第4話 溺れた鏡
「聞き間違い、じゃないですよね」
珍しく、今度は或亥が目をぱちくりとさせる番だった。
「ああ、冗談でもねえ。俺も連れてってくれ」
かえでという女性の部屋の前。規制線を背にして、或亥は無表情のまま言う。
「ダメです。危険すぎます」
「ってえことは。無理じゃあねえんだな」
「……。あなた、意外と意地悪ですね」
若干口をとがらせる或亥だった。
「危険なのは百も承知よ。てめえの女が危機だってのに、人任せにしてられるか」
「気持ちは分かりますが、「楽園」の中に入る……どういうことか分かりますか?」
「さっき入ったじゃないか。お前の中に」
「それとこれとは話が違います」
意気込む葉月に向き直り、或亥は人差し指を立てて言った。
「さっきは僕が「迎え入れる」という前提で開いた「楽園」です。これから向かうのは「拒絶された楽園」です。当然、入ってこようとするものをすべて遮断しようとするでしょう。それは僕らのことも同じなんですよ」
「だとしてもだ。じっとしてられねえよ。それにお前みたいなちっこいのに任せっきりじゃあ俺の気がすまねえ」
「……小さくて悪かったですね。どうせ160cmですよ」
「あ……悪い……リアルな身長の話じゃなくてだな……えっと、その」
そっぽを向いた或亥は、首から提げていた細いチェーン状のものを外すと、葉月に放り投げた。葉月は慌ててそれを受け取る。
「それをつけていてください。簡易式のバリアーのようなものです。「楽園」の中に入っても、飲み込まれることはないでしょう」
「お、おう……サンキューな」
佇まいを直した二人は規制線をくぐり、再び腐臭が漂う部屋へと入った。臭いは、先ほどよりも更に強くなっている。『繭』はどんどんと濃く太くなり、部屋の一角を埋めていたものがもう部屋の半分を巣くうほどのものにまで「成長」していた。
「で、でかくなってねえか!?」
「これは……予想以上どころじゃなかったですね。よほど強い負の念に苛まれているのかも」
「な、なあ。もしこれ、このままにしておいたらどうなるんだ?」
「中のかえでさんは間違いなく死亡……その上……いえ、今は助けることだけを考えましょう」
「そう、だな」
「突入します。しっかり僕につかまっててください」
「わ、分かったけど、どうやって!?」
「僕も「楽園」を展開して、バリヤー代わりにします。だけどこうなったかえでさんの「楽園」の濃度は圧倒的に高い……長時間いたら、僕の「楽園」は浸食されて押しつぶされてしまうでしょう」
「時間との勝負ってわけか。いいぜ、やってやる!」
或亥の肩をつかむ葉月の手に力がこもる。或亥は小さく息を吐き、腹の底に力をためた。『繭』となった黒い塊を見据え、一歩前に足を踏み出す。
「突っ込みます。あの『繭』が具現化した「楽園」そのものです。変貌した、とでも言うべきでしょうか。だから見た目にだまされないでください。中は、とてつもなく深い」
「お、おう!」
或亥は渦巻いていく黒い『繭』にゆっくりと手を伸ばした。足下を、伸びた『繭』のかけらがすくい取っていく。腐臭がどんどんと強くなり、やがて視界は真っ黒なヘドロの中に落ちていった。
□□□
「いいか或亥。「ハイ・ジャンプ」は単に相手の精神体に侵入(ダイブ)するわけではない。あくまで表に出た「楽園」に入る場合のみ、だ。そこを履き違えるな」
「どういうことかと言うと、自ら乱気流に飛び込むということだ。命綱はない。大荒れの大海に身を投げ出す……その海原で、閉じこもってしまった当人を見つけ、連れ出す。そうすることで、初めて『繭』は解除される」
「そんな「内部」は人間の数だけある。平地なのか、荒れ地なのか、それとも地面があるかどうかすら分からない。そこで物を言うのが自分のもつ「楽園」だ」
「何事にも終わりはある。『黒繭化』した者の末路は知っているな。だが、その末路を利用し反動に変え、己を強化出来る術もある。それは……」
……さん。葉月さん。
遠くから声が聞こえる。幼い少年の声だった。まだまどろんでいたい。体は重く、頭も鈍い。思考がうまくまとまらず、寝返りを打った。
こつん、と固い感触が、次第に呼び覚まされていく意識の中で目立っていった。
「葉月さん。大丈夫ですか」
「ん……あ、ってて」
葉月は横たわっていた体をねじり、身を起こすと頭を振って、側に立つ少年、高杉或亥を見上げた。
「あれ……俺は……」
「ここはかえでさんの「楽園」の中です」
「楽園」。その単語が鈍っていた意識を一気によみがえらせた。葉月はよろつきながらも立ち上がり、しかしまだ感覚が戻っていない肉体は、彼に膝をつかせた。
「ぐ……なんだ、こりゃ」
ついた膝は、磨き輝いた鏡がしかれている。膝の部分だけではない。立ち上がり、周囲を見渡すと、地面は全てが鏡で出来ていた。
「これが……「楽園」……かえでの、心ってことか?」
呆けて空いた口がふさがらない。ガラスの地面からは塔のようなものが定期的に建っていた。それも鏡張りで出来た表面で、地面や、暗く濁った空を映している。
葉月は宙を仰いだ。空は、曇天の色をしているが、雲が見られない。ただ薄暗く、深い。
「あちらを」
或亥が視線で葉月に前方を見るよう促した。葉月は顔を正面に向けると、立ち上がりかけた膝をそのままに固まった。
「なん、だ……あれ」
一言で言い表すなら、「かまくら」を思わせる。平たい半円状の膨らみが、どしんと巨大な規模で鏡張りの地面に横たわっていた。
その「かまくら」の表面もまた、鏡で出来ている。
「何だよあれ。あんなでっけえの……」
「この世界で見えるもの、物質は全て人間の心で作られたものです。それがあんな風に膨らみ、頑強に構築される……まるで「シェルター」ですね」
「シェルター……」
ごくり、と喉を鳴らす葉月。その横顔は困惑の色で歪んでいた。
「もう一度聞きます。かえでさんが、こんなになるまで追い詰められたようなことに、心当たりは?」
「……今は俺が聞きたいぜ……」
今度は空笑いが葉月の唇をゆがめた。どうにでもなれ。そう言っているように見える。
それを横目で見ていた或亥はポシェットからぶ厚い皮のグローブを取り出すと、一歩前に出た。
「葉月さんはここで待っていてください。一度接触してみて、様子を見ます」
「様子を見るって、どうやって」
或亥は答える代わりに着けたグローブをゴツン、とたたき合わせた。固く鈍い、金属同士がぶつかり合う音が聞こえた。
「お、おいおい! 何する気だ!?」
「動かないで! もう僕たちは、彼女の「射程距離内」に入っているんです!」
鏡で出来た地面にひびが入った。場所は或亥が数歩前にいた場所だった。身軽なステップで地面を滑り飛び下がった。
ひびの入った鏡からは、鞭のようにしなる細長いものが飛び出した。「それ」が何であるか視認するには難しいほどの速度だった。
「ッふ!」
或亥は慌てず、鞭を迎え撃つように迎撃態勢をとり、両手を額の前に構え足を肩幅に開き、膝を軽く曲げてリラックスさせる。
しなった鞭は或亥が咄嗟に両手をクロスさせたグローブに当たり、はじき返された。
ゆらり、と動きを鎌首を傾げる蛇のように揺らした鞭の姿は、葉月にもようやく視認出来た。
「なんだぁ……根っこ?」
ゆらゆらと、先端を垂らし鏡の地面から這い出るそれは、或亥や葉月の慎重など簡単に超えるほどの大きさを持った、植物の根に似ていた。
茶色く、そして太く長い。
周囲の鏡がまたひび割れ始めた。今度は三つ同時に鏡の地面が陥没し、しなる根の鞭が姿を現した。大きさは変わらず、人間の倍はあるだろう。
「な、何だよこれ……何だって攻撃してくるんだ!?」
「さっき説明した通りですよ。僕らはこの「楽園」にとって異物なんです。有害と判断され、排除される雑菌のようなものなんです。とはいえ……ここまで固く心を閉ざしているなんて」
シェルターは根っこに阻まれ向かうことが出来ない。或亥はしばし押し黙った後、きびすを返して一気に走りだす。シェルターとは正反対の、真逆の方向へ。
葉月の手をつかんで、強引に引っ張り走り出した。
「お、おいおい! ど、どうするんだ!」
「一端逃げます!」
「は、はあ!? こ、ここまで来ておいて逃げる!?」
「ここまで来たからこそです。あそこまで強い拒絶の意志を示したのなら、強行突破しても意味がありません」
「わ、わけわかんねえよ! てめえ何とか出来るっていったじゃねえか!」
「だからこそ今は逃げて「楽園」から一度脱出します。もっと知らなければならないことがあります。いえ、あるはずです」
或亥は走りながらポシェットから小さな砂時計を取り出した。赤色の砂を宿した砂時計は、反転させると真っ赤に輝きだし、目を突き刺すほどの光源となった。
「目を閉じていてください!」
或亥は返事を待たないまま砂時計を後ろへと放り投げる。或亥たちが走ってきたすぐ側には、鏡の地面を割ってのたうち、身をよじらせ迫る根っこが追い迫っていた。
猪突猛進する蛇のような群の前で、砂時計が赤に世界を反転させる。赤い光はやがて透明になり、白く溶けて根っこの輪郭すら、まばゆいハレーションの中へと押し込んでいった。
続く
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