第3話 病の世界


 運が良くて助かる場合。すなわち生存率。それはもう天文学的な数字ですら扱えない、例外中の例外とされている。

 研究は常に進んでいるが、常に沼に入り込んで迷宮入りになっている。

誰もが、諦めと疲れの色で日々を過ごしていた。


 空も曇りが続く中、太陽の気配はずいぶんと遠のいて久しい。


 依頼人、坂上葉月。年齢は25歳。職業は医師。そう自己紹介された或亥は意外そうな顔をした。


「お医者さんでしたか」


「まだ新人だけどな……」


「とてもそうには見えませんね」


「どういう意味だ」


 国道沿いの道を歩きながら、葉月と或亥は「目的地」へと向かっていた。


「自分が医者なら、医者なりに何とかしたかったさ……でも、現代医療じゃ絶望的……奇跡に頼るしかねえってんじゃ、俺は今無職と変わらねえよ」


「……よほど、大切な方のようですね」


「……。こっちだ」


 葉月に案内されてやってきた一軒家は、広い国道に面した小さな家だった。二階建ての青い屋根、そして緩やかに玄関へと続くアプローチは規制線で遮られていた。


「大丈夫、俺は入れる許可もらってっから」


 そういって、葉月は鍵を取り出し規制線をまたいだ。或亥もまたごうとするが、くぐった方が早いとなり、仕方なく頭を下げて葉月に続く。


「今日は警察の人らはいねえよ。現場もそのまんまだ」


「それは助かります」


 家の中はひっそりとしていた。生活臭というものが感じれない、静かすぎる雰囲気だった。


「……「あれ」は二階にある。来てくれ……」


 或亥を振り返らず、葉月は二階への階段を上っていく。或亥は無言で後をついて行った。


「お二人は、同棲してらしたんですか」


「ああ……色々と前提にな」


 うなだれている背中がぼそりと答える。階段を上りきった踊り場には、左右に部屋が分かれ、その右側に、たくさんの規制線が張ってあった。

 人がくぐれる程度の高さに張られたそれを葉月はくぐって、ドアを開ける。それに或亥も続こうとするが、ドアを半ば開けたところで立ち止まる葉月の側で、或亥はかすかな腐臭をかぎ取っていた。


「これが……こんなんが……「かえで」だっていうのかよ……」


 一歩、二歩。おぼつかない足取りで部屋へと入り、膝を折った葉月の目の前には、腐臭を放ち、黒くわだかまるものが天井や壁にまで浸食の手を伸ばしていた。


 『繭化』。

 見た目通り、言葉通りの現象である。

 部屋の隅、ベッドの上には、大きな、人間サイズの巨大な繭がうずくまっており、今も黒い糸を周囲に伸ばし、または自身に巻き付け、「しゅるしゅる」と音を立てていた。


「うう……かえで」


「葉月さん、もう部屋から出た方がいい。『繭』の糸に触れると危険です。腐食に巻き込まれる」


 葉月は肩越しに振り返り、何かを言いかけたが、がくりと頭を落とし、大人しく部屋から或亥に付き添われて出た。


 一回のリビングはほとんど生活感や生活臭が感じられず、ダイニングのテーブルに腰掛け、うつむいたままの葉月は大きくため息をついた。


「悪い。……やっぱ無理だったわ。まだ、俺……」


「無理もありません。愛する人であったのなら、なおさら」


 或亥は向かい側の椅子を引っ張り、テーブルに着くと、ポシェットから小型の手帳を取り出した。


「いくつか聞かせてください。そして酷なことを思い出させてしまうと思います。そこは覚悟してください」


「……ああ」


「先ほどの『繭化』した……「かえで」さん、と呼んでいた方。その方は?」


「俺の、まあ恋人だよ。まだ婚約まではしてないけど、そのつもりでいた」


 幾分か回復したのか、葉月は顔を上げて前髪を乱暴にかき上げると、苦笑しながら「これでもプロポーズの言葉とか苦労したんだぜ?」と冗談めかして言った。


「ブライダル雑誌を買って見るのも楽しかった。式の予定なんてまだまだ先なのに二人で考えるだけで楽しかった。いつ入籍するかとか、スケジュールを立てて日取りを決めて……それだけで充実してた」


「その指輪は?」


「まあ、形だけはってかな。前約束だ。ペアリングだよ。婚約するまでの代用品だ」


「なるほど……。彼女は社会人ですか?」


「派遣だけどな。でも立派なオフィスレデイってやつだった」


「彼女は、何か精神的に追い込まれていたりしましたか? 例えば勤め先の会社でハラスメントを受けていたとか」


「いや……聞く限り、そういったことはない。警察にもそれは詳しく聞かれたし話した」


「……なるほど。私生活で何か苦痛に感じていたことも、心当たりは……」


 そこまで言って、葉月が疲れた顔で首を横に振ったので或亥は言葉を途中で終わらせる。


「な、なあ……この、『黒繭事件』ってさ……マジなのか? そういった、ストレスとかでなるって」


「一概にストレスだけで括れませんが、それも大きな要因であることは確かです」


 葉月には声だけで返し、手帳に書き込んでいく或亥はすらすらと答えていく。


「肝心なのは、その人の精神が不安定になってしまう……心が乱れてしまい、ダメージを受けてしまう。それが一番の要因なんです」


「せ、せーしんか……俺はこう……そういうの、図太いっていうか、疎いからよくわからねえけど」


 言葉を切って、葉月は指と指を組み、小さく息をついた。


「……かえでは、誰よりも繊細だった。他人の痛みにすら敏感で、気に病んで。見てるこっちが落ち着かないほどだ。優しすぎたんだ」


「……。そういう人ほど、『繭』になってしまうんです。自分の中にある、「楽園」が」


「……「楽園」……一応、聞かされてはいるけどよ……」


 葉月は頭を指先でこすると、頬杖をついて息を吐き出した。うろんげな目で、曇った窓の外を見る。


「そうですね。21世紀にもなった現代社会で、そんなオカルトじみたものを言えば、誰でも眉唾物に思うのが当たり前です。ですが、実害は出ている。……かえでさんがそうです」


「……分かってる。分かってるよ」


 若干の苛立ちを語気に交えて、葉月はまた前髪をかきあげ息を吐き出した。


「あれだろ? 人間の「心の中にある世界」。誰にだってあるってやつだ。形や規模は違えど。でも過度なショックや精神にマイナスの負荷がかかると、その「楽園」ってやつが歪んじまう。歪んだものが……」


 肘をテーブルの上に落とし、葉月はうなだれた。


「……かえでのあの様、なんだろ」


「いささか乱暴ではありましたが、概ねその通りの理屈です」


 とん、とボールペンを置き、或亥はうつむいたままの葉月に顔を向けた。


「改めて問います。かえでさんが何か精神的に苦痛に思うようなことや困っているようなことはなかった……少なくとも、一番近くにいたあなたからは分からなかった。そうですね」


「そうだよ。……笑えるだろ、くそったれ」


 葉月は顔を上げようとしない。それに或亥は何も続けて声を掛けようとせず、再び手帳に文字を書き込んでいった。


「警察からはどんな指示を受けましたか?」


「近づくな、としか言われてねえよ……」


「まあ、そうでしょうね。腐敗が進んでいます。あのままでは、『繭』は今日中には枯れ果ててしまうでしょう」


 淡々と言った或亥の言葉に、葉月が弾かれるように顔を上げた。


「なん……今日中って……!」


「それだけ「かえでさん」にかかっていた負荷が大きかったのでしょう。見ただけで分かるほど、あの『繭』は腐食しています」


「じゃ、じゃあかえではどうなるんだよ! このまま、もう戻らねえってのかよ!」


 葉月は立ち上がると勢いのままに或亥に詰め寄った。或亥は襟元をつかまれたままでも、口調は変わらずに答えた。


「そのために僕が来ました。『朝倉総合事務所』は僕の職場です。僕が、「かえでさん」を取り戻します」


「ど、どうやってだよ! さっきから聞いてりゃ知ったかぶりで他人事みたいに言ってやがって! てめえどうみてもただのガキじゃねえか! てめえなんかに何が出来るんだよ!」


「じゃあ、お見せしましょうか」


 葉月の勢い込んだ顔を映す瞳が、赤く染まった。


「これからお見せするのは、僕の「楽園」です。あなたを僕の精神の世界に招待します」


 葉月の足下が黒く変色し、波打った。寄せては返す、たゆたうそれは、まるで水面のようで、しかし底が全く見通せない。


「え……え!?」


 足下に広がった黒の水面にたじろぎ、慌てて或亥から手を離し周りを見渡した。

 言葉がなくなる。そこは、彼の見知ったダイニングではなかった。彼女と過ごした空間でもなく、勝手知ったる家の中でもなかった。

 

 水平線が青い空と暗い水面を区切り、世界を二分化している。その光景を見て、今自分の下に広がっているものが「海だ」と直感的に理解出来た。


「あ、あ……」


 空は青く真っ赤に日差しを投げかける太陽が輝いていた。晴天、快晴といえる、綺麗にはれた雲一つ無い青空であった。

 だが、何かが不気味な気配を感じさせる。

 太陽だった。晴れた太陽だというのに、何故かそれが「素直に晴れている」と受け取るには、綺麗すぎた。あまりにも、この晴天は、「露骨」なのだ。


 これ見よがしに「晴れている」と言っているような、現しているような。

 そんな不自然さが日差しの中に充満していた。


「葉月さん。坂上葉月さん」


 幼い声がした。

 額に張り付いた大量の汗を手の甲でぬぐう。


「あ……」


 温度はやや寒いくらいの室温で、ダイニングは電気もつけていないままだった。昼間だから、まだ薄暗い外でも家の中ぐらいは映し出してくれる。 

 そんな光景が、葉月にとって見慣れた光景であった。

「いかがでしたか。少しだけでしたけど、「楽園」にいた気分は」


 椅子に座ったままの或亥が、特に表情を浮かべずに言った。


「……らく、えん……今のが?」


「はい。もっとも、普通に暮らしていて人の「楽園」に入る、ということはありません。今のは特例だと思ってください」


 そういうと、或亥は手帳をめくり、複数の図や文章で書かれたページを開いて葉月に見せた。


「今のが「楽園」です。人の精神世界。心の中の世界。それを具体化したものです。しかし、本来は具体化していません。形のないものなんです」


「どういう、ことだ? ああいうのがあるって話じゃねえのかよ」


「はい。あるにはあるのですが、それは意識の底に沈んだ、「無意識の空間」なんです。しかし」


 と、或亥は手帳を葉月に見せて続ける。


「嫌なことや心に負担がかかることが続くと、この「無意識の空間」が具体性を帯びてきます。形になっていく……「硬度」が増していくんです」


「……「硬度」ってことは……そのもやもやっとしてるものが、形になる?」


「はい。つまりは、「楽園」になるということです」


「け、けどお前、今さっき見せたじゃないか。お前のは大丈夫なのかよ」


「ご心配ありがとうございます。僕は訓練を積んでいるので、その辺は大丈夫です。ですが、普通に生きている分にはそんな訓練など積む機会などありません。こわばった心はどんどんと「楽園」を頑なにさせ、具体化させていきます」


「具体化した心……「楽園」……『繭化』……」


 小さな点がふつり、ふつりと葉月の中でつながり始めていく。


「現代になって現れだした『繭化現象』、つまりは『黒繭事件』。ある意味現代病といえるかもしれませんね。ブラック企業や社蓄なんて言葉が当たり前になってる社会で雇用の約束も守られていない、安全神話が崩壊した日本。抑圧された人の心が耐えられなくなったのか。ここ数年で爆発的に生まれていった、「人間が繭になる奇病」……」


 椅子から降り、手帳をポシェットにしまうと或亥は葉月の背中に向けて言った。


「でも解決出来ないわけじゃない。一つはコールドスリープ。莫大な金がかかるが腐敗を阻止出来る。有効な手が見つかるまで確実に安全を確保出来る有効的な手段。一つは「自然復帰」。ごくまれに、繭の中から無事に元の姿で救出されることがある。だけど報告例はほとんど無く例外扱い。最後の一つは、「ハイ・ジャンプ」。『繭化』した当人の「楽園」に入り込む」


 或亥は肩越しに振り返った。まだ、葉月は動かないままでいる。


「この「ハイ・ジャンプ」は朝倉慎士が提唱した、もっとも危険な救出方法。今のところ、「ハイ・ジャンプ」が出来る公認の人間……『ライセンス持ち』は限られています。ちなみに僕は持っています。朝倉さんから託されて」


 ゆっくりと、焦燥しきった葉月が振り返る。奥歯をかみしめ、震える拳をそのままに、喉からかすれた声を出した。


「……頼む。かえでを、助けてくれ」


 頭を下げ、拳を開いて膝の上に乗せ、背中を曲げて葉月はすべてを吐露するかのように言った。


「もちろん、そのつもりです。かえでさんは、葉月さんにとっても大切な存在のようですから」


 或亥の言葉に、葉月は顔を上げる。或亥はダイニングに飾ってあった写真立てを見て言う。

 そこには、仲睦まじいカップルの笑顔が記録されてある。カメラに向けてピースサインをとる二人は、そろって左手を出し、ペアリングを強調させている。とても嬉しそうだった。


「……ああ。頼む」


 葉月は力ない言葉で、肩を落とし言った。



 続く


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