定型文ともいえる文面が、横書きで彼の目に飛び込んで来た。

(……またかよ。日常的にもらい慣れているとはいえ、やはりきつい、精神的に。ていうかさっき受けたばかりの会社じゃないか。来るのが早過ぎだろ、一週間どころか一時間も経ってないぞ。それに、書面ではなくメールって失礼だろ。いつも思うが何が〝慎重に〟だよ。どうせ即、不採用って決めたんだろ……まあ、通知が来るだけでも良心的だな。応募してもそれ以降全く音沙汰ない場合も多々あるから)

 修は心の中で嘆き、肩をすぼめる。

(僕に、いつまで就活させる気だよ? どこまで僕を追い込むのか――)

 修の社会に対する恨みは日に日に増すばかりだ。彼が長年の就活経験で失った履歴書代、証明写真代、交通費、履歴書などを送付するための封筒代や郵便料金……それらの額は莫大なものになっていた。

経歴にも、救いようのないくらい致命的欠陥を抱えてしまった。学生の身分の内に就職先を決め、最終学歴後すぐに勤務し始めるのが一般的な日本社会。修のようにそのレールから外れた者は就職がますます困難な状況に追い込まれてしまうのだ。

事実、修も大学を卒業して無職となって以降は書類選考の段階で撥ねられ、面接にすら辿り着けないケースが顕著に増えていた。

(内定通知って、本当に実在するのかよ? 伝説上の幻のアイテムなんじゃないのか? ここまで不採用が続くと、その存在すら疑わしいぞ……)

修にとって内定通知なんてものは、もはや空飛ぶ絨毯やランプの魔人、河童、ヤマタノオロチ、ペガサス、ケンタウロスといった空想上の存在物と化しているのである。

(……なんか、就職活動をすればするほど、ますます内定からは遠ざかっているような錯覚さえしてくる。僕の履歴情報がいろんな企業や役所に行き渡って、採用しないように仕向けられているんじゃないのか――これだけたくさん受けまくっていればな) 

 修は不採用通知を受け取ったショックからか、ホームのベンチに座り込んでしまった。そして根も葉もないことを頭に浮かべてしまう。

(癒しが欲しい。面接、予定より随分早く終わっちゃったし、あそこにでも、寄るか)

 ふと、そう思い立った修は、ほどなくして同じホームにやって来た松井山手行き各駅停車に乗り込み、次の灘駅で途中下車した。そして構内を出て北方向へ五分ほど歩いた所にある、王子動物園に入園する。閉園時刻の午後五時まで、まだ一時間以上あった。修はとぼとぼ歩きながら、園内の動物達を観察する。 

(動物園の動物達は幸せか否か、っていうのも、集団討論のテーマになったなぁ。競争せずにエサにありつけるし、怪我をしたり病気になったりしたら獣医に診てもらえるし、どう考えても幸せだろ……あの時は、言いたい事がほとんど伝えられなかったな)

 ここにいても、どうしても就職試験のことが頭に浮かんでしまう。

(……あのエミューの顔が、さっきのおばさん面接官の顔に見えてくる)

いらいら気分も湧き上がってくる。

(いっ、てえぇぇーっ!)

よそ見しながら歩いていたら、園内に植えられてある木の幹にゴツンッと激突してしまった。修のつま先と鼻頭にジンジン激痛が走る。

(あいたぁーっ)

さらに振動からか、この木の上から実が落下し、彼の脳天をコツンッと直撃した。

(……泣きっ面に蜂かよ、僕は)

じつに無様である。

(ここにいてもろくなことが無いし、そろそろ出るか)

 修が正面ゲートへ戻ろうとした。


その直後、予期せぬことが起きた。


「レッサーパンダさんは、すごくかわいいですよね、お兄さん」

いきなり背後から一人の女の子に、ほんわかした口調で話しかけられたのだ。

「へっ!?」

修は恐る恐る後ろを振り向く。

そこにいた子は、面長ぱっちり垂れ目に細長八の字眉、丸っこい小さなおでこが特徴的で、ほんのり栗色な髪を真っ白な花柄シュシュで二つ結びにしていた。少し痩せ型。服装は三つボタンのついたえんじ色のブレザーに、萌黄色チェック柄スカート。学校の制服姿と思われる。

「こんにちはーっ、はじめまして。私、山手西中学三年の望月数歩って言います。あのっ、藪から棒ですが、もしよろしければ、お兄さんのお名前も聞かせてくれませんか?」

その数歩と名乗った女の子は修に顔を近づけ、にこやかな表情で問いかけてくる。修は緊張からか、額から冷や汗がつーっと流れ出た。ドクドクドクドク心拍数も一気に上がる。

「ぼっ、僕ぅ!? ぼっ、僕の、名前は、しっ、霜浦、修、です、けど……」

 修は面接時のように言葉を詰まらせながら、思わず答えてしまった。

「霜浦修くんっていうんですね。過去にオワンクラゲの研究でノーベル化学賞を取ったあのお爺ちゃんと、お名前が良く似ていますね」

 数歩は舌をぺろりと出した。

「あっ、どっ、どうも、たまに、面接官からも、言われます……」

なっ、なんだ、この子は?

 修はどう反応すればいいのか分からず戸惑う。

「修くんは、王子動物園へはよく来られるんですか?」

数歩はさらに質問して来た。

「いえ、あの、その、今日は、たまたま、帰りに、ふらっと」

 修は慌て気味に答える。

「奇遇ですね。私もなんですよ。今日、校外学習で『人と防災未来センター』へ行ったんですけど、解散した後、おウチへ帰る途中に久しぶりに寄ってみたんです。私、動物さん大好きなので」

 数歩はとても幸せそうな表情を浮かべていた。

「あっ、そ、そうなんですか」

 修の表情は緊張でさらにこわばる。

「レッサーパンダちゃーん、こっち向いてーっ」

 数歩はその動物がいる檻に向かって大声で叫びかけ、手をぶんぶん振る。

(……この子とは、関わらない方がいいな)

 修はそう感じ、数歩から遠ざかるようにスタスタと歩いていく。

 しかし、

「あっ、待って下さい修くん」

ほどなくして数歩に追いつかれてしまった。

「あの、僕は、今忙し……」

修は行く手を阻まれる。

「あのねっ、修くん。私から、ちょっとお願いしたいことがあるの……」

数歩は急に真剣な眼差しになり、修の目をじっと見つめる。そして頬をほんのり赤らめて、すぅと息を大きく吸い込んだ。

「なっ、なっ、何かな?」

 修の心拍数はますます上がった。


 こんなちょっと変わった出会い方をして、数歩は修にあんなことを告げたのだ。


「ごっ、ごっ、ご指導してって…………」

 修は動揺の色を隠せなかった。

「今から修くんを、私のおウチへご案内しまーっす!」

「うわっ!」

 数歩に右手をぎゅっと握り締められた。

 マシュマロのようにふわふわやわらかい感触が、修の手のひらにじかに伝わる。

「こっちです、こっちです」

「わっ、わわわわわ、ちょっ、ちょっと…………」

修は数歩にグイグイ引っ張られていく。

数歩の背丈は一五〇センチ台後半くらい。修よりも小柄だが、修は完全に力負けしてしまっていた。

あれよ、あれよという間に、園内出てすぐ東側にある阪急王子公園駅の構内へ。

「私、二人分持ってるんです」

 数歩は自動改札機に切符を二枚同時に入れ、修も一緒に通す。

修はこうして改札を抜けさせられホームへ上がらされ、梅田行き各駅停車に乗せられた。

まもなく扉が閉まり、阪急電鉄特有のマルーンに彩られた車体がゆっくりと動き出す。まだ夕方の帰宅ラッシュ時前ということもあり、車内はけっこう空いていた。数歩は修を、抹茶色に塗られた横向きの座席に腰掛けさせ、自身も修とぴったり引っ付くように座った。

「あの、そろそろ、手を、離して、いただけ、ないで、しょうか?」

「嫌です。せっかく出会えたのに。絶対離しません!」

 数歩はきらきらした目つきで修にそう囁いて、修の手をさらに強く握り締めた。

「そっ、そんな……」

 下手に抵抗して痴漢とかって叫ばれでもしたら困る、と危機感を持った修は、数歩にされるがままにされるしかなかった。

阪急王子公園駅を出発してから約十分後、

《芦屋川、芦屋川》

 この到着アナウンスが流れると、

「ここが私のおウチの最寄り私鉄駅です」

「わわわ」

 修はまた数歩に手をぐいっと強く引っぱられて電車から降ろされる。

阪急芦屋川駅の構内を抜けると、北東の方角へ。急な坂道を駆け上がりつつ閑静な住宅街を走り抜け、とある一軒家の門の中まで連れて行かれた。

「ここなんです、私のおウチ」

 数歩はようやく手を離してくれた。

「……つっ、疲れ、ました、かなり」

 修はゼェゼェ息を切らしながら、彼のすぐ目の前に聳え立つ二階建ての建物を見上げる。

 ベージュの外壁に黒色の屋根、こげ茶色の玄関扉。外観はごく普通であるが、ちょっぴり高級感の漂うおウチという感じだった。

「さあ、修くん。どうぞこちらへ」

「わわわ」

 修は再び数歩に右手を握り締められ、ズズズッと引っ張られていく。

「ただいまーっ」

 数歩は玄関扉を開けると、元気よく帰宅後の挨拶をした。

「おかえり、数歩」

 少し待つと、奥の部屋から一人の女性が現れた。

「お母さん、このお兄さんを、新しい先生にしよう!」

 数歩は修の右手を握り締めたまま、元気な声で伝える。

「へっ、へっ!?」

 修は目を大きく見開いた。

「数歩、そちらのお兄さん、かなり戸惑ってるわよ。事情をちゃんと説明してあげたのかな?」

 数歩のお母さんはにこにこしながら廊下を歩き、二人の方へ近寄ってくる。

「あっ、いっけなーい私ったら。ごめんね修くん」

 数歩はてへっと笑った。

「あっ、あの、ですね……」

 修は棒立ちのまま、口をパクパクさせていた。

「お兄さん、修ちゃんって名前なのね。汗たくさんかいてるわね。急な坂上らされて疲れたでしょう? ちょっと休憩していきなさい」

 お母さんに手招かれる。

「いっ、いえ。そっ、その、僕は……」

 修は慌て気味に断ろうとした。

「修くん、上がって、上がってーっ」

「わわわわわ」

 しかし数歩にまたも右手を引っ張られ、無理やり上がらされてしまった。

「修ちゃん、ここへ座って」

 お母さんに案内されたのは、リビング中央付近にある、小さなローテーブルをコの字型に囲むようにソファーが並べられてある場所。ローテーブルのすぐ横には、三二型のプラズマテレビが置かれていた。

すぐ隣のお部屋はダイニングキッチンとなっており、わりと大きめのテーブルと、それを囲むように木製椅子が八つ並べられてあった。

 リビングのソファーに、修と向かい合うようにお母さんが座る。

「はじめまして。ワタクシ、数歩の母、望月満由実と申します」

満由実さんは修に優しく微笑みかけた。

「はっ、はじめ、まして」

なんだよ、これ。新手のキャッチセールスか? だったら早く逃げないと……。

 修はおどおどしながらも、ぺこりと頭を下げた。

「ちなみに年齢は四三歳だよ」

「これこれ、数歩」

満由実さんは照れ笑いする。このお方は、ほんのり茶色みがかったセミロングのヘアスタイル、顔に皺は目立たず体型も数歩と似て痩せ型、とても四〇過ぎとは思えない若々しい風貌だった。声もハキハキとしており、二〇歳近くも若い修の方が老け込んでいるようにさえ感じられたほどだ。

「お客様さん?」 

 二階からもう一人、中学生くらいの男の子が下りて来た。三人のいる方へ歩み寄ってくる。

「そうだよ、修くんっていうの。あの子は私の弟の数雄くんだよ。中学二年生なの」

 数歩は嬉しそうに伝えた。

「どうも、こんにちは、修お兄さん」

「あっ、どっ、どうも」 

 その子に挨拶され、修は頭を少し下げて会釈した。

数雄はまた二階の自室へと戻っていく。姉の数歩と顔立ちがよく似ており坊ちゃん刈りで、背丈は一六〇センチくらいであることが確認出来た。

「修ちゃん、礼儀正しいわね」

満由実さんは感心する。

「いえいえ、僕決してそのようなことは……」

 修はすぐに謙遜した。

「修ちゃん、背広はまだまだ暑いでしょ? 今日なんか特に。脱いでお掛けになってね」

 満由実さんは笑顔で勧めてくる。

「いっ、いえ。僕、これで、ちょうどくらいですから」

本当は暑いけど、いざという時に逃げにくくなるからな。

 修は警戒して、身に着けていた背広とグレイのネクタイを外そうとはしなかった。ビジネスバッグも左手に持ったままだった。

「どうぞ、修くん。お代わりも自由にしてね」

 数歩がハーブティーとウエハースをローテーブルに運んで来てくれた。

修の目の前にコトンと置く。

「あっ、ありがとう、ございます」

あとで高額請求されたりしないだろうな。

修は礼を言うもそんな不安がよぎり、手をつけようとはしなかった。

「修ちゃん」

「はい。なっ、何でしょうか?」

 満由実さんに話しかけられ、修はやや慌てる。

「ちょっと、この問題解いてくれるかしら」

 いきなり数枚のプリントの束と、シャープペンシルと消しゴムを渡された。

「分かり、ました」

 修はシャープペンシルを手に取ると、言われるままに解いていく。

「修くん、頑張ってね♪」

 数歩も満由実さんの隣に腰掛け、その様子を見守る。

 プリントには国語、数学、英語、社会、理科。学校教育における主要五教科の問題が満遍なく散りばめられていた。

(一般常識テスト? その割には、簡単過ぎるような。小中学生レベルだし。数学は、高校レベルのもいくつか交じってるな)

 公務員試験用の対策もして来た修にとって、小中高生レベルの教養は当然のように身に付いており、楽勝だった。

 問題数は全部で三百問もあったものの、一時間足らずで全ての空欄を埋めてしまった。

「出来ましたけど」

 修はシャープペンシルを置くと、プリントの束を恐る恐る満由実さんに手渡す。

「ありがとう。二時間くらいが目安なんだけど、ずいぶん速いわね」

 満由実さんはそう言うと、解答欄が朱色で印字された模範解答用紙と赤ボールペンを取り出し、修の解答と照らし合わせながら採点を始めた。

 シャカッ、シャカッ、シャカッ、と丸をつける音が修の耳に飛び込んでくる。時折ピュンッと×を付けているであろう音も。

(なんで、こんなことを、させたんだろう?)

 修は当然のように疑問に思った。

「修ちゃん、三〇〇点満点中、二九二点よ。見込んだ通りね。上出来、上出来」

「おめでとう! 修くん」

 満由実さんと数歩は、とても嬉しそうに微笑んだ。

「あっ、どうも」

八問もミスったか。理科の天体の分野、連続で間違ってるし。

修はあまり嬉しくは感じなかった。

「ところで修ちゃんは、今どんなお仕事しているのかな? 見たところ、普通のサラリーマンっぽいけど」

「……いえ、その、僕は、スーツを着ていますが……無職です。大学を卒業して以来、ずっと」

 満由実さんから突然された質問に、修はびくっと反応したあと重々しく口を開き、俯き加減に打ち明けた。

「あらぁ、そうだったの。なら一層好都合ね。修ちゃんは、どこに住んでいるのかしら?」

 一瞬沈黙があった後、満由実さんは興味深そうに尋ねてくる。

「西宮市です」

「ここから近いのね。おタバコは吸う?」

「いえ、全く」

「パチンコや競馬、競艇などの賭け事、風俗店の利用は?」

「それらも、一切手を出したことはないです」

 修は訊かれたことに無表情で淡々と答えていった。

「まあ、とても品行方正な子ね。それじゃ、喜んで採用するわ。まさに探していた人材ぴったりだわ」

 満由実さんは満面の笑みを浮かべながらおっしゃった。

「えっ…………えええええええええええええええっ!!」

 すると修は目を白黒させたのち、驚愕の声を上げた。

「とりあえず、最初の二ヶ月くらいは試用期間ってことになるけど、他に仕事無いならやってみない?」

 満由実さんはとても親しげに誘いかけ、修の肩をポンッと叩く。

「あの、それって、つまり、僕を、雇って、いただける、ということ、なんです、か?」

 修は唇を震わせながら、言葉を詰まらせながら質問する。

「その通りよ」

 満由実さんはにこやかな表情で告げた。

「あっ、そういえば、どういった、職業で?」

 修は少し冷静さを取り戻し、肝心なことに気付いた。

「学習塾講師よ。先に説明しなくてごめんね」

「私のお母さん、ここで塾の先生してるんだ。私もお母さんの塾の生徒なの」

 数歩は嬉しそうに伝える。

「小中学生は主要五教科、高校生は国数英を受け持ってるんだけど、一人で教えるのがちょっときつく感じて来てね。特に、数学の出来る賢い子を探してたのよ」

 満由実さんは淡々と説明する。

「お母さんは、二〇歳以上から四〇歳くらいまでの人を募集してたんだよ」

 数歩は説明を加えた。

「新聞に、求人広告を出そうかと考えていたところなの」

 満由実さんはさらにこう伝えた。

「そうなん、ですか……学習塾講師……僕は、教員免許、持って、ないん、ですが……」

「塾の先生に教員免許はいらないわよ」

 戸惑う修に、満由実さんはにこにこ顔で伝えた。

「あっ、そうでしたか。大学教授は、いらないとは知っていたのですが。あの、僕は、筋金入りの口下手でして。家庭教師をした経験も、全くございませんし、こんな僕が、塾講師として、務まるので、しょうか?」

「うちの塾では、黒板の前に立って授業を進めていくというのではなく、自習形式なの。異学年の子を同じ教室に集めて、各自別々のテキストやプリントをやって、それを講師が採点、質問されたら解説していくというスタイルよ。だから全然問題ないわよ」

「僕が、イメージしていたのと違いますね。それでも、やはり、僕なんかに、務まるのでしょうか?」

 修はなおも不安が残り、再度尋ねてみる。

「修ちゃんなら、きっとやっていけるわっ!」

 満由実さんは彼を勇気付けるように言い張った。

「そうで、しょうか? あの、本当に、僕なんかを、採用して、いただけるんですよね?」

 修は怪訝な表情を浮かべ、冗談ではないのか確認してみる。

「もちろんよ」

満由実さんは優しく微笑みかけた。

「修くん、望月舎の新しい先生になって、なってーっ。私、修くんなら大歓迎だよ」

 数歩は強く望むようなしぐさを見せる。

「今日は木曜日ね。うちの塾の開塾日は火曜と金曜なの。修ちゃん、来週火曜からさっそく来てくれない?」

「えっ、あっ……もちろん、いいですけど」

「採用に当たって、履歴書と健康診断書を提出してね」

「分かり、ました」

 満由実さんからの要求を、修はやや戸惑いながらも引き受けた。

「母さん、新しい講師を雇うんだね」

 数雄がまたリビングにひょっこり現れた。

「あのう、きみも、ここの、塾に、通ってるのかな?」

「ボクは違うとこ。だって、母さんがやってる塾……女しかいないもん」

 修の質問に、数雄は少し間を置いて、不満そうに答えた。

「この子、照れ屋さんなのよ。一緒に勉強すればいいのに」

 数歩はにっこり微笑む。

「おっ、女の子、だけ、なん、ですか?」

 修は驚き顔で尋ねる。

「うん。うちの塾は今、かわいい女の子満載よ。半年ほど前までは数歩と同学年の男の子もいたんだけどね。その子も、女の子がいっぱいで居辛いからって理由でやめちゃったのよ」

 満由実さんは微笑みながら答える。

(周りに女の子しかいなかったら、そりゃあ居辛いよな。特に中学生男子にとっては)

 修には彼や数雄の気持ちがよく分かったようだ。

「あの、どれくらいの、規模の塾なのでしょうか?」

 修は続けて質問する。

「少人数制で、今は数歩を含めて五人受け持ってるの。下は小六から、上は高一までいるわよ」 

「そっ、そうですか……」

いろいろお話ししている最中、

「ただいまー」

 玄関から男性の声がした。

「お父さんだ! おかえりーっ」

 数歩は大きな声で叫ぶ。

「望月先生、たった今新しい塾講師が決まったわよ」

 満由実さんは、リビングへやって来た彼に嬉しそうに伝えた。

「ほう、そうか」

「こちらの子よ」

 満由実さんは修の方を指し示す。

 お父さんは修の方へ目を向けた。

「あっ、どっ、どうも」

修は慌ててぺこりと一礼した。

数歩・数雄のお父さんは痩せ型で背もそれほど高くなく、修と同じくらい。白髪が目立ち、面長なお顔でおっとりとした感じのお方だった。

「この修ちゃんって男の子、主要五教科のペーパーテスト、三〇〇点満点中二九二点も取ったの」

 満由実さんは嬉しそうに伝える。

「それはすごいね。いかにも真面目そうな子だし……会社員としては頼りなさそうだけど、満由実がやってる塾の講師としてならやっていけそう。数歩のこともよろしくね」

 お父さんは感心しながら修の身なりを見て、柔和な笑顔でのんびりとした口調で言う。

「えっ、そっ、その……」

 期待された修は動揺していた。

 望月先生。満由実さんが夫を呼ぶ時は、いつもこう呼んでいるらしい。彼は小学校の先生をしているからとのこと。

「ここのお部屋を教室に使ってるの」

 満由実さんは、玄関入ってすぐの所にある応接間へ修を案内した。

「けっこう、広いですね」

 修はそのお部屋全体をぐるりと見渡す。

 広さ十二畳ほどの和室だった。部屋中央付近に木目調の長机が縦三列に並べられており、一脚当たり二人ずつ座れるように配置されている。床が畳になっているため、イスではなく座布団が敷かれていた。長机の前には、学校にあるものと同じような教卓とホワイトボートも置かれてある。

「落ち着いた雰囲気の教室でしょ?」

「はい。茶道教室っぽくも見えます。あの、おばさん、僕のような、今まで六年以上も就職活動をして来て、企業から何百社も不採用にされ続け、公務員試験にも落とされ続け、どこからも雇ってもらえなかった、前代未聞の無能人間を、採用して下さり、誠に、誠にありがとうございます」

 修は満由実さんに向かって深々と頭を下げる。修の目には、ちょっぴり嬉し涙が浮かんでいた。

「いえいえ、何をおっしゃいます。こちらこそ大歓迎よ」

 満由実さんはにこっと微笑み、修の頭を優しくなでてあげた。


「それでは、失礼致します」

修は満由実さんからこのおウチへのアクセスマップ、塾概要、仕事内容の説明などが記載された書類を受け取って、ここをあとにした。

(ついに……ついに、採用されたんだな、僕。学校の勉強さえある程度出来れば、コミュニケーション能力が低くても採用してもらえる世界もあったんだ)

修はこれまで二七年間の人生で一度も味わったことの無い高揚感に包まれながら、JR芦屋駅へと向かって歩いていく。

(……待てよ、採用してくれると聞かされて、つい我を忘れてよく考えないまま了承の返事をしてしまったけど、これって……採用詐欺なんじゃないのか? 冷静に考えると、僕を、あっさり採用してくれるなんて、あり得ないことだよな?)

 帰りの快速電車の中で、修は急に不安がよぎって来た。

         ☆

「おふくろ、親父。僕の、就職先が、決まったんだけど……」

修は芦屋市のすぐお隣、西宮市内にある自宅に帰り着くとすぐさま還暦を迎えた母と、定年退職間近に迫った父に報告した。

「えーっ!! 嘘ぅ!?」

 母は目を丸くする。修の就職先が決まることは、もはや宝くじの一等を当選する以上にあり得ないことだと思っていたからだ。

「本当に……決まったのか?」

 父も同じような反応をした。

「うん。一応……」

彼からの問いかけに、修はこくりと頷く。

「何という名前の会社?」「初任給はいくらくらい?」「いつ創立されたん?」「資本金は?」「社員一人当たりの売上高は?」「社員数は?」「どういった事業を展開してるん?」

 父は次々と質問してくる。

「その、なんというか、普通の民間企業のように、他社と競い合いながら利益を上げるとかそういう感じのところではなくて、教育施設で……その、今日受けに行った会社は即不採用にされたんだけど、その、帰る途中に、女子中学生にここに誘われて、それで、簡単な筆記試験と面接を受けたら、あっさり採用されて…………」

修はそう伝え、父に満由実さんからいただいた書類を手渡した。

「学習塾の、講師をするのか!?」

父は少し驚いていた。

「そうなんだけど、この望月舎っていう学習塾、小中高生対象の、少人数制で、自習形式の塾みたい」

修がこう伝えると、

「それは良かったじゃないか。若い子ぉらに教養を教えるのは、なかなかやりがいのある仕事やぞ」

父の表情に笑みが浮かんだ。彼は私立中高一貫校に理科教員として勤めている。そのためか学習塾講師という職業にも親近感が持てるようなのだ。

「学習塾講師って……黒板の前に立って人前で話さんといかんし、指導力とか、コミュニケーション能力がけっこういるでしょ? 修ちゃん、そこで本当にやっていけるのかしら」

 母は少し心配になったようだ。

「まあ母さん、ここを見ると、修にとってぴったりの職業かもしれないじゃないか」

 父は笑顔で言う。

 仕事内容が説明されてある書類には、求める人物像:品行方正、素直で正直者、誠実、真面目で心優しい人と書かれてあった。

 まさに修のことだ、父は感じたのだ。彼が勤めている学校の生徒の中にも、この塾へ通っていた子がいるらしい。

そう聞かされた修は、今回の件は採用詐欺ではなさそうだと確信した。

(さてと、提出用の履歴書を書かなきゃ……これが、最後になればいいな)

 修は自室へ入るとすぐさま新品の履歴書用紙を取り出し、万年筆を右手に持った。丁寧な字で履歴書の各項目を埋めていく。

始めに日付、氏名、生年月日、満年齢、郵便番号、住所、電話番号を書き、性別欄の男に○を付ける。

次に学歴欄。修は小中高とも公立で、一浪後に国立大学へ入学した。そして講義にはいつも真面目に出席し、レポート課題も提出期限をきちんと守り、留年も休学もすることなく、きっちり四年で卒業。

 職歴欄には〝なし〟と記入。一行空けて右詰めに〝以上〟と書く。

これまで書き直しを含め、何百枚も書いて来た修の筆遣いは馴れたものだった。

 志望動機欄も記入していく。

(……どうしよう、思いがけず採用されたし、おばさんは空欄のままでいいって言ってたけど)

 ここは空欄のままにしておいた。

 資格欄他の項目も全て記入したあと、最後に証明写真を貼り付け履歴書は仕上がる。

(健康診断書、一応問題無いけど……)

 痩せてはいるが持病は一切無く至って健康。ただ、視力はかなり悪かった。裸眼視力は両目とも0.1未満だ。そのため彼は、度の強い眼鏡を愛用している。

(きっちりとは決まって無いんだな)

 修は塾概要を確認する。この塾は数歩が学校から帰ってくる夕方四時頃から夜八時頃まで教室を開放している。入室退室時刻、休憩時間は各自自由に設定して良いことにされていた。

 他の項目も確認する。望月舎は受験対策に特化した進学塾ではなく、学校の授業における苦手教科の弱点補強を主眼としている。けれどもここへ通ったことで、結果的に身の丈以上の志望校に合格を果たした子も数名いるらしい。

 教材は満由実さん手作りのオリジナルテキストやプリント、または市販のものを使用する。加えて、学校の宿題もやって良いことにされていた。

 設立は八年半ほど前。数歩が小学校へ入学したことを機に、満由実さんは経営を始めたらしい。これまで今のメンバーを含めて、二〇名近くご指導されたようである。


 午後八時半頃、望月宅ダイニングキッチンでは数歩、数雄、満由実さん、お父さん、家族四人全員揃って夕飯の団欒中。

「修くん、早く来ないかなぁ。楽しみだなぁ」

「とても信頼が持てる子だったね。僕も一目でこの子なら絶対任せられると感じたよ。あの霜浦修君っていう子、僕の若い頃に似てるなぁ」

「数歩、なかなかの逸材を見つけて来たわね。いまどき滅多にいないわよ、あそこまで良い子」

 満由実さんは柔和な笑顔を浮かべる。とても嬉しそうだった。

「私、一目見て不思議な魅力を感じたの。修くんは普通の人とはオーラが違うなぁって」

 数歩はてへりと笑った。

「でも、どうしてあんなにすごく真面目で良い人そうなのに、今までどこからも雇ってもらえなかったんだろう?」

「私も不思議に思ったよ」

 数雄と数歩は、ふと疑問を浮かべた。

「修ちゃんは誠実で謙虚で素直で正直者、品行方正な心優しい善良な子だと思うけど、不器用で自己主張が苦手で、お友達が少なくて他人と話すのが苦手な感じもしたわ。社会ではお友達がいっぱいいて体力があって、明るく活発で饒舌な子達の方が、多少性格が悪くても好まれるから、修ちゃんみたいなタイプの子達はなかなか仕事にあり付くことが出来ないのよ。無職の中で若い子は、ニートとか引き篭もりとかって世間では悪く言われてるみたいだけど、そんな子達でも仕事にすごくやる気のある子、仕事さえ与えられれば真面目に働く子はたくさんいると思うの。無職の若者には修ちゃんみたいな善良タイプの子もけっこうたくさんいると思うわ。世の中には人の悪口を言ったり、騙したり、暴力をふるったりお金を盗んだりが平気で出来るような、奸悪な一面がある子達もたくさんいるけど、そういう子達の方がリーダーシップやコミュニケーション能力、協調性、社交性が優れているとかって社会から高評価されて、就職もその後の出世も上手くいくケースも大人の社会ではよくあるものなのよ」

 満由実さんはため息交じりに長々と伝える。  

「確かにそうだよね。特に他社との競争が激しい民間企業では、素直で真面目一筋より、他人を見下したり騙したりを平気で出来るような人じゃなきゃ、生き抜いていけないからね。僕も民間企業じゃ絶対すぐにクビになってたよ。学校社会でも似たようなことが言えるかもね。真面目で大人しい子より、ちょっと素行が悪くても明るく元気な子の方が、クラスの人気者になれるからね」

お父さんも苦い表情で呟いた。

「お父さんの言うこと、私にも思い当たる節があるよ。私達が就職する頃には、修くんみたいな素敵な人が、もっともっと働きやすい世の中になればいいのにな」

「そうだね、お姉ちゃん。今の世の中は厳し過ぎるよ。みんな平等が一番だよね」

 数歩と数雄はこう強く願っている。

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