第9話 おやすみのチュー

 公園から帰り、リビングへ入った途端に、美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。


「ママー、ただいまー」

「ただいまー」

「おかえりなさい。もうご飯が出来ているから、二人とも手を洗ってきてー」


 麻理と共に洗面所へ行き、そしてリビングへ戻ると、食卓にクリームパスタとサラダが並べられていた。


「いっただっきまーっす!」

「はい、どうぞ」


 いつも通り、麻理が俺の膝に座ってパスタを食べ始める。俺も食べようとフォークを手に取り、


「いただきます。……あ、そうだ。さっき公園で見たんだけどさ、麻理に外国人のお友達が居たんだね。知らなかったよ」

「外国人のお友達? 誰の事かしら? レーナちゃん以外に居たっけ?」

「あ、やっぱりレーナちゃんだったんだ。俺、間違ってレナちゃんって呼んじゃってたよ」


 クルクルとパスタを巻きながら、正面に座る香奈さんへレナちゃん――もといレーナちゃんの事を話すと、香奈さんが怪訝な顔をする。


「間違って……って、レーナちゃんの事を?」

「え? うん。どうかしたの? 俺、何か変な事言った?」

「え、えぇ、ちょっとだけ。正面のお家に住むレーナちゃんの名前を間違えたなんて言うから、ビックリしちゃって」

「正面の家に住む? あれ? 真向かいの家って、長らく空き家だよね?」


 住宅街のド真ん中に、二階建ての一軒家が建っていて、昔はそこに同級生の女の子が住んでいた。

 近所に住んでる幼馴染みで、女子よりも男子とサッカーしたりするボーイッシュな子だったんだけど、親の転勤とかで突然居なくなっちゃって……って、あの子の事は置いといて、その家には誰も住んでいないはずだ。


「もー、直樹君ったら何を言っているの? レーナちゃんは、三年くらい前に引っ越してきて、麻理が幼稚園へ入る前から一緒に遊んでるじゃない」

「えっ!? そ、そうだっけ?」

「そうよー。ご両親が共働きだからって、うちで預かったりもしてるし、ほんの数日前だって、直樹君が二人を見ててくれたじゃない」


 俺が二人の面倒を見てた? いや、レーナちゃんを見たのは今日が初めてだ。もしも金髪の女の子を預かったりしたら、物珍しさで忘れるわけがない。それに香奈さんの話だと、麻理の幼馴染みだって事になる。

 ただの麻理のクラスメイトならともかく、俺が可愛い妹の幼馴染みの事を忘れるだろうか? いや、絶対にない!

 しかし、香奈さんはサラダにフォークを伸ばしたままキョトンとした表情で、嘘を吐いている感じではなさそうだ。俺の勘違いなのか?

 釈然としないまま暫くパスタを口に運んでいると、不意に麻理の手からフォークが落ちる。


「麻理? 寝ちゃった?」

「あ、さっき公園で走り回ってたから。疲れて寝ちゃったのかも」


 俺の胸にもたれかかり、スヤスヤと眠る麻理の頭を撫でていると、


「……マリ、ねてないもん」

「あ、起きた。麻理、眠いならお布団で寝よっか。直樹君がご飯食べれないよ?」

「やだーっ! マリ、おにーちゃんとねるっ!」


 麻理が眠そうに目を擦りながら、くるりと身体を捻ると、俺の胸にしがみつく。

 おねむで機嫌が悪くなっても麻理は可愛いなぁ。


「うん。じゃあ、お兄ちゃんと一緒にお昼寝しようか。香奈さん、麻理を寝かしつけてきますね」

「ありがとう。いつもごめんね」


 麻理を抱っこして自分の部屋へ戻ると、手早く布団を敷いて麻理を寝かせるのだが、


「いやっ! おにーちゃんのうえでねるのー!」

「はいはい。おいでー」

「おにーちゃん、ぎゅーってして」


 可愛く駄々をこねられてしまった。なので、寝転がって麻理を胸の上へ寝かせると、うつ伏せの麻理を両腕で抱きしめる。

 麻理が完全に寝付いたらリビングへ戻ろう……そんな事を思いながら、ぼーっと天井を眺めていると、視界の隅に一瞬青い光が映った気がした。

 何か光った? いや、気のせいか。俺も疲れてるみたいだし、寝ちゃおうかな。


「にいさま、にいさまっ。おきてくださいませ。レーナが、レーナ=フォルツがいたのです」

「……ん? 麻理?」

「なぜか、おさないすがたになっていましたが、あれはぜったいにレーナです」


 うん。レーナちゃんが、自分でレーナって言ってたからね。レーナちゃんは絶対にレーナちゃんだよ。

 あと少しで完全に寝そうな感じだった麻理が、何故か突然喋り出す。

 まぁでも、よく分からない事を言う麻理も可愛いよ。よしよし。

 ぎゅーってしてと要望されていたので、麻理の背中に乗せた両腕は動かさず、手首から先だけを動かして、麻理をなでなでしてあげる。


「ひぃぃぃっ! にいさまっ。そこは、おしりですぅ! ……そ、それより、このうでをはなしてください。おさないころから、まほうがつかえたレーナなら、いまのすがたでも……」

「うんうん。レーナちゃんとは、お昼寝から起きたら遊ぼうねー」

「にいさまぁ……そうだわっ。うえがダメなら、まえよっ!」


 麻理が一人で何か呟いたかと思うと、俺の胸の上でズリズリと身体を動かす。

 ゆっくりと、だが確実に俺の顔へと近づいてくる。これは……なるほど。そういう事か。


「もー、麻理ったら。お兄ちゃんと、おやすみのチューがしたいのなら、そう言えば良いのに」

「えっ!? チュー!? えっ!? えぇっ!? えぇぇぇっ!?」

「はい、チューっ!」

「えぇぇぇーっ! そ、そんな……やっとハグになれてきたのに、とのがたとキスだなんてぇぇぇ」


 ズリズリと俺の顔へ近寄って来た麻理の頬へキスをすると、突然電池が切れたかのように、麻理がぐったりと動かなくなった。

 おやすみのキスをしないと眠れないだなんて、急におませさんになったなぁ。やっぱり四歳になったからかな?

 そっと麻理を布団へと降ろすと、俺は残りのパスタを食べるために、リビングへと戻る事にした。


……


「麻理ー、ただいまー! 麻理の大好きな、パパだよーっ!」


 午後七時。既に夕食を終え、愛らしい動物のテレビ番組を視ていると、父さんの大きな声がリビングへと届いた。


「あ、おにーちゃん、みてー。ねこちゃん、かわいいー」

「ホントだ。可愛い猫の赤ちゃんだねー」


 大好きな猫が映り、麻理がテレビへ釘付けだというのに、父さんが麻理とテレビの間に割り込んでくる。


「はっはっは。そんな毛玉よりも、麻理の方が可愛いぞっ! 何と言っても、パパとママの娘だからなっ!」

「パパ、どいてー! マリは、ねこちゃんみてるのー!」

「そんな……画面に映る二次元の毛玉なんて視なくても、すぐ傍に大好きなパパが居るじゃないかっ!」


 麻理に向かって両手を広げた父さんが、抱っこしようとして近づき、


――ぺちっ


 テレビから視線を逸らさない麻理に、ノールックで手を叩かれていた。


「とりあえず、麻理の好きな猫の事を、毛玉呼ばわりしている時点でダメだと思うけど」

「ぐっ……確かに、それも一理あるか。あ、そうだっ!」


 何かを思い出した様子の父さんが、慌ててリビングから出ていくと、香奈さんが苦笑しながらキッチンへと移動する。

 そして数分の後、父さんが何かを手にして戻って来た。


「麻理ー! ほらほら、見てごらん。猫耳だよー!」

「あ、ねこちゃんのみみー!」

「そうだよー。麻理も着けてみようかー。きっと、更に可愛くなるよー!」


 丁度CMだった事も手伝って、父さんの持ってきた黒い猫耳カチューシャと尻尾に麻理が興味を持ったようだ。


「って、そんなものどこから持って来たんだよ!」

「決まっているじゃないか。父さんの私物だ」

「いや、そんな堂々と開き直られても。そんなのどうするんだよ? 父さんが、そんな物を持っている事を香奈さんは知っているの?」

「あたりまえじゃないか。むしろ、香奈もノリノリで……ごふぁっ!」


 唐突に、どこからともなく飛んできたフライ返しが父さんの顔面に直撃する。


「あ、あら。ごめんなさい。私ったら、つい手が滑っちゃって」

「か、香奈。滑ったという割には、どストライクだった気がするんだけど」


 左手に父さんの夕食が乗ったお皿を持ったまま、香奈さんが父さんの傍へと近寄って行くと、


「あら、大変! あなた、顔が腫れているわ。早く手当しないと」

「いや、痛いけど、腫れてるとは思えない……」

「あ、な、た。一旦、奥の部屋で治療しましょう……ね」

「……ひゃ、ひゃい」


 父さんが怯えた表情で、猫耳と尻尾を持ったまま逃げるようにリビングから姿を消す。

 その後を、拾ったフライ返しを握りしめた香奈さんがついて行き、


「あ、麻理も直樹君も、お風呂の準備が出来てるから入っててねー」


 廊下から、いつもより過剰に爽やかな香奈さんの声と、何故か棒状の物が風を切るような音――何かを素振りするような音が届いてきた。

 うん。何となく怖いから、今日は早く寝よう。

 いつも可愛らしい女性でも、怒らせると怖い。

 数少ない父さんの背中から学んだ事を胸に、麻理と早々に就寝する事にしたのだった。

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